第2話 いざログハウスへ

「コンビニ寄ったら、出発式だ」

「式典があるのですか」


 いすみさんが、細く長く息を吸う。

 そして、一気に吐き出した。


「悪霊退散、交通安全、満腹中枢、できればお魚! 行け! いすみん号」


 僕は、見ているだけでもよかったが、ときを三度上げる。

 さて、彼女は、眠気防止のガムを噛み、ブラックコーヒーを紙カップでいただく。

 葛飾からいすみ市まで、楽な道程ではないのは知っていた。

 やっと松林から海を透かし見れるようになり、タブーに触れないか疑問に思いつつも口にした。


「いすみさん、僕はペンネーム以外でお呼びしたいです。苗字の近江おうみさんとか下の名前でみおさんとかですね」

「ええ? だからって、青木くんを透弥とうやくんって呼ばないよ」


 僕らが高校三年生で、同じ受験クラスになって以来、青木くんとしか呼ばれない。

 大学も同じで、そこも卒業し、もう二十五歳になるのに。

 僕は、ミルクティーで一息つき、本音を零す。


「至極残念です」

「そう思わせたかったら、男を磨けってね」


 いすみさんは、本当に僕の彼女なのだろうか。

 同衾したこともないし、指輪を贈ったこともない。


「あの、僕は、いすみさんの彼氏で大丈夫ですか」

「東京の雪降る日、何したの?」


 ああ、キスのことを想い出にしてくれているんだな。


「ほへ?」


 ぼくは、惚けることにした。


「何てヤツなんだ」

「すみません。今のは、冗談です」


 ◇◇◇


 九十九里浜を左に見て、右の急な坂へと上る。


「ぐああ。いすみさん、ひっくり返りませんかね? この坂」

「ははは、車殺しの坂なんだよ。もう直ぐ着くから」


 今度は、急な坂を下る。


「ぐああ。つんのめりませんかね? この坂」

「私の車なら、大丈夫! ほら、茶色い屋根が見えたよ」


 僕は、どれだろうと思っている内に、九十度、草むらに車庫入れされた。


「来た来た来た来たー!」


 いすみさんは、車を降りるなり、喜びの天然少女になった。

 ログハウスには、板目を綺麗に出した『澪』と掲げてある。

 ご両親の想いがあったのだろう。

 その門から入り、階段を上がって戸を開け、いざ中へ。


「青木くん。このログハウスに特別な意味を感じるのよ」


 閉ざされていた時間を感じた。

 空気がつーんとしている。


「いい所の一言かな」


 左手にキッチン、右手と奥にベランダがある。

 いすみさんが、真っ先に向こう側の窓を開け、ベランダに踏み込んだ。


「聞いてよ、本当」

「ほうほう、いすみさんの昔話ですか」


 木の手摺にいすみさんが掴まる。

 彼女が、海まで気持ちを投げた。

 太東たいとう海水浴場から吹き上げる風が塩辛い。

 九十九里を抱えるいすみ市ならではの香りだ。

 海の息吹は、綺麗な髪を絡めて、撫で上げて行った。


「ほら、見て。海の彼方から、貝に女神が乗って来るわ」

「まるで、ボッティチェリの名画、ビーナスの誕生のようですかね」


 いすみさんが、母のような微笑みを湛えた。


「ふふふ。それよりもシーナちゃんよね」

「僕に大切な話をしてもいいのでしょうか」


 今度は、むくれたようだ。


「青木くん、自分は誰なのよ」

「ごめんなさい」


 どうしてか、謝ってしまった。

 ああ、僕が彼氏だからだな。

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