もぶぷりん

世界の終わり

 ――兄と弟に与えられた時間は少なかった。

 ――彼らが憧憬の内に現れるには、幼年期という時間はあまりに純粋だった。



 だから、夢の中の兄はいつも優しかった。

 いつも兄の部屋に入るとそこらじゅうに知らないCDを積み上げてイヤホンをつけて座る猫背の兄がいた。

 僕を見ると嬉しそうに手招きして、イヤホンを貸してくれる。

 僕の知らない音楽の話をいっぱいしてくれて、その饒舌ぶりがなんだか面白くて、半分も理解できないけど、でもそんな兄が好きで。

「これ、なんて曲?」

「これはな、thee michelle gun elephantってバンドで『世界の終わり』っていうんだ。兄ちゃんの一番好きな曲でな、このギターリフが――――」









               〈1)







 うだるような暑さを迎えた或る夏、今年で大学二年生になった恭平は実家を離れて都市郊外にある寂れた区営住宅で一人暮らしをしていた。

 

 寝汗が額にびっしり、露のように張り付いた不快な目覚めだった。


「あっつ……」

 ベットから這いずり降り、冷蔵庫にある未開封の2Ⅼの緑茶をラッパ飲みする。

 時刻は正午前。三限の時間には十分間にあう。


 部屋に散らかったゴミの山を蹴飛ばし、スマホの充電を確認すると、シャツだけ着替えて部屋を出た。







【……夢の中では箱男も箱を脱いでしまっている。箱暮しを始める前の夢をみているのだろうか、それとも、箱を出た後の生活を夢見ているのだろうか……】








               〈2〉



 最寄りの駅までは自転車を使う。湿気と熱気のくぐもった路上に一陣の風を吹かせ、着く頃には替えたばかりのシャツも汗ばんで首元に張り付いていた。


 電車を待つ間にソシャゲのログインを済ませるのが日課だった。複数のアプリを巡回し終えると、ようやく冷房の効いた空間がホームに到着する。



 人のいる空間でスマホを横持ちするのは存外恥ずかしいという性分もあって、きまって電車ではSNSやYouTubeを開くようにしていた。ツイッターを開き、スマホの画面をスクロールしながらタイムライン上の文言に目を通す。


『「お上の一言がないと…」官庁職員の悲惨な声!日本の官僚制度の腐敗とは…』

『現役アイドル○○、お忍びデートで熱愛激写!?』

『…これ、絶対事案だろ。こんなの国民を馬鹿にしてるとしか思えない…』

『200年ぶりに焼肉たべた。アル飲みすぎて昨日の記憶ないわww』




 何駅か乗り換えると、人の様相も随分変わってくる。金髪やおかっぱ頭の若者がぞろぞろと入り乱れたきた頃、目的の駅に着く。


 駅構内を降りた集団はそれぞれの間隔を保ちながら、首を垂れて歩いていく。自然とその群れは、都内にある大学のキャンパスに向かって進んでいった。







                〈3〉



 教室は既に一種のコロニー形成を見せていた。その中にスマホばかりいじっている橋田の後ろ姿があった。


「おっす。周回お疲れ様」

「ぁ、誰かと思えば恭平じゃん、オッスオッス」

「俺今日、オンするからさ、お前もボイチャこいよ」

「ぁ、うん(笑)じゃ行くわ。何時からやんの?」

「飯食ったらディスコ送って。大体十時過ぎになると思うけど」

「ぁ、おけ。かしこまり!」


 肩の薄い橋田は見るからに不健康そうで、いつも背を丸くしてスマホをいじっている。バイトもする気がないもんだから、ゲームに誘えばどんな時間でも駆けつけてくれた。そんな橋田のことを、心のどこかで可哀そうな奴だと恭平は思っていた。


「けど今日はマジであちーよ。扇風機だけじゃ寝汗やべーって」

「恭平はさ……太りすぎだわ(笑)…………ッ痛っええ⁉」


 恭平が肩を思いきりこずいてやると、橋田は笑いながらうめいた。思いのほか教室に響いたようで、不審の目に晒されて恭平は肩身が狭くなるのを感じた。





「えー、精神分析学の祖ともいわれるフロイトですが、まぁ、着眼点は先進的なんですが、何分胡散臭い理論を展開してまして。後期フロイト主義で語られたように、無意識下に起きる心象の源泉を「性欲のメカニズム」に結びつける論調などから、ユングやアドラーなど、様々な弟子たちから疎んじられ、晩年はとても孤独な生活だったといいます。ですがその功績は偉大なものであり………。」





 三限は心理学の再履修だった。教養課程で取り零した授業の内の一つで、同じく境遇を共にした橋田とは、この授業で知り合った。真面目に授業を聞かない奴だったので、授業毎のレポートはいつも俺が手伝っていた。


「つまりフロイトは性欲の化けもんってことか?」

鹿はお前だけどな。まぁ、俺もフロイトなんて中学の時に読んだけどさ、近親相姦なんて言葉が出てきた時はちょっと引いたわ」

「はーん。拗らせちゃったんだ」

「ちげーよ。理解浅すぎ。本読め本」


 呆けた顔でスマホをいじり続ける橋田。きっとこいつは夢分析など興味はない。どこかの本で夢を見やすい人間の研究を読んだことがある。それは内省的自己意識の強い人が見やすい傾向にあるということだった。恭平には、橋田に内なる眼差しがあるとは到底思えなかった。こいつにはスマホだけで十分だろう。









【 やるせなくなる夢だから 蝉の声 発熱の正午は過ぎて 】








               〈4〉



 大学の最寄りの駅まで歩いたが、顔見知りを見かけることはなかった。恭平の交友範囲はそれほどまでに完結していた。飯を食うのに何故知り合いと席を囲む必要があるのか。ファストフード店の牛丼の特盛をかきこみ、夜食用のアレコレをコンビニ袋にぶらつかせ、再び自転車に乗ってまだ太陽の高い夕刻の空に焼かれながらペダルを漕ぐ。



 郊外に打ち捨てられたような区営アパートの一画。

 バルコニーに吊らされて干されたままのシャツ。

 雑草がはみ出た駐輪場。

 人の営みが辛うじてこの老朽物を彩っていた。


 ふと目を向けると、駐輪場脇の公共のゴミ集積場に人影が見えた。


 無造作に乱れた髪。小汚い恰好をした中年の男性が、ゴミ袋を片手にその場で右往左往している。捨て方がわからないというよりは、捨てようとしているゴミ袋のほうを気にしている様子だった。


(今日はそもそも回収の日ではないし……午後に収集車が来るかよ)


 丁度通り道であったこともあって、このくたびれた男性に恭平は声をかけた。



「すみません、今日はもう来ないですよ」

 急に声を掛けられ、男性はビクリと体を震わせて、吃った声で反応した。よく聞き取れてないようだ。


「あの、明日、来ますから。朝に、出したほうがいいと思います」


「ァっ、ハイ、ヘヘ、どうも」

 ゴミ袋を背に隠しながら、ヘラヘラ笑っている。



 一瞬、視線の定まらないままの男性と、目が合った。

 すると突然、それまでの遜った男性の表情が、怒気を孕んで硬くなっていく。

 気味が悪い。そのギラギラとした脂性の肌が不快さを催す。

 眉をきつく結んで、眼球の動きに鋭さが増す。

 その理不尽な怒りの醜貌を、何故か恭平は知っているように思えた。


 恭平は早々にこの場を去ることにした。去り際に何か言葉を掛けられた気がしたが、全力で無視してアパートの階段を上った。








【始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを】







               〈5〉



 「ああぁクソ!!!こいつマジで利敵行為!!味方に戦犯おるって!!ガチきつぃよクソッ………」

 「wwwいやうるっさww恭平ピキッってね?ww」


 苛立ちのあまり、恭平は何度か壁を蹴りつけていた。

 橋田とやっているのは今流行りのFPSゲームである。

 五人でパーティを組み、敵拠点のフラッグを確保したほうが勝ちという、云わば陣地取り合戦なのだが……パーティを知人で集められないため、意思疎通の乱れが起こるのは当然のことだった。

 

 「俺ちゃんとピン刺したろ!?数的不利背負って勝てとか無理ゲーなんだよ…ったく、ピークにも合わせれんとか、引退しろよゴミ……」

 「あーあ、恭平が暴言厨に……成仏してクレメンス」

 「萎えた。今日はもうやめとこうぜ」

 「まぁ、もう11時だもんな。この辺にしとくか」


 と言いつつ、スマホに目をやる。が、橋田が突然「うわっ、マジかよ」と呟いた。


 「恭平さ、○○ってアイドル知ってる?いま流れてきたんだけどさ、彼氏騒動で炎上して明日にも引退会見するってさ!!このスピード感えぐくね?」

 「あー……そういうもんだよな」


 全く興味のない話題だったし、また橋田のミーハーらしい反応に内心ゲンナリして、恭平は気休めに肯定することもできなかった。

 

 「なんかこういうのって、熱心なアンチつくよな。この前の総理大臣の汚職事件もそうだったけど、炎上の速度ってやばいよな。今の時代は、ネット世論も馬鹿にできないよやっぱ」

 

 ……他愛のない橋田の一言に恭平が激情したのは、先のゲームでイラつきがピークに達していたせいかもしれない。




 「何言ってんだよ。あんなのな、馬鹿を集めて神輿を担がせたお祭り騒ぎにすぎねぇよ。あの神輿のベニヤ板一つ剥がせば、論理も倫理も無い薄っぺらい私情が露呈するだけだ。それに乗っかる奴も普通と考える奴もみんな馬鹿だ。わかってねぇよ!」


 「だいたいな、この国の政治は多数決で決まるよな。そんなこと小学生でも知ってる。だがな、考えてみろ!多くの人間と金を動かすには、何が必要だと思う!?そんなの自分の利益になる事に決まってんだろ!?だから汚職でもなんでも、それは政治の実権を握る過程で生まれた、少なくとも多数側に導くためのものだろう!?政治の本質はな、覆い隠すことだ。、不可視のカーテンを拵えるってことさ」


 「そしてお祭りやってる馬鹿どもみんな、あのトリックのネタ明かしが知りたいがために騒いでやがる。精々暴いた分際で、政治に参加した気になってやがる。たりてないんだよ脳みそが。アイドルの炎上騒動だってそうだ。私情を束ねて作った虚像が、醜くないわけがないだろ!!夢見すぎなんだよ全く!!」


 恭平の剣幕に、橋田はその瞋恚を理解できずにいた。語気を荒げて捲し立てる様子が、次第に紆余曲折を伴った自分語りになっているのにも、橋田は気付けずにいた。



「人は夢を見る生き物というが、あれは欺瞞だ。覚えているのは自分に都合のいい夢ばかりだろう?見たいものだけ見てる奴に夢を語る資格は無い。だから夢の本質っていうのは、悪夢を見せることにあるんだ。悪夢こそが、辛い事や不快な事こそが、人を人たらしめているんだ。それを見つめようとしない馬鹿が、俺は一番許せないんだ!!」


 ボイスチャット越しにも関わらず、恭平は大声出していることに気付いた。

 やがてこんな理不尽な話を一方的に聞かされてる橋田に対して詫び、己を恥じた。

 橋田は「なんかごめん。」と告げると、逃げるように通話を切った。



 橋田には悪いことしてしまった、と恭平は遅い後悔に襲われた。

 そしてコンビニで買った発泡酒とつまみを残していたのを思い起こして、テーブル脇に投げられたレジ袋を漁っていると、




 時刻は夜の11時の半ばを回った頃、突然、自室のインタホーンが鳴った。









               〈6〉




 非常識だと、恭平は思った。そして、こんな夜遅くに俺を訪ねる人物に恭平は心当たりがなかった。


 ドアを開けると夜の生温かい湿気が部屋に入り込んでくる。だが、恭平の目に飛び込んできたのは、夕方に会ったあの中年の男性だった。


 そして、別れ際に見た、あの怒りの形相を呈していた。

 今や怒髪冠を衝く勢い、扉に足をつけて唾を飛ばしながら詰問してくる。


「き、君さ、毎日毎日騒いで暴れてさ、何??凄い迷惑なんだけど。お願いだからその部屋からいい加減出ていってくれない??」

「だ、大体さ、こんな、夜遅くまで騒いで、何様のつもり??何??そんなに迷惑かけたいわけ??ホントにさぁ、いい加減にしてよ!!!」


 ここで初めて、恭平はこの男性が自分の隣に住んでいる人だと思い出した。


「あ、すいません…。今日は僕も騒ぎすぎたと反省してます。もしかして響いてましたか?」

「響いてくるってもんじゃないよっ!?考えればわかるでしょ!?き、君ってホントに常識ないよね??隣の迷惑も考えてよね??」


 時折裏返った声で捲し立てて、粘々と相手の非をなじる。繰り返された誹謗に、焦り立つ怒気の粗さを感じさせた。

 次第に恭平は腹が立ってきていた。どっちが非常識なんだ?こんな夜遅く、アパートの玄関で住人を捕まえて?挙句に引っ越せだと?馬鹿をいうな。


「ちょっと、待ってくださいよ。僕、別に毎日ああやって騒いでるわけじゃないですよ!今日のことは謝りますけど、そこは――」

「何言ってるの!?毎日だよ!?君って自覚もないの??俺がずっと我慢してるのをいいことに、毎日壁を蹴って大声で叫んでたじゃない!!」


 (嘘、嘘だ。この人は嘘をついている。自分の思う通りに記憶をでっち上げている……)

 そこから、恭平と男性の口論はヒートアップしていった。

 何を言っても謝っても、男性はその姿勢を退くことはなかった。

 恭平はあの諦観にも似た、知性の無力さを痛感していた。

 そしてこの男性の姿を、あの変わってしまった兄にいつの間にか重ねていた。

(ああそうか……この既視感は、この面影は、兄のことだったのか……)


 この怒声。この狂貌。この光景を恭平は見たことがある。

 親に嚙みつき、家族を貶し、家を出て行った、変わり果てた兄の姿。

 かつての憧れだった、饒舌な兄の姿……。



「だから!!毎日じゃないって言ってるじゃないですか!!!不服なら大家さんでも呼んでくださいよ!!!」

「何開き直ってんの!!?本当に悪いと思ってるの!!!?どこまで人を馬鹿にしてるの!!!!!」


 その時、男性がズボンのポケットから錐を取り出した。

 スプレー缶を開けるのに使う、径の短い鋭利な工具が逆手に握られていた。



 恭平が男性と目が合った時、この人は本気だ、と悟った。

 振り上げた錐にも注意は行かなかった。

 あの白痴じみた、赤く血走った狂った瞳に恭平は目を奪われていた。


(………赤い月………世界の終わり………兄さん………)


 次の瞬間には、恭平は腹を庇って背中から倒れていた。

 その腹部には、赤く染まったTシャツが張り付いていた。

 叫び声をあげた時には、既に恭平は男性の姿を見失っていた。

 鋭い痛みが全身を駆け巡って、体じゅうから汗が噴き出ている。




――くそ。痛すぎる。まるでサウナにいるみたいに汗が出てきやがる。 

  こんな酷い話があるかよ。面識のない隣人に、口論の末に刺されて死亡だって?

  こんな人生だったのかよ。クソ。

  悪夢なら醒めてくれ。こんな終わり方は嫌だ。


――痛い、痛すぎる。電話すれば、救急車がくるか?そうだ、そうしよう。

  俺は嫌だ。こんなオチ。

  『都内の大学生、隣人トラブルで刺され死亡。腹部を刺され、大量失血か。』

  はっ、誰もこんな記事見向きもしないや。インパクトに欠ける。

  どうせだったら、辞世の句でも残して死んでやる。

  そうだな、こんなときには………



恭平の頭には、あの黒いスーツを着た四人組の男たちが、森の廃墟でタバコを吸う奇妙なイメージが浮かんでいた。まるで風邪の時に見る悪夢のようだ。


けどこれは、僕も大好きだったバンドのことで。

兄が語ってくれた、あのギターリフのことで。

僕も兄さんみたいに、知らない世界のことを熱く語れるような人に……

なれたらいいなって。

どこで、みんな、間違ってしまったのかな………



浅く沈んでいく意識の下で、恭平は夢を見ていた。

黒いスーツを着た四人組は、森の廃墟で共に語り合っていた。

兄が饒舌に喋り、

僕がその語りを引き継いで、

橋田がウンウンと頷き、

にやけた面で中年の男性が相槌を打つ。

僕らはバンドを組んでいた。

目指す場所はいつも同じだったのだ。

なぜなら、みんな同じ歌を歌っていたからだ。




【世界の終わりがそこで待っていると、思い出したように君は笑い出す】

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