第三章 9話

「小夜と左京だったのか……」

 ぼうぜんと二人が消え去った塔を見上げていたティアレイルたちの耳に、静かな、けれども深い哀しみを宿した声が届いた。

 ふうわりと、流月の塔の周囲の砂が流れるように揺らめいて、初めて出逢ったときと同じように穏やかな風の中からイディアが現れていた。

「どうして……こんなところに来ていたんだ……」

 その存在自体を失ってしまった小夜たちに問いかけるように、イディアは睫毛を伏せて唇を噛んだ。ここが、危険な場所と知っていたはずなのに……。

 トリイの町の小夜と左京はこのアルファーダに在って唯一、自分たちのおかれた状況を理解している人間だった。

 カイルシアの全魔力発動によって生まれた忌まわしい閃光で、すべての生命が死に絶えているのだということ。そして……その現実を受け入れることの出来ない、否、そうと知る間もなく命を奪われた者たちのこころが、このアルファーダに住む者たちすべてなのだと ―― 。

 決して癒されることのない恐怖と怒り、そして哀しみにつつまれた魂たちが少しでも優しく穏やかな時を過ごせればいい。そう自分が始めたことを理解し、そして力をかしてくれていた、唯一の存在だったというのに ―― 。

「……俺たちを、止めに来たんだ。アルファーダを守りたいって」

 アスカはどこか辛そうに、晴れた夜空のような紺碧の瞳を細めた。

 目の前にいるイディアにどんなことを言えばいいのか。二人のことをなんと伝えればいいのだろうか? 誰も上手い言葉を見つけることが出来なかった。

「アルファーダを……」

 ふと、イディアがこちらを見た。その美しい翡翠のような瞳に浮かぶのは、深い悲しみ。けれども、それが強い意志へと転じて閃いた。

 悲しみに揺れる深い眼差しが風に溶け、激しい憎悪が立ちのぼる。すっと細められた強い双眸で、イディアは『レミュールの人間たち』を睨み据えた。

「どこまでも……この地を犠牲にしようというのだな……おまえたちは……」

 玲瓏な声が怒りを孕み、静かな、しかし、それゆえに恐ろしい言葉を紡ぐ。

 左京がその最期に望んだように。イディアの憎悪を抑えていた心の箍が、彼らの死によって壊れたのかもしれない。万物をも凍らせてしまいそうな、冷たく燃える翡翠の瞳が、じっとティアレイルたちに注がれていた。

「イディア様っ!?」

 いつも穏やかな空気をまとい、優しく笑んでいたイディアとはあまりに違う雰囲気に、リューヤは切なげにその名を呼んだ。

 大好きなイディアのその怒りと哀しみが、リューヤには痛いほど分かる。けれどもイディアにそれをさせてはいけない ―― そう思った。

 必死に名を呼ぶその声は、けれども憎悪に身をゆだねたイディアには届かなかった。

 ごおっと腹の底に響く遠雷のような地響きとともに、イディアのまわりの風がざわめいている。

 魂の底からあふれだすような深く強い怒りと悲しみに、大地も共鳴しているかのように震えていた。

「もはや、許すことは出来ない。レミュールの……カイルシアの末裔たち。……すべて滅びるがいい」

「 ―― !?」

 冷たく燃える翡翠の瞳がレミュールの人間たちを睨み据え、静かな宣告がなされると、黄金色の砂海から紅蓮の炎が吹き出した。

 まるで噴火した火口の中に放り込まれたかのように、炎と灼熱の風がティアレイルたちレミュールの人間をおおいつくそうとする。

 慌ててセファレットやアスカが周囲に結界を張りめぐらし、なんとかその瞬間は切り抜けた。けれども……それがずっと保てるとも思えなかった。

「ティア、ぼけてんなっ!」

 アスカは鋭く叫んだ。ティアレイルが何故かぼんやりとイディアを眺めたまま、何もしようとせずそのまま炎を受けようとしていたのを見咎めたのだ。

 自分の防衛術やセファレットの魔術だけではまったく歯が立ちそうにないと、すぐにわかった。悔しいが、格が違う。

 アスカは、ふと思い出していた。イディアが魔導士の中でも稀有な存在。自然を従えることが出来る存在だったということを。

 相手が自然を味方に付けているということ、それは、明らかにこちらの不利だ。

 アスカの防衛術はあまり『自然』とは関わりのない、みずからのなのでそれほど影響はなかったけれど、やはり魔力を司る『自然』を相手取るとなれば、きびしい状態なのは確かだった。

「 ―― !?」

 切羽詰ったアスカの声に、ティアレイルはハッと我に返った。迫り来るイディアの炎にいま気付いたとばかりに目を見開き、さっと右手を翻す。

 アスカの気壁が破れ、セファレットの炎を遮る結界もたち消え、炎海と熱波が彼らを呑み込もうとした刹那、周囲に巨大な水柱が立ち上がった。

 ジュ……という耳障りな激しい音とともに、蒸発した水分が白い霧となって拡散し、人々の視界を遮る。そんな中で、ティアレイルとイディアの体からは、陽炎のようにほのかな光が立ち上ぼっていた。

 互いの意志を貫くように、炎と水が互いに鎬を削りあうように宙で踊る。それはまるで、自分自身と闘っているような、そんな錯覚をティアレイルに覚えさせた。

 イディアもまた同じ思いだったのだろう。なんとも形容しがたい不可思議な眼差しを、ティアレイルに向けていた。

「同じ……もの……!?」

 どちらが発した言葉なのか。それとも二人ともが言ったのかもしれない。

 互いの魔力がぶつかり合ったそのとき、彼らは気がついた。自分と相手が、まったくの魔力を有していることに。

 その波長が似ているという術者はいてもおかしくはない。けれども、まったく者などいるはずがなかった。

 各々が持つ魔力の波長。それは、個々の魂がそれぞれ持っている固有のちからなのだから ―― 。

 居るはずのない存在を目の前にしたその動揺が、隙のなかった激しい炎に緩みをみせる。そのことに気が付いて、アスカは指示を飛ばすように叫んだ。

「今のうちにショーレンたちはイファルディーナの中に入れ。防熱装置ぐらいついてんだろ!? 中からハシモトはイファルディーナを守れ。少しでも対象人数が少ない方が、俺は守りやすいんだよ」

 ティアレイルよりも優れているといわれたその防衛術の有効範囲は極めて狭いのだ。少しでも、余裕をもたせたかった。

 そうしてできることならば ―― イディアと話がしたい。そうアスカは思った。

「何故……同じなんだ……」

 周囲の人間が一斉に動く中で、ティアレイルはじっと、イディアだけを見ていた。

 自分たちがアルファーダにやって来た時。風の中に感じたイディアの感覚と自分の波長は確かに似ていると思った。けれど、違うと分かってしまえばその差異を判別することも出来たのに。

 外側から……上辺だけで感じたその波長は、確かに相違点があったのだ。けれども今となってはその違いさえ分からない。こうして相手の魔力を直接受けてみれば、寸分も違わず自分とイディアの魔力の波長は同じだった。

 ―― どうして、あなたは幽霊なの?

 今はもういない小夜の言葉が再び甦り、ティアレイルは固く目を閉じた。自分は、いったい何者なのだろうか ―― ?

「ティア、おまえはおまえだぞ」

 ふいにアスカはしっかりとティアレイルの腕を取り、紺碧の瞳に強い意志を込めてそう言った。

 なぜ突然そんなことを言ったのか、アスカは自分自身でも分からなかった。ただ、いま絶対に言わなければいけない。そう思った。

「アスカ……」

 昔から、この年長の幼なじみにはこういうところがあった。ティアレイルの心などまるでお見通しだというように、彼のほんの小さな心のゆらぎも敏感に察知して、それを打ち消す言葉をくれるのだ。

 ティアレイルは安堵したようにアスカを見やり、ほんの少しだけ笑んだ。

「……おまえたちは、流月の塔の力を修正し、三月のバランスを保つということがどういうことなのか、分かっているのか?」

 不意に、イディアの声が聞こえた。怒りと悲しみと自嘲と……いろいろな感情の入り交じった声音。

 自分の中に流れ込んでくるイディアの意識と記憶に呑み込まれないように凛と眦をあげ、ティアレイルは大地を踏みしめた。

「分かっている。再び塔の……カイルシアの魔力を発動させるということだ」

「それを知った今、我々に塔の力を修正する気はない!!」

 ティアレイルの声にかぶさるように、アスカはイディアに向かってそう叫んだ。

 それが、レミュールに対する裏切りであるとは思わない。この塔が存在する以外に、月を落とさずに済む方法が必ず他に在るはずなのだ。

 きっぱりとそう言いきった幼なじみに、ティアレイルは驚いた。

 このアルファーダに起きた悲しい現実と、レミュール崩壊の予知のあいだで迷っていた自分には、そうはっきり心を決めることなど出来なかった。けれども、アスカは既にそうと決めていたのだ。

 やっぱりアスカにはかなわない。ティアレイルは軽く瞳を閉じ、深く息を吐き出した。

「そんな言葉を……私に聞けと?」

 イディアは嘲笑うように、一度は緩めた炎勢を再び強めた。そんな話を信じろと言うほうが無理だ。それに……もし本当に魔力の修正をしないのだとしても、塔はここに在り続けるのだ。

「イディア様!」

 不意に、リューヤがイファルディーナから飛び出した。

 危ないと叫びながら自分の腕をつかんで引き寄せようとするショーレンを、リューヤは必死な形相で振り返る。どうしても、イディアの側に行きたかった。

「アルディス、放してよ。炎が泣いてるんだ。風も大地も空も。みんな泣いてるんだよっ。このままじゃ……イディア様が壊れてしまうって!! だから、おれが迎えに行くんだ!」

 自分こそが今にも泣き出しそうな表情で、リューヤはショーレンに懇願する。

 瞬間、ショーレンはリューヤを抱き竦めるように身をかがめた。

 周囲をおおっていたアスカの守護の『気壁』とティアレイルの水柱が破られたことに気付いたのだ。

 慌てたのはアスカだった。気壁が破れて害が及ぶのは自分だけだったはずなのに、いきなりそこに二人も加わっていたのだ。軽く舌打ちをすると、アスカは急いで守護を掛け直そうと試みる。

 ティアレイルももう一度、炎と熱を遮るように術を補強した。

 しかし、まるで意思を持ったように唸りを上げる炎がすべてを焼き尽くさんと牙を剥き、レミュールの人間たちへと襲い掛かってくる。

 けれども ―― 彼らを呑み込むかに見えた炎がふいっと消えた。

 炎を生みだしていたイディアは翡翠の瞳を驚きに揺らし、じっとこちらを見つめていた。

「リュー……」

 ショーレンに抱きかかえられながら必死に自分を呼ぶリューヤの存在に、ようやくイディアは気が付いていた。

「イディア様っ!」

「……町から出るなと言ったのに」

 イディアは僅かに瞳を細め、自分のもとに駆け寄ってきた少年の頭をそっと撫でる。彼にとって大切なアルファーダの人間……リューヤの出現に、イディアをおおっていた憎悪の気配が和らいだのが傍目にもわかった。

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