第四章 6話

「……なんて速度なのっ!?」

 映し出された光景に、セファレットは息を呑んだ。通常の常識では考えられない、異様な速さだった。

 ぐんぐんと、月が近付いてくるのが珠玉越しでも目に見えて判る。

「あれでは三十分もしないうちに大気圏に突入するぞ!」

 ショーレンはざっと計算をし、そう告げた。三十万km以上もの距離を、月がそんな速さで落下してくるのである。それを見ているレミュール側の人間の恐怖や、推して知るべしだった。

「…………」

 ティアレイルは落ちていく月を睨むように見据え、強く唇を噛み締めた。震えるように小刻みに揺れる両のこぶしを握り締め、天を仰ぐ。

 レミュールを襲う災いから必死で逃がれ、救いを求め集まる人々。けれど、何も出来ないティアレイルを責めるように見開かれた目 ―― 。

 それらのすべては、自分が視た最初の『予知』に鮮明に描かれていたことだ。

 完璧な的中率を誇る予知。矛盾しているようにも思えるけれど、今まではその完璧な予知ゆえに、自分が手を加えることで未来を変えることも可能だった。

 しかし今、ティアレイルが視た最悪の未来は対策を講じているにも関わらず少しも変わることなく、確実にレミュールに押し寄せようとしている。

「……落とすわけには、いかないんだ」

 自分に言い聞かせるように呟き、ティアレイルは深い呼吸をひとつ吐きだした。

「ショーレン。月がレミュールに辿り着くのは……三十分後か?」

 静かな口調でそう訊かれて、ショーレンは水珠が映し出すレミュールの光景に釘付けだった視線をすいっと上げてティアレイルを見やる。

 その藍い瞳には、渋い表情が浮かんでいた。

「大気圏に入るのが……だ。けど大気圏突入すれば、もうどうしようもないからな。止めるなら残された時間は二十分あるかないかってとこだろうな」

 緋月が太陽形態でないことだけが救いだと、ショーレンは思った。

 もし太陽形態の緋月であったなら、大気圏に入るよりもっと前に、その光と熱だけで、レミュールに甚大な被害をもたらしているに違いなかったのだから ―― 。

「……そうか。じゃあ、二十分後の緋月の推定位置を出してくれ。その場所へ蒼月を転移させる。それだけの時間があれば、何とか転移させられるから」

 ティアレイルは穏やかな表情のまま、何か決意したように瞳だけを凛と閃かせる。

「蒼月を動かすのはもう無理よ。二重結界の向こうだし、あの、すべてを打ち消してしまうちからが充満した中に在るんだよ、ティアレイル!」

 横から口を挟んだのはセファレットだった。

 あの『波』の中でショーレンの身すら自由にならず、その上、ひどい怪我までも負ったティアレイルをその目で見たのは、彼女だけだった。

「ああ。そうだよ。ショーレンの身すら自由には出来なかった。だが、場所を選べなかっただけで転移は出来たろう? それならば、私の持つ魔力のすべてを解放して蒼月に向ければ、その多くを打ち消されたとしても指定した場所に蒼月を転移させるくらいの魔力は残る」

 ティアレイルは静かな、しかし確かな自信を感じさせる『魔術派象徴』の表情をして、そう言い切った。

「それにね、セファレット。蒼月はさっきまで私の魔力の支配下にあった。二重結界の向こうに在っても、それは変わらない」

「でも……」

 セファレットは哀しげに眉根を寄せた。すみれ色の瞳が沈痛な色に染まり、けれども何も言えずにうつむいてしまう。顔に似合わず頑固なこの大導士が、ちょっとやそっとでは翻意しそうにないと分かったのだ。

「自分が犠牲になろうとか、バカな事を思うんじゃないぞ!」

 アスカはぎりっと唇を噛み、ティアレイルの肩を強く掴んだ。

 この幼馴染みの真面目さがいつかこんな解決案を導き出すのではないかと心配だった。そうわかっていたというのに、ずっと傍に居ながら違う思考の方向をティアレイルに示すことが出来なかった自分が、アスカは腹立たしかった。

 人の体が耐えられる魔力の放出量には限界がある。その限界を超えた魔力を解放すれば、人は命を落とすことになる。

 ―― 数百年前に全魔力を発動させて命を落とした、あのカイルシアのように。

 ティアレイルはふっとアスカを見やり、ゆうるりと翡翠の瞳を細めた。長い間ふたりで紡いできた多くの記憶を見ているかのように、穏やかに笑む。

「死ぬつもりはないよ、あっちゃん。ただ、自分が出来ることをするだけだ」

「…………」

 ふと、アスカは気が付いた。そのティアレイルの笑みが、いつものつくり笑顔ではないということに。心から、穏やかに笑んでいるのだ。

 他人が見れば何の変わりもない、いつもの表情だったかもしれない。けれども、幼い頃から見てきたアスカには、確かにその違いがはっきりと感じられた。

 何かがふっきれたというのだろうか。それとも、己の命を捨てることを覚悟した者だけが持つ心の鎮けさなのか ―― 。

 幼い日に出会ってから今までずっと、自分が感じてきたティアレイルの不安定さがきれいに消えているような気がした。

「ずっと考えてた。トリイの町の少女……小夜が私に向けた言葉を。どうして自分は東側の人間なのかって。それが、ようやく分かったような気がするんだ」

 ティアレイルはゆっくりと、流月の塔の入り口に顔を向けた。

 そこには衣を真紅に染めたままのイディアが、リューヤに助けられるように佇んでいた。静かに、けれども毅然とした眼差しをこちらに向けて。

 ふと、互いの視線が引き寄せられるように重なりあい、ティアレイルはそっと目を細める。そこから感じられるのは、どこか懐かしい想いだった。

「たぶん……私はイディアで、イディアは私なんだと思う」

 ティアレイルはもう一度アスカに視線を戻し、やんわりと言った。

 魔術者の持つ魔力には、それぞれ特性がある。それが似ている者はいても、同じ者などは決していない。

 一卵性双生児でさえ、その特性は微妙に違うものになるのだ。

 しかし、流月の塔の前で互いの力をぶつけ合った時に感じたのは、己と寸分も違わない魔力。自分とイディアは、まったくその特性が同じだったのだ。

 それは、二人が同一の存在であるという証し。

 生まれた時代も。場所も。両親だって違う。それでもなお二人は同じ魂を有し、そして現在いま、こうして同時に存在していた。

 それが生命を司る神々の単なる気紛れなのか。それともこのアルファーダという自然たちの意志だったのか。

 けれどもそんなことは、今のティアレイルにはどうでもいいことだった。

 ただはっきりと分かることは、自分はアルファーダではなく、レミュールに生まれるべくして生まれたのだということ。

 初めて出逢った小夜は「何故レミュールの人間なのか」とティアレイルに問うた。そして自分はその言葉に大きく動揺した。

 けれど、今はもう動揺などしない。自分は、イディアのいる場所とは反対の……東側に生まれなければならなかったのだから ―― 。

 生まれるのが遅すぎて、誰も……何も救えなかった神の御子。

 必要なときに必要な力を持ち、そして救うことが出来るであろう自分。

 まったく同じ魔力の波動……魂を持ったふたりの ―― それは決定的な違い。

 ティアレイルは、イディアが現実には決して手に入れることの出来なかったものを、たくさん持っていた。

 家族。友人。守るべきもの。そして……穏やかな生活。

 イディアがアルファーダで得ることの出来なかった、たくさんの『普通の幸せ』を。まるでレミュールでやり直しているかのようにすら思える。

 あまりに深い西側世界の嘆きが捌口を求めて、自分の魂はレミュールへと生まれたのかもしれない。

 だからこそ……イディアと同じ哀しみを繰り返したくないとティアレイルは思った。

「ティアレイル、それは ―― 」

 イディアは驚いたように目を見開いた。それはかつて自分も一度は思い至ったことだった。けれど、すぐに否定した考えでもあった。

 そんな考えはティアレイルという人間に対して失礼であったし、自分がそれほど哀れな存在だとも思いたくなかったからだ。

 けれど……分かってしまう。お互いの心が。分かりすぎるほどに。自分の心と相手の心が、どこか根底で繋がっているのではないかと思うほどに ――。

「貴方は『カイルシア』を止め、アルファーダを守った。それなら、落下する『月』を止めてレミュールを守るのは私だ」

 ティアレイルはそっと笑んで、イディアを見やる。

 その眼光に宿る固い意志を感じ取り、イディアは哀しげに頷いた。もし自分が今の彼の立場に在れば同じことを主張しただろうと思う。

 相手の心がわかってしまうだけに、反論などできようもなかった。

「おまえは『ティアレイル・ミューア』という個人だ。イディアの複製なんかじゃない。そんなことに囚われるのはどうかしてるんだ!」

 アスカはいつになく厳しい眼光で幼なじみの翡翠の瞳を見据え、強く言い聞かせるように両の肩をつかむ。

 ティアレイルを、止めたかった。

 いくら本人が死ぬ気はないと言っても、己の内に溢れんばかりに宿る魔力すべてを解放することも、あの何物をも排除せずにはおかない『波』の制圧下で蒼月を転移させることも。はっきりと自殺行為なのだ。

 確かにそうしなければ月が落ち、レミュールは壊滅的な被害を受ける。

 アスカはしかし、それがエゴと言われようが、卑怯と謗られようが、自分の幼なじみにやらせるのは嫌だった。

 頭では分かっていても、心が受け付けない。一瞬、アスカはカイルシアの心の狂気が理解できるような気さえした。

 そんな幼馴染みの言葉に、ティアレイルの表情が淡い笑みを含んで揺れた。

「私だって自分に誇りはあるよ、アスカ。自分がイディアの複製だと思って結論を出したわけじゃない。ただ実際的に考えてみて、あの『波』の中で蒼月を転移させられる魔力があるのは私だけだと思ったから、そう決めたんだ」

 そう言って、ティアレイルはゆっくりと皆を見回した。

 月の軌道を変えるのと違い、転移は複数の人間が協力してやることが出来ない。

 本来の距離や空間秩序などをすべて超越させ、一瞬のうちに違った場所に移動させるのが転移なのだ。それだけに、支配魔力系の統一が必要なのである。

 それは、魔術を扱うアスカとセファレットには、分かりきったことだった。

 まったく同じ魔力を持った自分とイディアが協力すれば、全魔力など解放しなくとも蒼月を転移できるかもしれない。

 けれども。これ以上イディアが強大な魔力を使えば、間違いなく彼の肉体は滅びるだろう。そんなふうにして、この西側世界からイディアを奪うことは避けたかった。

「ティア……」

 言うべき言葉を失ったように、アスカは苦しげに頬を歪めた。

 確かに、今ここにいる人間たちの中でそれが出来るのはティアレイルだけだろう。それは、分かる。……分かってしまう自分が悔しかった。

 何も出来ないのだという思いに、アスカは破れるほどに唇を噛み締めた。

 自分とショーレンとで研究していた『科学・魔術相互扶助論』は、いまだ実用レベルに至ってはいない。カイルシアのように実際に活用するまでに達していれば、何か手立てがあったかもしれないというのに ―― 。

「緋月は……二十分後にこの位置に在るはずだ」

 ショーレンは深い海のような藍い瞳に強い意志をきらめかせ、大気圏ぎりぎり、上空およそ七百kmの地点を示しながら、ティアレイルに告げる。

 そのまま落ちれば、ちょうどレミュールの中心都市。魔術研や科技研が建つ街プランディールに直撃する軌道だった。

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