終章

終章 1話

 マンションの自室前にある通路の手すりに軽く頬杖をつきながら、ぼんやりとセスは空を眺めていた。

 レミュールの夜が明けなくなってから、もう何日が過ぎたのか。いちいち数えるのもおっくうだと思った。

 ほんの数日前に魔術研と科技研の代表であるロナとルナに聞いた話の内容だけが、鮮明に頭の中で繰り返す。

 あの話は、なんでもない一般の、ただのコラムニストである自分が聞いていいようなものではなかったのではないかと、今さらながらにセスは思った。

 初めは全部を話すつもりはなかったのだと、ロナは言っていた。

 けれどもティアレイルたち五人が必死に考え、惑いながら進むべき道を模索しているのを見て、気が変わったのだと。

 いま何が起きているのか。そのすべてを、二つの組織の代表者は自分に話してくれたのだ。天に在る月たちの意味も。そして、自分たちレミュールに住む者たちがD・Eと呼んできた西側の、本当の姿も。

「こんな記事を書ける人になら、話してもいいかと思ってね」

 何故自分に話したのかというセスの問いに、ロナはくすりと笑って、先日自分たちがゲリラ的に発刊した日蝕特集の雑誌を掲げてみせる。

「君なら、やたらと騒ぎ立てたり民衆好みに面白おかしく脚色したりはしないだろう」

 セスはなんと反応していいのか少し困ったように、こめかみのあたりを軽く掻きながら、あいまいに「はぁ」と頷いた。

「まあ、私はゴシップ記者じゃなく、コラムを書くのが主なので……えっ!? ということは、ロナ総帥はこの話を公表されるおつもりなんですか?」

「うん。時期を見てだけれどね。いま発表しては、先日の君のコラムが出た直後のように混乱が起こるからね。人々をパニック状態に陥れることは避けたい。……だが、大導士たちが三月みつきを排除し、すべてが終わったあとならば、かまわないと思っている。皆の動揺も落ち着くだろうし、危機が回避されていれば人々は冷静にこの話を理解し、受け入れることが出来るだろう」

 西側へ行って対策を講じている部下たちが成功すると信じて疑わないのか、ロナは穏やかに目を細める。

「それに、我々二大組織を中心としたこのレミュールの体制も、変えていかなければならない時期が来ているのだと思う」

 ルナのいれてくれた温かい紅茶をひとくち飲み、そしてセスに視線を戻して、魔術研の総帥は静かに笑った。

 カイルシアやルーカスの取った行動がきっかけとなり、レミュールに生み出され、そして現在まで続いてきた、嘘で固められたいびつな体制。

 アカデミーがすべての実権を握るこの状態を、同じラスカード家の血を引く自分とルナが代表となった今……終わらせる。それも悪くはない。

 少しも気負わないロナの仕草とその口調が、なぜだかひどくセスの胸を打った。

 その時のロナやルナの、どこか寂しげで、けれども嬉しそうな笑みを、自分は一生忘れないだろうとさえ思った。

 そのあとすぐに、魔術・科学の両アカデミーは緋月が人工太陽であること。そして正体不明の『ちから』のことだけを明かし、そのうえでティアレイルたち五人の所員が対策に尽力していると公表した。

 その事実に人々は驚愕し、一時は騒然となった。けれども、ティアレイルや科学派のメインコンピューター担当のショーレンなど優秀な人材が対策に当たっていると聞いて、人々はすぐに落ち着きを取り戻していたのである。

 たったそれだけのことで、人々の心はこうも落ち着いてしまう。これまでまかり通っていたを批難し懐疑的になる者もいたが、そんなこともすぐに下火になり、二つの組織が示す『安定した未来』を信じる者が大勢を占める。

 レミュールの人々にとって、アカデミーという存在がどれだけ絶対的なものなのか。それだけでも分かるというものだった。

 その精神的な柱を失ってしまったら、人はどうなるのか? セスは想像もつかなかった。両アカデミーを無くすわけではなく、規模を縮小するだけだとロナは言っていたけれど、それでも人々に与える衝撃はかなり大きなものになるだろう。

「……でもまあ、人はそんなに弱くはないか」

 軽く伸びをすると、セスはくすりと笑った。

 人はもっと己の目で物ごとを見て、そして考えなければいけない。そう記事に書いたのは自分だ。今度のことは、そのきっかけになるだろう ――。


「セスおじちゃん」

 自分を呼ぶ声がしたので、物思いにふけっていたセスは思考の海から意識を浮上させ、声のほうへと視線を向けた。

 いま家から出てきたばかりなのだろうか。隣家の少女が大きな犬をきちんと横に座らせながら、セスの顔を見上げて笑っていた。

「ファーヴィラか。今からレスティの散歩かい? もう時間が遅いんじゃないか?」

 犬の頭をぽんぽんと叩きながら、セスは少女の大きな瞳を覗き込んだ。

「うん。でもいつだってお空は真っ暗なんだもの。何時に外へ出たって同じだよ。レスティが外へ行きたいってゴネるから、仕方なくお散歩に連れて行くことにしたの」

 落ち着きなく部屋の中を動き回り、かと思えばドアをカリカリと引っ掻いてみせる。このところ愛犬の元気があまりなかったけれど、今日はとくに落ち着かない様子なので気晴らしをさせるのだと、ファーヴィラはぺろりと舌を出して笑った。

「ふうん。レスティもアルディスがいなくて寂しいのかもなぁ。でもこんな時間に子供ひとりじゃ心配だから、セスも一緒に行ってやろっか?」

 手すりから身を起こしながら、セスは楽しげに両手を広げてみせる。

 いつも『おじさん』と言われるので、少し良いところでも見せて呼び方を変えてもらおうというところか。

「ありがとー。セスおじちゃん」

 にこにこと笑い、ファーヴィラはリードをセスに手渡した。

 その相変わらずな少女に、セスは「まだ若いんだけどね」と苦笑しつつ、そのヒモを受け取って階段を下り始める。

「そういえば、セスおじちゃん、さっきあそこで何してたの?」

 ゆったりと歩きながら、ファーヴィラは思い出したように青年に訊いた。

 自分の部屋の前だというのに中にも入らず、手すりに頬杖をついてぼうっとしていたのだ。一瞬、ファーヴィラはセスが家の鍵をなくしたのかと思ったくらいだ。

「うん? ああ。月を見ていたんだよ。いつまで夜は続くのかなぁと思ってさ。俺の部屋からだと、ぜんぶの月は見えないから」

 答えながらセスは、彼独特の紅茶色の瞳に人好きのする笑みを浮かべて夜空を見上げた。それに倣うようにファーヴィラも天を仰ぐ。

「……あっ!?」

 はっと、二人は驚いたように一瞬顔を見合わせ、そしてもう一度空を見やった。

 そこに在るのは、大きな大きな月の姿。今までに見たことのないような大きな月影が、見る見るうちに、だんだんと大きさを増していくように感じられた。

 何分も経たないうちに、月は空全体を覆い尽くすかのように、人々の視界いっぱいに否応なしに広がっていくのである。

「月が……落ちてくる!?」

 セスは茫然と呟き、目を見張った。

 そういう予知があったのだと、先日ロナたちに聞いてはいた。けれど、もし自分があの話を聞いていなかったとしても、今のこの状態を見れば、誰だって月が落ちてくるとしか思わなかっただろう。

 現に、何も知らないはずの人々の表情は恐怖に満ちていた。

 何が起きているのかを知ろうと魔術研に問い合わせる人々や、避難するように両アカデミーへと駆け込む者たちの姿が、あちらこちらで見え始める。

 それまで心の中で燻っていたレミュールの人々の不安と混乱が、この月の異常な状態を見て、再び火がつき爆発したかのようにさえ思えた。

「とりあえず、俺たちも魔術研に行こう」

 心細げに自分の手を掴んでくる少女の小さな手を握り返し、セスは強いて笑顔を見せながらそう言った。

 魔術研究所に行ったからどうなるというわけでもないのだろうが、少しでも安心できる場所に行きたいというのは人の心理だろう。

 それに、何かロナから話が聞けるかもしれないとも思った。

「な……んだ? 蒼月が……っ!?」

 騒ぎが広がる中、不意に誰かが悲鳴をあげるように叫んだ。

 その声に天空を見上げると、今まで在った場所に蒼月の姿がない。ずっと明々と蒼月が浮かんでいたその場所には、ぽっかりと深い闇の空が広がっていた。

 その刹那、緋月がまるで太陽のように眩い光を放ち、そして、何万発もの花火を一斉に打ち上げたような大きな音が遠雷の如く天地に轟いた。

 あまりに大きなその音に家屋の窓がビリビリと震え、川や泉などの静かな水面さえも激しく波紋がたつほどだった。

 人々は次々と起こる異常な出来事に憔悴したように、恐る恐る緋月を見上げた。そこには、信じられない光景があった。

 一瞬消えたと思った『蒼月』が、『緋月』に衝突するように現れていたのである。互いに相手を削り合うように、まんまるだった大きな月が徐々にその形を崩していく。

 まるで、天空で巨大な線香花火をしているかのように、重なった月から四方に火花が飛び散るのが見えた。

「……この世の……終わりだ……」

 それを、ティアレイルたちがやっているなどと知るよしもない。ぺたんと、何人かの人間が放心したように座り込むのが、セスの視界に入った。

 それ以外の人間たちは、悲鳴をあげながら建物の中に逃げ込もうと走り回る。

 天にある大きな月が衝突したのだ。抉られた部分の月の欠片があの火花と一緒になって落ちてくるに違いない ―― 。

 そう思えてしまうほど大きく、そしてはっきりと、人々の目に二つの月が衝突する光景は映っていた。

 その二つの月が、再び青白い光を発した。

 大きな恐怖と混乱の中を逃げ惑う人々を照らし出すように、眩いばかりの銀色の光が広がって、まるで闇夜が昼間のように明るくなる。

「……きれい」

 恐怖におののいて道端に座り込んでいた女性の表情が、ふと、恐怖ではなく、感嘆したような……笑むような表情に取って替わった。

 不思議なことに、人々を押し流すように広がっていた恐怖や混乱が、まるで波がひくように急速に落ち着いていく。

「セスおじちゃん……雪だよ」

 憧憬ともいえるまなざしを空に向け、ファーヴィラは怖れを忘れたように、はしゃいで両手を空に掲げた。

 夜空を染めた眩い光が消え、再びレミュールに闇が戻ってきた時、空にはもう蒼月と緋月の姿はどこにもなかった。

 その代わりに、砕け散った月の破片が落ちてきていた。

 けれどもそれは火花や隕石のようなものではなく、ふうわりと。そして触れると消えてなくなってしまいそうな、月光を浴びた雪のように優しい、月のかけら。

 そのあまりの美しさに、人々は今までの恐怖も忘れた。なぜか、ゆるゆると安心感が胸郭を満たしていく。

 まるで、季節外れの粉雪のように舞う白銀の粒子が、動揺し高ぶっていた人々の心を鎮めていくかのようだった。



「転移……上手くいったみたいね」

 ルナは地上に降りてくる月の欠片を手ですくうように、両手をそっと空に向けて広げながら、静かに佇む兄を見た。

 魔術研の湖上の大鐘楼でD・Eの様子を見ていたロナとルナは、ティアレイルたちがやろうとしていることは知っていた。

 流月の塔が停止し、そしてティアレイルが月を転移させると言い出したとき、ロナはやはりと思った。こういう事になるのではないかと、心配していたのだ。

 けれど、安穏とレミュールにいる自分たちが彼らに力を貸すことなど、どうあっても出来はしない。

 だからこそ、ロナたちは結界の島へと訪れていた。数百年のあいだずっと東と西を隔ててきた、両アカデミーの作り出す二重結界を解除するために ―― 。

 そうすることで、ティアレイルの負担の軽減になるかは分からなかったけれど、二重結界が在るよりは解除されて無くなっていたほうが、反対側からこちらの月を転移させるために必要な魔力は少なくてすむだろう。

「でも不思議ね。月の破片が雪のようになるなんて」

 ルナは手のひらで静かに溶けてゆくものを眺め、微かに首を傾けた。

「そうだね……」

 ロナは一度だけ天を仰ぎ、そしてゆるやかに目を細めた。

 月の破片が何故、雪のように舞っているのか。ロナには分かるような気がした。それは魔術者としての勘だった。

 緋月と蒼月から出る『ちから』がぶつかると、すべてを排除する働きが起こるとティアレイルは言っていた。

 その大本である月がぶつかりあったのだ。『波』で起こった以上に強く排除しあうのは当然だろう。そしてその結果、二つの月は原子レベルまで分解される。

 しかし、もともと蒼月はではない。カイルシアの自転停止からは自転環境を作るための『鍵』になっていたけれど、本来は自然の浄化を促すために生み出された、魔術者たちの魔力の結晶なのである。

 その蒼月の魔力が、衝突によって原子レベルまで分解された緋月の欠片を核として、雪に転じたのだろう。

 それは浄化を促すために魔術研が降らせる『聖雨』と同じような原理だ。そうであれば、今この空から降って来ているものは『聖雪』といえるのかもしれない。

 だからこそ、人々は安心した。レミュールに降る聖雨は、いわば人々の生命を潤し、安らぎを与える源なのだから ―― 。

「ティアレイル大導士が降らせる聖雨の感覚に……よく似ている」

 ロナはふうっと深い息をついた。

 あまりにも深く、この雪はティアレイルの魔力を内包している。それが、ロナは気がかりだった。

 月を転移させるために己のすべての魔力を解放したであろうティアレイルの無事を、自分たちはただ、祈ることくらいしか出来ない。

「情けない総帥と総統だよね」

 ルナは不安を打ち消すように冗談めかした口調で肩をすくめた。

 ロナは、まったくその通りだというように大仰に頷き、さらさらと空を舞う美しい雪を眺めやる。

「……レミュールにとって最悪の予知は回避された。そのために……大きな代償を支払うことにならなければいいのだが」

 ロナはそっと呟いて、西側へ赴いた部下たちを思うように瞳を閉じた。

 天空に浮かぶ唯一の月となった古月だけが、すべてを知っているかのように静かに輝き、レミュールの姿を照らし出していた。

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