第四章 7話

「ショーレンっ!」

 非難するように、アスカは科技研の友人の名を呼んだ。

 場所がわかれば、ティアレイルは誰が何と言っても蒼月を転移させる。それがアスカにはよく分かっていた。

「…………」

 ショーレンは意志の強そうな藍い瞳をアスカを向け、軽く首を振った。ティアレイルの意志に任せよう。まるで、そう諭すような眼差しだった。

 ここで何もせずにレミュールを見殺しにしては、ティアレイルも、アスカも、そして自分たちも必ず激しい後悔に苛まれるだろう。

 とくに、救うことが出来たかもしれない力を持っているティアレイルには、耐えられない苦しみなのではないかと、ショーレンは思うのだ。

 それならば、少しの可能性に掛けてみるのも悪くはない。

「ティアレイルくんがやるなら、大丈夫だよ」

 ふと、涼やかな声が背後で起こった。その声はルフィアのものだった。眩い朝と静かな夜にも似た、色の異なる左右の瞳がまっすぐティアレイルに注がれている。

「でも……」

「アスカくんもハシモトさんも、心配なのはわかるけど、大導士を信じようよ。それに、一人でやらせるわけじゃないもの。私たちだってやることはあるよ」

 なおも逡巡するアスカに、ルフィアは気丈な笑みを浮かべ歩み寄る。その手には、先ほど外壁から剥がれ落ちてきた魔力の核の破片がひとつ、握られていた。

「アスカくん、以前言ってたよね? 便利なものはなんでも使うって」

「……ああ?」

「なら、この流月の塔にある物すべて利用して、大導士の負担を軽くしようよ」

 ルフィアはそっと、核の破片をアスカの右手に握らせる。そのルフィアの手も、微かに震えているような気がした。

「せっかくだもの。『相互扶助論』を現実レベルに昇華させよう」

 長々と自分の考えを説明している余裕はなかった。ルフィアは、それでもアスカに伝わると信じた。

 そして、アスカは分かった。

 今は機能停止させてあるが、せっかくここにはカイルシアの『結界』が在るのだ。それを使わない手はない。

 この『結界』はアスカたちの『相互扶助論』の先駆のようなものなのだ。

 ここにあるのは、魔力を高める為だけのプログラムではあったけれど、自分やショーレンの研究の成果をうまく応用し、発展させることで、魔術者の負担を軽くするものが組めるかもしれない。

「新しい結界プログラムか……。ショーレン!」

 アスカは心を決めた。もともと彼は後ろ向きな思考の持ち主ではない。決断すれば行動は速かった。なにせ、あと二十分しかないのである。

「分かってる。時間との賭けだな。今まで俺とおまえでやってきた研究のすべてはレミュールにある。頭に入ってるデータなんて僅かなものだからな」

 ショーレンは苦しげにそう応える。新しい結界プログラムが出来ればいいとは思う。けれども、一から組み始めるには時間が足りなさすぎるのだ。

「大丈夫だショーレン。データなら、ある」

 晴れた夜空のようなアスカの紺碧の瞳が、冴え冴えと閃く。

「D・Eに来ることが決まった時、コレにほとんどの研究データをコピーしてきたんだ。ヒマな時にでも続けようかと思ってな」

 アスカは左目に装着された網膜投影式PCを指しながら、にやりと笑った。

「やってみようぜ。俺たちが新たな結界を組むのが先か。それとも過去の遺物である月が、現在レミュールを消し去るのが先か。大勝負だ」

「アスカ。おまえのその用意周到さと、度胸の良さに敬意を表すよ」

 ショーレンはくすりと笑い、片目を閉じてみせる。そして、少しの時間も惜しいというように急いでコンピューターに向かった。

 しかしカイルシアの魔力を動力としていた流月の塔のコンピューターはすべて落ち、ディスプレイは静かな闇に満たされている。

「生きているのは、やっぱりイファルディーナのメインコンピューターだけか。まあ、これさえあれば十分だけどな」

 気合を入れるように、ショーレンは自分の両頬をぴしゃりと叩いてから、データをイファルディーナにリンクさせるようアスカを促した。

 アスカは軽く頷くと、ティアレイルに向き直った。

「ティア。俺たちが新しい『結界プログラム』を組むまでは、ぜったいに魔力は解放するな。かならず、組んでみせるから」

 紺碧の瞳は真剣に。けれどいつもの余裕のある表情を取り戻してそう言うと、アスカはショーレンたちと共に、新たな結界を紡ぐ作業に入る。

「……わかった」

 ティアレイルは微かに口許をほころばせながらそう応え、そして、すべての感覚を研ぎ澄ますように瞳を閉じた。

 月という巨大なものを己の魔力で包み込み、転移できる状態にもっていく。そのうえ妨害するちからまであるのだから、二重結界の向こうにいった蒼月を再び支配するのには、かなりの時間がかかると見るべきだった。

 二十分。レミュールを救うギリギリの時間であり、そしてティアレイルが自分なりに予想した、月を支配するためにかかる時間でもあった。

 月を支配しようとするのに対し『波』によって魔力の反発が起こることは、ショーレンを転移させようとした時の件でも明らかである。

 けれども、それを厭う気持ちはティアレイルにはなかった。ただただ、蒼月を転移させることだけを思う。

 月光つきあかりを思わせるティアレイルの蒼銀の髪が、風を含んだようにふわりと揺れた。ゆらゆらと彼のまわりに柔らかな光が生まれ、すべてがほのかな輝きを宿したように感じられる。

 ついっと、セファレットはその隣に立った。ティアレイルが転移だけに集中できるように、彼に跳ね返ってくる魔力の反発を出来る限り抑えるつもりだった。

 どれだけ抑えられるかは不安だったけれど、何もしないよりはいいと思った。

「……イディア様。大丈夫ですか? まだ、休まれていたほうがいいです」

 切なげに、そして苦しそうにレミュールの人間たちを見ていたイディアに、リューヤはそっと声をかける。

 もう傷はすべてふさがっていたけれど。それまでにたくさんの血が流れた。そして……たくさんの魔力を使いすぎた。

 立っている力をも失ったように、今にも崩れ落ちそうなイディアの身体を支えながら、リューヤはとても心配だったのだ。

 しかしイディアはゆっくりと首を横に振った。

「ありがとう、リュー。だが私はすべてを見届けたい。この、場所で」

 閃光をとめるためとはいえ、流月の塔の核を破壊してしまったのは自分なのだ。それが原因で引き起こされた現実を、自分は見届けなければいけない。

 負傷し弱りきった今の自分に何が出来るというわけではなかったけれど、目を逸らすわけにはいかなかった。



「っきしょう。なにが悪いんだよ!?」

 髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら、苛ついたようにアスカは床面を蹴った。

 もうすぐ二十分が過ぎようというのに、いっこうに結界が完成しない。あと少しで組み上がりそうだというところまでは、なんとか来ているのだとは思う。

 けれども、あと何をどうすればいいのか。さっぱり見当がつかなかった。

「イライラすると余計に頭が回らなくなるよ。アスカくん」

「……分かってる」

 落ち着くように深呼吸をして、アスカは天を仰ぐ。

「あれだけ確認したんだ。おまえたちの式はあってると思う。……もしかすると、俺の提示した魔術的観点が微妙にずれているのかもしれないな」

 一分一秒も惜しい。天を仰ぎながらアスカは、魔術者としての感覚を最大限に研ぎ澄ますよう、科学の産物である網膜投影式PCを無造作にはずした。

「ショーレン。今から俺が言う箇所のチェックを頼む」

 静かに目を閉じ、アスカは脳裏に浮かんでくる情報の考察を意図的にやめて、とにかくすべてショーレンに告げる。

 ふと、その意識の中にティアレイルの姿が一瞬浮かび上がったような気がして、アスカははっと目をあけた。

 確かに今、見えたのだ。ほんの少しだけ柔らかな笑みを浮かべ、自分に「ごめん」と謝った、幼なじみの姿が。

「ティア……まさかっ!?」

「ティアレイル!!」

 アスカが振り向くのと、セファレットが叫んだのはほぼ同時だった。

 目が灼けてしまいそうなほどの眩い輝きが、ティアレイルの身体を突き抜けるように、その空間いっぱいに広がっていた。

 一瞬何が起きたのか、理解できなかった。けれど、すぐに悟る。

 今すぐに月を転移させなければ間に合わないと判断したティアレイルが、結界の完成を待たずにその魔力のすべてを解放したのだということを ―― 。

「この、バカがっ……」

 ティアレイルの身体はゆらゆらと光の中で揺らめきながら、その生命を燃やすように煌めいていた。

 アスカは苦しげに頬を歪めた。今ならまだ、やめさせることが出来るかもしれない。わずかな望みに一歩足を前に進めかける。

 刹那、蒼く眩く燃えるティアレイルの魔力が、反対がわのレミュールの空域にある蒼月に放たれるように、天に向けて噴き上がるように広がった。

 徐々にその輪郭さえも危うく、己の解放した魔力の中に溶け込むように見えるティアレイルの姿に、皆は息を呑んだ。

 信じられないものを見るように、アスカの紺碧の瞳が凍りついたように大きく見開かれる。

「……ティアーーーーっっ!!」

 血を吐くような絶叫が、蒼い光につつまれた流月の塔にこだまするように、長く切なく響いていた。

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