十年前
安良巻祐介
A駅の待合だった。
頭上で、時計の針の音が響いている。
僕以外には、老婆が一人と、会社員らしい男。みな背を丸めたり、時計を見つめたまま、無言で電車を待っている。
もう一人、部屋の隅で、角のところに体をぴったりと収めるようにして、女が目を閉じている。
三人と一人、と僕は考えていた。
自分と老婆・会社員の「三人」、その女の「一人」、そう人数を勘定していた。四人ではなく、三人と一人。
女は、ひどく地味な着物を着て、ずいぶん安らかな顔で、息の一つも立てずにいる。その顔から、ふと、お寺で見た古い涅槃図を想像したけれど、自分で思い出しておいて、まさか、似ていない、と考え直した。
女のもたれた壁のすぐそばの棚に、手荷物らしい包みが入れてあって、そこからずっと、ほとほとと何かが滴り落ちて、床に透明な水たまりを作っている。ちょん、ちょん、と小さく雫が跳ねている。
ほとほとという滴りと、時計の針の音とに合わせて、女は、少しずつ大きくなっている。
最初は、大人にしてはやけに小さいように見えたのに、いつの間にか、壁の半ばほどにかかった赤と黒の路線図を、女の肩が越している。閉じた瞼も、もう、掌を広げたより大きい。
そう言えば、老婆も会社員も、僕と同じように気づいてはいるらしい。けれど二人とも、部屋の角から目をそらして黙り込んでいる。
ようやく決心がついて、駅員を呼ぼうとしたときには、なぜか彼らは皆外に出て行ってしまって、改札も空っぽだった。――遠くでざわめきがしているようでもあった。
しかし、待合を出る勇気もない。女は目を閉じたまま、もうすぐ天井に頭がついてしまうけれど、どうにもできない。何かに対して言いつくろうように、乗るはずの電車の時刻をもう一度確かめようと入り口にある電光掲示を見上げたら、「遅れ」とだけ出て、時刻の部分はグチャグチャに潰れて読めなくなっていた。…
そこで、目が覚めた。
僕は待合で眠りこけていた。他に客はいない。電光掲示も正常である。けれど、全身に細かい鳥肌が立っていた。
目を覚ますと同時に、夢の中のあの女が誰だったのかがわかった。十年前、〇番ホームの人身事故で飛び込んだ
死者の顔や風体など知らないはずなのに、確信がある。夢の待合にいた老婆と会社員の方は、顔がラクガキのように簡略化されて、あっという間に現実感がなくなっていったのに、女の顔だけは異様にはっきりと、証明写真を撮ったように、脳裏に残っている。待合の隅から部屋を占領してゆきながら、目を閉じていたあの表情が。
十年前。そう、十年前だった。十年前。それだけの歳月があれば、なるほど、大きくなるのかもしれない。十年前、十年前。
ふと待合の床を見たら、どこから何が漏れたものか、透明な水たまりができていた。蛍光灯に照らされた、そのかすかな波紋を見つめながら、僕は、胸の内から、真っ黒で冷たくて大きな何かが、込み上げてくるのを感じていた。
十年前 安良巻祐介 @aramaki88
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます