第5話 ○○山四号登山路(1/2)
“トレッキング”という言葉を耳にしたことはあるだろうか。
山頂を目指して登るのが、登山。トレッキングは山頂まで登ることには拘らず、自然を満喫しながら山歩きをするレジャーのことを言う。
私が今で言うトレッキングにはまったのはまだ若い頃のことだった。毎週のように色々な山へ向かい、澄んだ空気を胸いっぱいに吸うのが私の習慣となっていた。
中でもお気に入りだったのがS県の南部に位置する山だった。山頂まではいくつかのルートがあり、登るたびに山々は違った顔を見せてくれる。そんなところに心を惹かれたのだと思う。
主な登山道は制覇して……あれは六度目に訪問したときのことだ。私は駐車場の脇の林に木製の看板が倒れているのを見つけた。
山のイラストとともに、くすんだ色のペンキで道が記されている。そこにはすでに踏破した三つの登山道の他に、さらにもう一本、どのパンフレットにも載っていない北側の登山ルートがあるのを見つけた。
黒いペンキの筆文字で書かれていた名前は“○○山四号登山路“。
登山ルートA〜Cという他の3つとは雰囲気が随分と異なる。
——この山にまだ私の知らない道があったのか。これは是非にでも歩かねば。私は多少の無茶は承知で、他の登山客から離れひとけのない林道を進んだ。
今思うとそれが全ての間違いだった。
登山道の入り口には細いロープが張られていた。
進入を禁止しているのは誰が見ても明らかだった。が、私ははやる気持ちを抑えることができず「すみませんね」などと謝ってロープをまたいだ。
山歩きはもう慣れたものだし、獣道だって何度か歩いたこともある。多少の険しい登山道などどうってこともない。そのくらいにしか考えていなかった。
入口から入ってすぐの道の両脇には、地蔵が並んで立っていた。
左右併せて全部で6柱。登山の無事を祈る地蔵だろうか。俯く地蔵を横目に見ながら、旧登山路を進んだ。
木々の間から差す木漏れ日と、眼下を流れる川の組み合わせが絶景だった。道もさほど荒れてはおらず、三分の一くらい登った先には休憩所らしき小屋も見つけた。
小屋の入口には昔の栄養ドリンクの看板がそのまま吊るされていた。ガラスの引き戸は締め切られていたが、中には“森永アイスクリン”と書かれた冷凍庫や商品かごが残されているのも見えた。
残留物から見るに、道が閉鎖されたのは随分と昔の事らしい。しかし売店を開くほどには賑わった登山道のようだ。
そこで私はふと疑問に思った。景色は他の道に引けをとらないほどに美しい。道幅も広く安全にも問題はない。
なのにどうして、この登山道は閉鎖されることになったのだろう?
首を傾げながら、休憩所の脇を過ぎようとしたそのときだ。私は木でできた店の外壁に妙なものを見つけた。
――それは一言で言うなら“手と足の形をした泥の跡”。
店の壁面を覆い尽くすように、無数の手形と足跡が店の外壁にへばりついていた。
あまりに異様な光景を前にして、凍りつくような感覚が全身を駆け抜けた。
悪戯とは明らかに違う。道が閉鎖されたのは何年も前の話だ。こんな泥の跡が、今の今まで残っているはずがない。
手足の跡はともに人間のものよりも一回り大きく、そんな泥の跡が、壁面を無造作に塗りたくっている。そして四肢の痕跡は、うっすらと林の奥へと続いていた。
人間の手足を持つ大きな何かが、壁を這い回った後に、林の奥へと潜った。そんな映像が頭に浮かんだ。
「何かいるのか? このエリアの、どこかに」
私は息を飲むと、注意深く辺りを見渡した。
通ってきた道。林立する木々。壁から突き出た岩。置き去りのベンチ。よく、目を凝らして観察する。
景色に気を取られていままで気が付かなかったが、跡は壁面だけじゃなかった。そこかしこに、手足の跡は無数に残されている。
手足の跡は大きいものから小さいものまで様々だった。
この辺りを這い回る何かには、どうも複数の個体がいるらしい。
私は踵を返すと来た道を足早に辿った。
今まで感じたことのない危険を本能が訴えていた。
クマやイノシシなんかの獣とは違う。私の知らない何かが……おそらくはこの登山道が閉められる原因となった何かが、今も近くにいる。とてもその場に留まっていることはできなかった。
休憩所の広場を抜け、木々に挟まれた細い道へと差し掛かる。
その時、かさ……という音とともに、視界の端の草むらが揺れた。
現れたのは狸だった。
登山道の真ん中で、つぶらな瞳をこちら向けて立ち止まっている。
全く心臓に悪い。疑心暗鬼になっていた私はほっと胸を撫で下ろすと、再び顔を上げて狸を見た。
長い肌色の手が、草むらから狸の背に向かって伸びていた。
え?
呆然とたたずむ私の前で、長い手が、狸の胴体をつまみ上げる。そしてそのまま、手と共に狸が草むらに消える。
キィ……! 狸の鳴き声が草むらからわずかに聞こえてすぐに消えた。
そして直後には斜め後ろから草むらの揺れる音が聞こえた。
ほとんど反射的に振り返るとそこには。
私の腰元まである巨大な人の顔面が、林道脇から首だけを伸ばしてこちらを見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます