僕のいすみさん

いすみ 静江

第1話 いすみさんのゆりかご

 いすみさんは、月刊少女雑誌に『順子じゅんこシュンツ順子パイをきる!』の連載を抱える漫画家だ。

 僕の彼女でもある。

 彼女と言っても、年中原稿のことしか考えてくれない。

 残念彼氏だ。


青木あおきくん、ベタ頼むね」

「アイアイサー」


 ああ、世間は、夏だビーチだキャンプだと楽しそうなのに、僕らは次の原稿を仕上げなければならない。

 葛飾かつしかにあるアトリエの一階にて、背中合わせで作業をしている。

 アシスタントは、僕一人だ。


「いすみさん、この海岸はどこですか? 細かいベタの指示で、太陽の眩しさを表すといいのでしょうか」


 珍しくいすみさんが腕組みをして静かに考えていた。

 いつも、やっつけ原稿タイプなのだが。


「青木くん、町村合併は知っているよね」

「ええ」

「千葉は夷隅郡いすみぐん岬町みさきまちにあったログハウス、ここで私はゆりかごを揺らしたんだ」


 僕は、驚いた。

 まだ二十五歳のいすみさんに、隠し子がいたなんて。


「ええと、待ってください。合併はいつのことですか」

「もう随分になるね。平成十七年、三つの町は、いすみ市になったんだよ」

「十六年前ですか。九歳でお子さん産めないですよね」

「何のこっちゃい」


 いすみさんが、こちらに椅子を回す。

 僕らは向かい合わせになった。


「雑種犬のシーナちゃんを貰い受けてね。海と山との境目でちびっちゃいあの子を育てたの」


 わんこのお話だとは。


「ご両親と一緒にですよね」

「うん。居たけれども、二人とも離婚協議中だったし」


 嫌な方向へシフトして行ったので、軌道修正だ。


「シ、シ、シーナちゃんはどうされたのですか?」

「只今、老犬中。アトリエの二階で寝ているよ」


 僕は席を立ちながら、シーナちゃんに会いたい旨を伝える。

 思えば、一年前からここで働いており、いすみさんの漫画談義のお相手をしてはいたが、二階はサンクチュアリだった。


「二階の涼しい所を選んでお昼寝中だと思うよ。私も一緒に行こう」

「いすみさん、頼もしいです」

「青木くんは、動物苦手なのかな」


 いすみさんも僕も手を休めて、つまりは原稿逃避探検隊として、部屋の奥にある階段へと向かった。


「いすみさん、本当ですか? シーナちゃんの声が聞こえないですよ」

「見れば分かるよ」


 衝撃派が僕を貫通した。

 いすみさんが描いたであろう、シーナちゃんの絵があった。

 パピーの頃のシーナちゃん。

 シャンプーが苦手なシーナちゃん。

 おやつはジャーキー、シーナちゃん。

 先程のいすみ市であろう所で、夕日を眺めるシーナちゃん。

 いすみさんの柔らかい手が、シーナちゃんの頭を撫でている。

 腰が切れずにベッドで寝そべっているシーナちゃん。


「いい顔しているだろう」

「こ、これって」


 僕は、一枚一枚に息を呑む。


「私、漫画だけれどもちょっとは絵が描けてよかったと思っているよ」


 飾っていない絵も数作、額に入った状態で出してくれた。


「本当は、いすみ市にいる頃、もっともっと色々な画材で、シーナちゃんを描いたんだ」


 アトリエで過ごす静謐なひととき、これをいすみさんの想い出に繋げたい。


「いすみさん、美しい海を見て、原稿をバリバリ仕上げます。いいものにしたいのです。それに、シーナちゃんの魂に出会いたい。一緒にログハウスへ行きませんか」


 彼女は、こんな大切なことを隠していたとは。


「二十二歳の夏に赤い首輪の似合うシーナちゃんと過ごして以来だな」

「尚更、行きましょうよ。いすみさん」


 僕は、こんなことでしか、彼氏らしくできない。

 背中を押すだけで。


「よし。今回は、取材旅行だな。青木くんも同行して欲しい」

「アイアイサー」


 その日の晩に、原稿と用具や日用品をまとめた。

 夜中になっていたが、いすみさんの運転で、噂のログハウスへ向かう。


「安全運転でお願いします」

「眠くなったら交代してね」

「ひー」

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