Re:ピアノ

藍川澪

Re:ピアノ

 大人というのは汚いもので、特に中学生という思春期真っ盛り、体力も気力も有り余りその発散の方法を少し間違えれば途端に非行少年などと言われる扱いにくい年代の子どもたちを集めた場所では、より大人たちでの管理を厳密にしたがるようだった。三年間のクラス替えを経ても、毎年の合唱コンクールの伴奏者に事欠くことがないように、例年伴奏を行う生徒がうまく各クラスにばらけた生徒名簿を見て、春のぼくは溜息をついた。

 ぼくだってピアノをやっているのだが――というか、クラスの大半の女子生徒はピアノを習っているのだが――伴奏者としての適格はないと大人に判断されたのかもしれないと思わざるを得なかった。今となっては大人たちの真意がどこにあったのか、ただの偶然だったのかもしれないし作意があったのかもしれないし、それは判然としない。それでも合唱コンクールの季節を前にして、ピアノの伴奏者を決めますとのたまう学級委員長の声は、もう結果を知っているようだった。立候補などという差し出がましい真似をせずとも、絶対誰かがクラス編成の時点で決まっていた伴奏者を推薦する。クラスの満場一致でその生徒に決まる。出来レースというやつだ。ぼくは三年に上がるころには、もう対抗することすら諦めていた。だって、クラスの誰一人、ぼくのピアノを聞きたいと思っていないのだ。強烈な否定だ。ぼくの役割はピアノを弾くことじゃない。クラスのブレーンであることだ。それだけしていればいい。ぼくの価値はそこにしかない。それ以外は何もできない。

 管理された学校内での役割というのは、一見して明瞭かつ単純ではあるが、子どもたちの役割外での個性を悉く踏みつぶす。賢い子はブレーンであればよい。運動ができる子は体育の時間のエースであればよい。ピアノが弾ける子は合唱コンクールの伴奏者。人気のある子は学級委員長。一対一の役割分担を外れることは許されない。たとえば、運動ができる子が実はピアノも弾ける、とかだとしてもピアノを弾くことは許されない。ピアノが弾ける子は別にいて、その子に伴奏者という唯一無二の役割を譲るしかないのだ。だから、運動ができる子のピアノは求められていない。そういうことだ。

 さて、兎にも角にも合唱コンクールの伴奏者と指揮者は決まった。この場合、指揮者は「前に立って手を振る役割」のみを指すので、さしたる資格が求められない代わりに影が薄い。音楽的な指揮者の役割は伴奏者が担っている。ぼくのクラスの伴奏者は女の子だった。名簿番号ではたまたまぼくの後ろだ。幼稚園の頃からよく知っている。ピアノが上手で、お金持ちの家の一人娘。地域ではちょっとしたお嬢様。そしてぼくがこんな斜に構えたものの見方をしながら話すことすら躊躇われるほどに気立てがよく、陰気なぼくにも分け隔てなく話しかけてくれる子だった。

「あなたがソプラノ歌ってくれて、嬉しいな。音程がいいから、周りの子が合わせやすいもの」

 彼女はそう言って笑った。ぼくがピアノをやっていることは彼女も知っている。音程がいいのは当然だ。ぼくは悲しいような気もしつつ、彼女には笑い返すことを選んだ。

「ありがとう。……ソプラノ、足りなかったものね」

 実際のところ、歌う曲のソプラノの音域はぼくの声にはやや高く思われた。だから最初アルトにいたのだが、ソプラノとアルトの人数が不均衡になってしまう。男子は一パートだから何も考えなくていいよな、まあもっとも音楽の素養のない奴らが多いからその方が単純でいいか、などと少しばかりの憎まれ口を心の中で叩きつつ、ぼくは「じゃあソプラノに行きます」と手を上げたのだ。たぶん、アルトの中で一番器用に音程が取れるのがぼくだった。まあ、結果としてアルトが若干のパワー不足になった感じは否めなかったが、中学の合唱コンクールくらいでは、アルトの実力はどのクラスもどんぐりの背比べ、つまり内気で声の小さな女の子が集まりがちで、評価のしようがないと思うのがぼくの私見だった。それなら、より目立つ旋律のソプラノを強化して、インパクトや音程の良さを直接的にアピールした方が高評価を狙えると考えた。ぼくはクラスのブレーンだから、それくらいまでは考えられる。無論、こんなこと口に出そうものなら全クラスのアルト女子によく思われないだろうし、絶対に言わない。別にきみたちの人間性を否定しているわけじゃないんだが。大人たちとぼくは違う。

 練習は退屈だった。ぼくは後ろの方に立って(クラスの女子の中では背が高い方だったのだ)、言われるがままに何度も歌い続けた。やや高いと思っていたEの音も、それなりに安定して出せるようになってきた。周りの音は雑音だった。特に男声は音程の一貫しない唸りのようで、聞くに堪えないものだった。まあ、声変わりしたばかりの音楽的訓練もされていない少年たちに、下積みもなしに数週間で安定した音程を求める方が無理難題なのだが……。加えて、その年代の少年たちは、狡猾さを覚えて大人の言うことを聞くようになった少女たちと比べやや幼く、言うことを聞かないのが美徳みたいな共通認識がある。馬鹿な子たちだ。大人の言うことが気持ち悪かろうが、とりあえず言うことを聞いておいた方が後で得をするのに。ぼくは優等生だから、ここぞと言うところで少年たちに喝を入れた。普段陰気な優等生に怒られると簡単に萎縮するのを、ぼくは計算ずくだった。気持ちの良いような、気持ちの悪いような。少年たちの驚く顔を見て、ぼくは薄暗い優越感に浸った。普段粗暴で愚かな少年たちも、あまりに意外過ぎる相手には力でねじ伏せるという選択肢が咄嗟に思いつかないのか。それとも、彼らが幼すぎるのか。どちらにしても、ぼくのしたことは正しいとは言えない。怒りも、正義も、この教室の中でしか通用しない。その愚かしさ、馬鹿馬鹿しさをわかっていながら行使したぼくが、一番愚かだ。

 彼女のことに話を戻そう。彼女は実に熱心に、合唱の指導をした。音程、音量の不均衡、際立たせるべきパート……。彼女の指摘は逐一的確で、自分の弾くピアノと合唱の声をよく聴いていた。そして彼女はクラスの全員のことをよく見ていた。名指して指導することはなかったけれど、後に彼女はクラス全員の個人個人に向けて手紙を書いた。彼女はクラスの全員を大好きだと言った。ぼくは耳を疑う気持ちだった。ぼくの音は誰にも聞かれないと思っていた。少年たちの声は聴くに堪えない不協和音だった。そんな集団でも、彼女は好きになれたのだ。その場の勢いでもなんでも、大好きなんて言葉は、思春期の少女がうかつに使うべきものではないと思っていた。彼女の本心だったのか、クラスの団結のための打算だったのかは分からないけれど、ローティーンから抜け出したばかりの少年少女たちには、いずれにせよほぼ最大の武器だと言えた。結果として、クラスの歌声は改善した。ぼくのやることは変わらなかったが、そこまで言うならもう少し真面目にやってみるかという全体的な心境の変化に繋がったのかも知れなかった。

 結果から言って、ぼくのクラスは銀賞を取った。金でなかったのが惜しまれるが、ぼくは評価されたということが嬉しかった。伴奏者の彼女は涙を流していた。悔しかったのかもしれない。それでも、ぼくは嬉しかった。たぶんこの銀に至るまでの大部分の底上げは彼女の功績だ。合唱隊のぼくたちは、彼女の言う通りに歌っただけだ。銀賞は彼女が合唱コンクールまでに積み上げてきた努力に捧げられるべきだ。金賞のクラスとの違いは、ぼくの耳にはひとえに選曲そのものにあるように聞こえた。ぼくのクラスの曲は、実に王道な中学生の合唱曲という感じで、ホ長調の涼やかさのある楽曲。対する金賞のクラスはより現代的な曲で、卒業を控えた中学三年にふさわしい疾走感のあるテンポのト長調。実はこの曲は毎年の人気曲で、ぼくのクラスでも第一候補に挙がったのだが、じゃんけんだかくじ引きだかで外れた。つまり、ぼくのクラスがこの曲を選んでいたのならば、金賞が取れたかもしれなかったのだ。

 彼女がそれを自覚していたかどうかは分からない。聞くのはやめておいた。その後、彼女はとある高校の音楽科に進んだ。狭き門だというのに、よく頑張ったと思う。高校に上がってからも、何度か電車で一緒になった。ぼくとは違う制服を着て、数学の予習をするぼくの傍らでソルフェージュの教科書を開いて小さく口ずさむように歌う彼女は、変わらない熱心さで音楽に向き合っていた。

 そんな彼女でも、輝かしいピアニストへの道を順風満帆にたどったわけではないというのは、後に風の噂で知ることになる。その頃にはぼくも中学の頃の自分の世界の狭さを理解していたし、彼女とぼくを引き比べることすら馬鹿らしいと考えるようになっていたけれど、もし彼女と話すことがあれば、その後の彼女の話を聞いてみたいと思った。ピアノ伴奏者という役割しか与えられていなかった彼女が、どうやって彼女自身を取り戻したのか、あるいは取り戻せなかったのか。それは過去のぼくと過去の彼女がもう一度出会い、違う道へ進んでいくのを広い広い野原の向こうに見つつ歩くことに似ているのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Re:ピアノ 藍川澪 @leiaikawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ