第3話 シーナと夏の青い空
「シーナちゃんはね、『ミックスラン』のご飯が大好きだったんだ」
「おお! 食欲のある子は安心できますよね」
漫画以外の話題で目を輝かせるいすみさんは珍しい。
「それから、お散歩コースは、決まって明け方の浜辺。足元が熱いから、波が来る所を選んで歩いていたよ」
「いすみさんも九十九里の朝に戯れたのですね」
今までにない横顔を見せてくれた。
とても愛おしそうに。
「走るのが大好きなのは、この坂道だ。時々、草むらに顔を突っ込んだり、マーキングしたりして、犬らしかったよ」
「可愛いですし、わんちゃんらしいですね」
当たり障りのない返答しかできない自分に、ベランダの手摺をぐっと握る。
「所が、今は訳あっていないんだ……」
「無理してお話ししなくても大丈夫ですよ」
僕は彼女の泣き顔と会ったことがない。
だから、哀しい気持ちにさせたらいけないんだ。
「今は、青い大空で、入道雲とにらめっこに忙しないんだよ。シーナちゃんは」
太東海水浴場の方は、真夏の微笑みに満ちていたことだろう。
シーナちゃんが笑うから、いすみさんは笑う。
いすみさんが笑うから、シーナちゃんが笑う。
「よっし。始めますか」
いすみさんが、ベランダから離れ、小さな机に原稿用紙をぱんと広げると、ペンを走らせた。
下書きもしないで、墨汁に丸ペンをつけている。
「青木くん、モブよろしく」
「え? モブは下書きさせてくださいよ」
「こういうのは、勘が大切なんだよ」
そこには、『浜を駆ける青木くん』とあった。
いすみさんは、シーナちゃんの次に描かれていて、シルエットが浜に伸びていた。
その後ろだといすみさんが、指でとんと叩く。
僕は背景まで入れてある原稿に、彼氏未満の僕が入ることを躊躇った。
「もう、青木くんはさ?」
「え? 僕はまだやらかしてませんよ」
きらきらした想い出を壊していいものか。
駆ける姿をどうにも映像化できなくて困っていた。
「描いたら、いいこと教えるよ」
「自由に走らせていただきます」
いすみさんがさっと描いたのに、僕はもたもたとしたが、どうにかペンを入れられた。
「青木くん。私にリードをつけたいの?」
「あ! すすすすす……」
謝りたい。
すいませんだ。
「好きです!」
「知ってます」
「ああ、間違った!」
「違うの?」
すいませんと好きですのご挨拶に、いすみさんを抱き締めた。
「好きですよ……。一生」
彼女の頬が濡れていた。
「描いてくれたら伝えたかった。青木くん。私を青い青い大空で、大きな雲の上へ連れて行って欲しい。シーナちゃんに紹介したいの」
二人で先程のベランダに向かって、原稿をかざす。
「この光景を胸に刻むよ。いすみさんの哀しみは僕のことでもある」
「透弥くん……!」
長い間、息を凝らして、汗ばんだ手を絡めていた。
み、お……。
僕の唇はゆっくりと風をふかす。
「――え? 透弥くん?」
いつの間にか、澪と
彼女がくすぐったそうにはにかむ。
「そうだ、いすみさん。飛んでみようよ。ほら、ここはもう青い空だね。雲の間から、シーナちゃんの鼻先が登場だよ。雲はいつからピンクの綿あめなんだろう。食べられないったら」
千切れんばかりに尻尾を振ってくれてありがとう。
シーナちゃんの大切な人を僕も全力でお守りします。
僕は胸の中で手を合わせた。
「あ、なんか吠えられたんだけど……。僕で大丈夫なの? 駄目?」
「ふふふ」
いすみさんに頬を突っつかれてしまった……。
【了】
僕のいすみさん いすみ 静江 @uhi_cna
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