終章 2話

 気が遠くなるほど青く、そしてどこまでも高く広がっていたアルファーダの蒼天に、数百年振りの夕焼け空が訪れていた。

 燃え立つような朱に染まる西の天空が、湖の町からよく見える。そして、東の天空からは、ゆうるりと薄墨色の天翼が大きく広げられようとしていた。

 そんな光景を、リューヤは辺りを一望出来る小高い丘の上から眺めていた。

「……綺麗だなあ」

 子供らしい頬を夕日に染めて、ぽつりと、リューヤは感想を漏らす。

 西の空を彩る夕焼けと、東の彼方から訪れる夜の闇。

 リューヤがレミュールにいた幼い頃は、そんな光景は毎日のように見ていたはずである。けれども、覚えてはいない。

 だからリューヤは初めて見るその光景に、ただただ感動していた。

「ああ。ほんとに綺麗だな」

 草の上に寝転びながら空を見上げていたショーレンも、感嘆したようにそう応じた。

 暮れかかった薄日の中に、アルファーダの町並みが水墨画のような趣をたたえて静かに佇んでいる。その姿がひどく切なく、そして美しいと思った。

「夕暮れがこんなに素敵だと思ったのは初めてだよ」

 すみれ色の瞳がわずかに潤み、視界いっぱいに広がる光景を眺めやる。

 レミュールに住んでいた自分たちだって、本当の夕焼け空など見たことがなかったのだ。夕暮れは人工太陽である緋月でも出来たけれど、今こうして広がる本物には、到底かなうものではなかった。

 それは、自然の雄大さと美しさが余すところなく現れる瞬間なのかもしれない。

「今頃、レミュールには『朝陽』が見え始めているんでしょうね」

 ルフィアは地平線に消えゆく大きな太陽を眺めながら、吐息と共に呟いた。

 レミュールの誰もが見たことのない、力強く輝かしい本物の朝陽に、人々はどんな感慨を抱くのだろうか。

「そうね。……また、アカデミーが嘘の発表をしなければいいのだけれど」

 どんなに不可思議な現象が起こっても、レミュールの人間たちはアカデミーの発表があれば、それで納得してしまうのだから ―― 。

 セファレットは声をひそめ、ルフィアと顔を見合わせた。そうなってしまっては、いままでの嘘で固められた世界と何ら変わらなくなってしまう。

「もしそうなら、私たちが真実を伝えればいい。過去のこともすべて……。レミュールの人間は、カイルシアがしたことを知る義務があるよ。それに、現実が嘘で固められていては今回のように綻びが生じた時が怖い」

 夕焼け空を眺めながら話していた彼女たちの背に、聞きなれた柔らかな響きを持つ声が降りそそぐ。

 かけられた声に振り返ると、僅かに癖のある蒼銀の髪を風に揺らし、苦笑にも似た笑みを端整な頬に広げた青年が佇んでいた。

「うん。そうだね」

 にこりと、セファレットとルフィアは笑った。

 数時間前には、失われてしまうと思ったティアレイルの、優しみのある端正なその姿が変わらずここに在るということが、彼女たちの心をとても明るい気分にさせる。

 あのときは、本当にもうだめかと思ったのだから ―― 。


 あの時……アスカの絶叫と、ティアレイルをつつむ眩い魔力の閃きのすべてが、彼の消滅を如実にあらわしているようで、セファレットは思わず目を閉じた。

 大切な友人が消える様を、どうしても見ていられなかったのだ。

「くそっ!!」

 ショーレンは悔しげに床を蹴り飛ばし、やりきれない思いとともに吐き捨てた。

 組み立てられない結界を恨めしげに睨み付けながら、それでもまだ諦めきれないというように、先ほどアスカの示した問題点を修正するように頭と指先をフル活動させる。

 そんな同僚の隣で、ルフィアは動くことが出来なかった。

 普段は凛とした輝きを放つ色違いの瞳が、大きな衝撃に悲愴な彩を宿し、ただ祈るようにティアレイルを見る。

「……一緒に支えられたら……よかったのに」

 行使している導士自身の身体を滅ぼそうとするほどに強力な、魔力による負荷。それを抑えることが出来る人間など、居るはずもない。

 それは、魔術を扱うことが出来ない自分ならばなおさらのことだった。

「…………」

 彼女のその悲痛なつぶやきに、塔の入り口に居たイディアはゆっくりとリューヤの傍を離れ、ティアレイの方へと一歩踏み出した。

 自分が衰弱していることも厭わずに、少しでもその負荷をこちらに引き受けられればと思う。同じ魔力の波動を持つ自分にならそれが出来る。イディアはそう思った。

「……イディア様っ!」

 カイルシアの閃光を止めるために大きすぎる魔力を使っていたイディアには、これ以上の魔力の行使は命取りになりかねない。

 リューヤはひっしとその腕に抱きつくように、大好きなイディアの顔を見上げた。

「リュー」

 自分に魔力を使わせまいとしがみついてくる少年を諭すように、イディアは穏やかな眼差しでリューヤの瞳を覗き込む。

 けれど今にも泣き出しそうに……いやいやをするように、リューヤは激しく首を振った。

 あんなにたくさんの血が出て。そして今にも倒れてしまいそうなくらいに衰弱しているイディアの姿に。リューヤは、どうしてもその手を離すことが出来なかった。

「大丈夫だから。……放しなさい」

 ティアレイルを救うには、今はほんの少しの時間さえも惜しい。

 必死な表情の少年にイディアは仕方なさげに息をつくと、小さく微笑った。そしてリューヤを振り払おうと手に力をこめる。

 ちょうど、そのときだった。

 何かモーターの回るようなかすかな音とともに、いままでティアレイルの魔力の煌きに支配されていた塔内に、機械的な輝きがぽうっと静かに溢れ出していた。

「 ―― !?」

 今まで沈黙を守っていた流月の塔のコンピューターすべてに灯が入り、ショーレンたちの組んだ『結界プログラム』が、一斉に動き出したのである。

 刹那、粉々に砕けていた流月の核の欠片がふわりと宙に浮かび、ひとつ所に集められていく。

 アスカがさっきルフィアから受け取って持っていたそれも、彼の手をすり抜けるように、ティアレイルの頭上 ―― 塔の中央へと向かった。

 ゆるやかな光の帯を描きながら集まった核の破片は、一瞬眩い光を放ち、少しの歪みもない球形に戻る。

 しかし、戻った『それ』は、既にカイルシアの黒水晶ではなかった。柔らかな銀色の輝きを持つ、ティアレイルの魔力の結晶に転じていた。

 その珠が放つ光がティアレイルの身体を護るように降りそそぎ、それと同時に放たれた魔力が『結界』の力によって幾重にも高められていくのが、魔術を知らない科学派の二人にさえ、はっきりと感じられた。

 高められ凝縮された魔力は塔の先端からほとばしるように、蒼月に向かって一気に放たれる。

 ついさっきはアルファーダを滅ぼすための『閃光』を放った流月の塔は、今度はティアレイルに代わり、その強大な魔力を行使したのである。

「ティアっ!」

 その生命を燃やすようにすべての魔力を解放したティアレイルは、力を失ったようにゆうらりと、冷たい床へと崩折れていく。

 いまだ冷めやらぬ魔力の中へ、アスカは躊躇することなく飛び込むように駆け寄ると、幼なじみの身体をしっかりと抱き留めた。

 人間の身体が耐えられる限界の魔力。それを遥かに超えた強大な魔力を解放し、そして行使したティアレイルは、しかし命を落としてはいなかった。

 静かに目を閉じたまま、意識はなかった。けれども緩やかに、そして力強く、その鼓動は今も確かに生命の旋律を刻んでいた。

「……ティア。この、バカが」

 おそるおそるそれを確かめて、アスカはほうっと深く息をつく。

 あまりに心配が強すぎた為だろうか。ティアレイルを覗き込むアスカの表情は、無事を確認した今もまだどこか青ざめ、そして声は微かに震えていた。

 術者に負う所が大きい、魔術という存在。

 けれども、その負担を軽減するように造られた新しい『結界プログラム』。カイルシアの造った、魔力を増幅させるだけの結界とは明らかに違うもの。

 ショーレンやルフィアの科学的見解と、アスカの魔術的観点とが上手く結びついたからこそ出来たであろう新たなこの結界が、ティアレイルの負担をはるかに少なくさせ、その生命を守ったのだと分かる。

 応急処置的に急いで組んだ結界であったためなのか。それとも塔ですらその強大すぎる魔力に耐えられなかったのか。ティアレイルの魔力の結晶と流月の塔の先端部は、その魔力の放出と同時に音もなく崩れ、砂塵と化していた。

 結界が動き出すのがあと少しでも遅かったなら、紛れもなくそれは、ティアレイル自身の姿だったのだろう ―― 。


「あの時はどうなるかと思ったが、間に合ってよかったよ」

 アスカはわざとおどけたように肩をすくめて笑った。

 ティアレイルがすべての魔力を解放したあの時、心臓が握り潰されるような思いがした。あの恐怖と焦りはそう味わえるものではないだろう。

 そしてもう二度と味わいたくない。アスカは心からそう思った。

「まったく。一人であんなバカなことをするもんじゃないぜ」

 軽く睨むように目を細め、アスカは幼なじみの頭を軽く小突いた。寿命が百年縮んだと、軽口を叩いてみせる。

「だが……」

 なんと応えていいのか困ったように、ティアレイルは口を引き結んだ。

 確かに心配をかけたのは申し訳ないとは思う。けれどあの時は、ああするしかなかったのだ。そのことを、ティアレイルは後悔していなかった。

 アスカはそんな幼なじみの表情を見てとると、仕方なさげに苦笑した。

「ちょっとは周りを信頼しろ。ちゃんと結界、組んだだろうが」

「あ……」

 ティアレイルは驚いたように目を見張り、そうして深い息を吐き出した。

 アスカや他の者たちは、月を転移をさせるというティアレイルの意志を尊重し、そしてその力を信じて任せてくれていた。けれども自分はおそらく、彼らが結界を組めるとは最初から思っていなかったのだろう。

 だからこそ、すべてを一人で抱え込み、そして間に合わないと勝手に判断して、魔力を解放してしまったのだ。

「……そうだね。ごめん」

 己の不明さを恥じ入るように、ティアレイルは翡翠の瞳を伏せる。

「まあ、無事に済んだんだから、もう良いんだけどな」

 やや癖のある幼なじみの髪をくしゃくしゃとかきまぜながら、アスカはにやりと笑った。

「本当に。無事でよかったよね」

 ルフィアはにこりと笑い、ティアレイルの横顔を見やる。

 信用しようと言ったのは自分だった。だからといって、まったく不安がなかったわけではない。信用すると、ティアレイルのその背を押してしまったからこそ、一番心を砕いていたのかもしれない。

「失わずにすんだからこそ、こんなに明るい気持ちで夕陽を見られるんだもの」

 緩やかに暮れる空に視線を戻し、ルフィアはぽつりと呟いた。

「……ありがとう」

 翡翠の瞳をわずかに細め、ティアレイルは笑った。

 なにものも失われず、そして再びこの穏やかな青年の笑みを見られることが何よりも嬉しいと、ルフィアはそう思った。

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