第6話 ○○山四号登山路(2/2)

 私が見たのは、ざっくり言えば脇道の草むらから人の頭部が生えているかような光景。


 無表情の坊主頭が黒目だけの瞳をぱっちりを開き、空洞のように真っ黒な口を大きく開けて、こちらを見ていた。


 私は手に持った杖をその場に落とした。

 叫びは声にすらなっていなかった。


 下り坂をも減速せず、ただ一目散に駆け降りた。

 ぺった、ぺった、ぺった、ぺった。背後からは規則正しい足音が、迫るようにこちらへと向かってきている。


 振り返る余裕などなかった。もし後ろを向けば、そこにはあの細い手が、すぐ背中にまで来ているような気がしてならなかった。


 ぺったんぺったんぺったんぺったん。


 足音が徐々に耳に近くなってゆく。姿は見えないが、奴は相当の速さで私との距離を詰めてきている。


 焦りからか、私は勢いを殺しきれずに、途中の曲がり道で足を踏み外してしまった。そして緩やかな斜面を転げ落ち、そのまま下を流れる川へと落ちた。


 川は足がつかないほどには深く、流れもやや早めだった。しかし自力で抜け出せないほどの勢いでもない。


 おまけに転げ落ちた痛みも大してなかったため、今はむしろ助かったのかもしれない。安堵のため息を吐いて岸に目をやった。


 さっきのヤツが川の岸を、流れる私と並ぶようにして這っていた。


 全身を見たのはこのときが初めてだった。形は大きな裸の人間だが、手首足首が昆虫みたいに細くて、頭が身体の比率に比べてやたらとでかい。そんなヤツが四つん這いで、じぃっとこちらを見ながら走っている。


 そいつは流される私が岸に近づくと、ときおり手を伸ばすような仕草をした。私はなんとか奴の手が届かない範囲にいようと必死で水を掻いた。


 いつの間にか同じヤツが反対側の岸にも現れ、恐怖はさらに増した。


 両脇から伸ばされる手。両耳に迫る足音。気が狂いそうになりながらも、どうにかこうにか、私は建物がまばらに見える下流にまで捕まることなく流された。


 その辺りまではヤツらも追ってはこなかった。


 助かった。

 私は岸まで泳ぐと、そのまま砂利の上に倒れ込んだ。


 眠りから覚めたのは、たまたま近くを通りかかった村人が私を見つけてくれた深夜のことだった。






 夜が明けると、私はすぐに山の管理小屋へと招かれた。


 どうやら入山名簿に名前を残したまま、下山の記録を残していなかったために行方を探されていたのだそうだ。


 私は夏だというのに毛布にくるまりながら「あの化物はいったい何なんです」と単刀直入に聞いた。


「化物?」


 レンジャーらしき村の青年は私の言葉に首を傾げた。しかしその隣で煙草を吸っていた老人は咥えていたものを揉み消すと「きみはもういい。話なら私が聞こう」そう言って青年を部屋の外へと追い出した。


 廊下に響く青年の足音が遠ざかる。


 二人きりになったとき、老人の第一声は「あの登山路に入ったのですな」だった。


「その様子では、アレとも遭遇したのでしょう。よく無事で戻られました」


「――アレは……」


「詳しい事は私にも。ですが昔、あの登山道で起きた出来事で良ければお話をしましょう」


 そして老人は山のことを漏らさないという条件で、過去にあの登山道で起きた出来事を話してくれた。


「今からちょうど二十年前のことです。開かれたばかりのあの登山路で、最初の行方不明者が出ました。


 名前は四号登山路。


 当時は天候もよく、山頂までは一本道。遭難する道理などまるでありません。消防と村の青年団が捜索を行いましたが、ついぞ見つかることはありませんでした。


 それからあの登山道を通る人が、しばしば道中で行方をくらます事案が発生をしました。そして遂には、中腹の休憩所で売り子をしていた女性までもが姿を消しました。


 警察の捜査ももちろん行われました。しかし結果として誰一人見つかることはなく、未解決事件として処理をされてしまったようです。


 そこで当時、村の青年団に所属していた私は事故の要因を探るべく、あの登山道の調査に帯同しました。


 調査団は私を含めて七名。皆、山歩きに慣れた者ばかりでした」


 そう言うと、老人は部屋の壁に掛けられた写真へと目をやった。登山服の若者たちが肩を組んで笑っている白黒の写真だった。


「私たちが異変に気が付いたのは中腹あたりの頃でした。用を足す。そう言って茂みに潜った仲間の一人が姿を消したのです。


 仲間が入っていった茂みの周辺には、大きな手の跡がいくつも残されていました。


 何だこれは? そう言って、仲間が泥を採取しようとしたそのときです。


 仲間の頭上から長い人間の手が伸びてきて、そのまま仲間の身体を樹上へと連れ去りました。


 頭上に視線を送ったのはほとんど皆が同時でした。大きな頭の人間が、顔の半分ほどにまで開かれた口の中に仲間を放り込む瞬間を、全員が目の当たりにしました。


 私たちは蜘蛛の子を散らすように逃げました。暗い山道を明かりも使わず一目散に逃げました。


 無事に山を下りることができたのは私だけでした。他の六人はいくら待っても山を下りては来ませんでした。


 私は直ちに、あの登山道で見たモノを村の長に報告しました。それからしばらく山は閉められることになったのですが、噂の薄れた一年ほど後、再び山は開かれることとなりました」


「それはどうして……」


「おそらくはお金の話でしょう。あの山は村の重要な観光資源でしたから。


 事実、事故のあった登山道以外の道を再び開くという意見に反対する者はほとんどおりませんでした。


 そして唯一、アレを見て生き残った私には村長と祈祷師の二人から説明がありました。


 アレは山の神のようなもので、縄張りに入ったものに危害を加える。しかし縄張りは山の北部に限定されるため、あの登山道にさえ足を踏み入れなければ遭遇の心配はない、と。


 その話がどこまで本当かはわかりません。しかし事実、あの登山道とは別の道で行方不明者が出ることはありませんでした。


 そしてあの道は閉ざされ、四号登山路はどの看板からもその存在を消されたはずでした。しかし四十年も経って、再びあの道が見つけられることがあろうとは……」




 

 

 その話を聞いてからだったな。無茶ばかりしていた私も、登山の決まり事を強く意識するようになったのは。


 ――ん? そんな話を他言しても良いのかって? もちろん口止めはされた。だが名前を出していない以上、山の評判を落としたことにはならないだろう?


 私が言いたいのは、立ち入り禁止の道には立ち入り禁止になるだけの事情があるのだということだ。


 だから君たちも決して、定められた道を外れることなくこの山を登って欲しい。


 それでは出発しようか。


 決して、ロープのはってある道には入らないよう気を付けてくれたまえ。

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