第24話 ……ぃたくない。

 友達に対して異変だなんて表現をする人は、主に道徳的観念から非難されるべきだと思うけれど、然るべき私刑、所謂炎上を受けるべきだと思うけれど、とにかく木之本さんの様子がいつもと違うことはすぐに分かった。なんというか、すごくイライラしていた。きちんと僕らと同じ机に腰を下ろしたわりには、話しかけてもうんともすんとも言わないので、僕らは突拍子もなく探偵ごっこを始めるほどには彼女を気遣っていたのである。いや、兄分は本気で遊んでいただけかもしれないが。


「なあ、そろそろ説明しろや。夏希は今どこにいるんだよ。俺だって、あいつを心配する気持ちがないわけじゃないんだぜ?」


 兄分が自分の言葉を一音一音確かめるようにして木之本さんに問いかけた。木之本さんが夏希の居場所を知っている? どうしてそう、……いや、。僕の大切な大切な、たった三人の友人の一人の所在よりも、なんてことのないことに僕は目を奪われた。


 僕は兄分の発言の真意を問うために口を開いた。が、今の兄分に声をかけるなんて、できるはずがなかった。きっと誰だって憚られるだろう。全身の神経という神経が欠落しているような、それこそ現在行方知れずの女魔術師でもない限りは。しかし、無神経の彼方へと旅立ってしまったのか、その唯一無二の彼女こそが行方知れずなのだから、きっと、今の兄分は無敵だ。


 兄分はただ、ただ木之本さんを見詰めていた。もちろん顔色を窺うといった様子では、鼻息を窺うといった様子ではない。しかし目を笑わせているのではない、顔を綻ばせているのではない、かといって眉をひそめているわけでもなく、顔をしかめているわけでもない、そんな表情で。


 思わず息を呑んだ。兄分は一途に夏希の行方が心配なのだろう。きっとこの表情も、夏希を心配するが故の、真正直で直向きな行動だ。しかし、いつもの兄分とはピッタリ百八十度テイストが違うそのあまりのギャップは、木之本さんにとってこれ以上ない詰問になり得ただろう。これはもう、僕が改めて説明することではないのだが、普段の兄分は良く言えばあっけらかんとしているというか、悪く言えば食うことと寝ることしか考えていないというか、まあとにかくちゃらんぽらんな様子以外を決して見せない人である。だから僕は愚かにも、それが兄分という人間の全てなのだと誤解していたのだ。ピエロの素顔を覗き見てしまったような、幼い子供が流暢に敬語を使っているのを目撃したときのような、そんな拍子抜けしたのか感心したのかよく分からない感情が一斉に降りかかった。そうか、兄分もこんな顔を持っているのか。そんななんてことのないことに、僕は心底驚いてしまった。


 一種の凄みすら漂わせる兄分に、木之本さんは虫の居所が悪そうにして、手元のさくらんぼから目を離そうとしない(ここでいうさくらんぼとは、彼女が毎日のように注文している杏仁豆腐に付随しているさくらんぼのことであり、あたかもデザート界のデザートであるとでも言うように、大量のフルーツの中で主役顔をしている巨大さくらんぼのことである。大学の食堂に杏仁豆腐があるというのはさすが国営桃源郷といったところだが、ここまで頑なに杏仁豆腐を注文しているのは彼女以外に居ないだろう)。


 彼女はよほど夏希の事情を語りたくないのか、それとも事情なんて露ほども知りはしないというのに自信満々に尋ねてくる兄分をからかっているのか、意外にもイタズラ好きな彼女の性格を考慮するとどちらが正しいのかは判断しかねる。二人の間に緊張感、とも少し違う何かが漂っている。だが、虫の居所が悪いのか、それとも虫の居所が悪そうなフリをしているだけなのか、どちらにしてもそんな腹の虫すら睨み殺してしまいそうな兄分の鬼気迫る表情に彼女が無言を貫けるとは、僕にはどうしても思えないのだった。本日一言も発していなかった彼女が、遂に口を開いた。


「…………ぃたくない」

「んあ、なんだって?」

「…………言いたく、ないのっ……!」


 ――ここまで語ることはなかったが、僕らの溜まり場である長方形のテーブルには四つの丸イスが二つずつ、長方形の長辺に設置されている。僕と夏希、兄分と木之本さんがそれぞれ横並びになるように座っているので、僕はテーブル越しに兄分と木之本さんの一連のやり取りを静観していたことになり、更には、兄分と木之本さんの間にはテーブルのような遮蔽物がなかったということになる。涙ながらに叫んだ木之本さんは、兄分との間に遮蔽物がなかったのを良いことに兄分の胸をポカポカと叩いたかと思うと、兄分の太腿に頭を埋めた。兄分はまるで透明の尻尾を踏まれたように飛び跳ねたが、木之本さんを膝蹴りしてしまう危険性に気付いたのか、器用に上半身だけをのけぞらせた。


「お、おいっ! 恥ずい恥ずい恥ずい恥ずい恥ずい、恥ずいって!」


 兄分、耳まで真っ赤である。


 今日はつくづく発見の多い日だ。僕の知る木之本さんは、自他共に厳しくて、甘えとか緩みとかそういう概念と最も対極に位置する凛とした人……だったけれど。兄分の懐でうずくまっているこの人は、さて、本当に彼女なのだろうか。実は双子の妹でしたとか、そういう陳腐なオチではなかろうか。背中を丸めて、肺に穴が開いているかのように不規則に嗚咽する彼女の掠れ声は、だがしかし、食堂の喧騒に掻き消される。顔を両手で覆い隠して、小さな肩を細かく震わせている彼女を見ていると、僕まで息が詰まりそうになった。


「……な、なんだよ、言いたくねえんならそう言えよ」


 ……兄分、それは割と無茶な要求である。真っ赤になった兄分は、巨大さくらんぼを見つめながらぼそっと呟く。


「わ、悪かった。ゴメンな、ほんとゴメン。だからさ、あんま泣くな」


 どこまでも弱々しく、このまま小さくなって消えてしまいそうな彼女の頭を、兄分はぽんと叩き、優しい声で言った。この声も、僕が聞いたことのない、どこまでも優しい声だった。


「…………もう、帰るっ……」

「がはは、うん、そっか。じゃあ、またあした」


 いつもはお邪魔虫のように扱っている兄分に優しくされるのに耐えられなくなったのか、彼女は投げやりにそう言った。兄分が彼女からそっと離れると、彼女は俯いたまま野良猫のように走り去っていった。


 残されたのは、何もなかったように椅子に座りなおす兄分と、やっぱり何も出来やしなかった惨めな僕。そうだ、結局僕は、今だって何の役にも立たなかった。


「……どうやら、答えはひとつに絞られたみてえだな」

「え?」


 兄分が彼女の消えた食堂の大扉を寂しげに見つめたまま、それでいて声だけはあっけらかんとさせて言った。その顔と声があまりにも不一致なので、僕はうまく聞き取れなかった。


「夏希は顔出さねえし、梓もあんな感じじゃあ、思い当たることなんてひとつだろ」


 どう返答したらよいものかと思案していると、兄分はそんな僕の困惑を察したのか、それとも自分の顔に張り付いた寂寥せきりょうの妖怪を発見したのか、むしろ普段よりも口をくわっと大きく開いた。それはそれは間抜けな顔だったが、間抜けが製造される過程を目の当たりにした以上、僕はいつものように兄分を見ることはできなかった。


「クイズだクイズ! 夏希はどうして顔を出さなかったのかクイズの答え」

「あ、ああ……クイズ……」


 僕は慌てて兄分の話に合わせた。どうして慌ててしまったのかはわからないけれど。


「ズバリ、その答えはッ! …………まあ、おおかた口喧嘩でもしたんだろうぜ」

「喧嘩……って、夏希と木之本さんが?」

「他に誰がいるんだよ」

「でも昨日、僕が駅前で二人と別れるまでは険悪な感じじゃなかったぞ」

「いや、だからその後に……って」

 

 そこまで言って、兄分は「んむう?」と首をかしげた。そして頭を右に左に倒した後、「ああ、そうか」と納得して僕をぽけえっと見つめた。


「てめえ、知らねえのか。そうかそうか、俺はハナから知ってるもんだと」


 知らない? 僕は何を知らない? 僕はやはり無知で、無知を理由にみんなに迷惑をかけているというのか。


「……なんつう顔してんだよてめえは。心配しなくても俺の推理は間違っちゃいねえぞ」


 僕はずいぶんとひどい顔をしていたらしく、兄分が呆れ顔で僕を覗き込んだ。


「俺の推理通り、あいつらは昨日喧嘩していたんだと思うぜ。いや、正確には昨日じゃなくて今日の朝かもしんねえけど、とにかくてめえと別れた後だ」

「それは……ますます意味が分からない」

「はやるなや。こっからが新情報だ。あんま勝手に言うことじゃねえけど、まあお前は俺らの仲間だかんな」


 ――――そんな気恥ずかしい前置きをした後。兄分が人差し指をピンと立てて語る。


「夏希と梓な、戦争のときに親死んじゃって、それからずうっと二人で暮らしてるわけ。帰る家が一緒なんだから、お前と別れた昨日の晩から朝にかけて、好きなだけ喧嘩し放題だろ?」


 それが名探偵兄分の推理、そして僕の知らない彼女たちの一端だった。

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