第25話 そうやって生きてきた。オーガットの人間は、みんな。
あれだけ騒がしかったはずの食堂は既に見る影もなくなっていた。寸銅鍋でも洗っているのだろう。厨房は依然として水道水をアルミに、水道水をステンレスに打ち付ける音を響かせているが、その音にかつての焦燥感はない。彼らの激動の一日を慰労するように、小窓から柔らかな蜜柑色の陽が注ぎ込まれている。
戦争で家族を失い、路頭に迷っていた少女と少女。
それが十年前の水無月夏希と木之本梓だった。彼女たちはたった二人で生きてきたらしい。
いつか、僕が魔術について尋ねたとき、夏希はトラウマを抱えた誰かのために僕に怒ってくれたんだっけ。夏希も、木之本さんも、きっと兄分だって、誰一人戦争を恨んでいない人間なんて居ないはずなのに。たった二人で、焼け野原になったらしいこの国を懸命に生き抜いたというのに、僕は、僕はそんなことも知らないで。
「……そんな顔すんな。あいつらは同情して喜ぶようなタマじゃねえ。それに、今時親がいないなんて珍しい話でもねえしな。現にてめえもどごぞの爺さんに拾われた身なんだろ? その幸って変人と一緒に」
親がいないなんてありふれたことだ。そんな残酷なことを、兄分は無表情に語る。
僕はこのファンタジー世界の新参者だから大手を振って主張できることなんて一つとして有りはしないのだけれど、僕はこのとき、明瞭にこう思った。そして、気づけば声を荒らげていた。
「そんなの、間違ってる。ゼッタイ」
大手を振って主張せざるを得なかった。
「……みんな、同じなんだ」
兄分がぼそりと呟く。
「失ったもんは戻ってこない、そりゃ正論だけどよ。実際そんな風に割り切れるわけねえだろ? でも割り切らなきゃダメなんだ。家族を失ったって、友人を失ったって、手足を失ったって。戦争を憎んでいたら前に進めない。怒りも悲しみも全部乗り越えなきゃならない。どうしても割り切れねえなら、せめて
「………………」
たしかに間違いかもしれねえけどな、と加えて。
兄分は僕から目を離そうとしなかった。瞬きひとつしなかった。ほんと、あのポアンとした瞳はどこにやってしまったのか。
誇張するわけでも勇み立つわけでもなく、ただ平然と、それが現実なのだと兄分の瞳が語っている。果たしてその瞳が見据えるのは十年前の戦火か、それとも再興した未来か。どちらも正しいようで、どちらも間違っているような気がした。
「……まあ、どうしても割り切れねえようなら俺に言ってくれ。オレ含め、そういう生き方を選んだ連中もいないわけじゃない」
「それって、どういう」
「だって記憶喪失の原因は十中八九戦争が噛んでるんだろ? だから、てめえはもっと被害者面しても良いんだってこと。これ、もーらい」
木之本さんが残したさくらんぼを遥か上空に投げながら言う。なんだか微妙に話を逸らされたような気もするが。それを器用に口でキャッチしたかと思うと、すぐに消化はせず、舌の上で転がしながらこちらを見る兄分。頬を膨らませながらじっとこちらを見ている。今度はポアンとした瞳で。
「ん、甘ぇ」
おもむろに立ち上がる兄分。今日起きた一切合切を追想するように大きく一呼吸した兄分は、二呼吸目の吐息混じりに僕に告げた。
「帰るか」
「…………そうだね」
結局のところ、夏希と木之本さんの喧嘩に僕らが出来ることはないのだから、大人しく帰るしかないのである。えらく人が減ってしまったものだと思いながら二人で食器を片す。ごっそーさんと声を張り上げる兄分の背中は、もう昨日とはまるで違って見えた。
スタスタと食堂の門扉を抜ける兄分を蜜柑色の陽が、照り映える紫雲が歓迎している。僕はそんなノスタルジーに当てられたのか、急に腹の奥底から何かが込み上げてきて、醜いものを吐きだした。
「ねえ、兄分」
「なんだ」
「……今日も、忘れ物するの?」
言って、すぐに後悔した。秘密を共有することが友人の定義ではないことは分かっていたはずだった。秘密を受容できる器量の方が、よほど大切なのに。
「……ああ、今日はペンケースを忘れそうな気がするな。あれがないと今日の講義の復習ができねえ」
「そんなの持ってきてないじゃん。講義だって受けてない」
それでも悠々と躱す兄分に、無感情に虚偽する兄分に、思うところがないわけではなかった。早口に言い立てる。少し清々した気になっている自分が嫌いだ。
「……悪い。でもやましいことしてるわけじゃねえんだ、信じてくれ」
「それはさ、分かってるつもりだよ。でも、何か手伝えることあったら、言ってほしいんだ」
手伝えることがあったら。正直、そこまで頭は回っていなかったが、曲がりなりにも上手いところに着地できた気がしてほっとする。
「手伝えることか。まあ、そのうち出てくるかもしれねえけど。今はねえな。皆無だ」
「そう」
「弟、俺はこう見えて忙しい、夏希の百倍。これ、伏線だぜ」
「ふ、伏線?」
兄分がニヤリと笑ってみせる。僕が声を荒らげたことは微塵も気に障っていないらしい。それが兄たるものの器量だった。
「ついでにこんな言葉も覚えとくんだな。夏希は俺の百倍暇、あとバカ、超バカ」
「なんだよそれ」
そんな私怨の篭った伏線に、僕の口元が思わず緩んだ。兄分も笑っている。夕陽も相まって、実に友人らしい、青春らしい光景だと思った。
「じゃあな、またあした」
「うん、またあした」
もしかすると「またあした」という言葉を兄分と交わしたのはこれが初めてかもしれない。僕はなんだか嬉しくなって、早足に歩き、いつしか駆け出していた。
――――ところで、どころか打って変わってという感じなのだが、人間の記憶力なんてものは一切信用してはならない。記憶喪失で現在迷走中の僕が言うのだからこれ以上の説得力もないというものだが、しかしそうでなくても、僕たちは一期一会という言葉をもっと重んじる必要がある。親友だろうが恋人だろうが家族だろうが、もう会えない人のことは、忘れゆくしかないのだから。
人はまず声から忘れる、というのは有名な話である。だから僕はこのとき、もっとよく聴いておかなければならなかったのだ。彼のその嗄れた声を。彼が初めて口にした、別れの挨拶を。その一切の心情を汲み取り、脳内で幾度も
爀者―カガリモノ― えなどりまん @haruokahatio
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