第三章 8話

「友人探しだなどと、よく言ったものだ」

 左京は鋭い眼光を浮かべ、アスカを睨み据えた。

 彼らがトリイの町を出て中央に渡ったあと、自分たちが感じるのは不穏な気配ばかりだった。そしてとうとう、イディアの聖殿が焼けた。

 優しい眠りの夜が引き裂かれたそのとき、遠くに在った自分たちは何もすることが出来ないまま、イディアを失ったのだ。

 そう思うと、目の前のアスカたちが憎らしく思えてくる。

「結果的にはそうなったみたいだな……」

 それを否定するつもりはアスカにはなく、深い溜息がこぼれおちた。自分たちがここに来たというその一事だけで、イディアにとっては最大の害だったのだ。知らなかったなどと言い訳は出来なかった。

「……ここは『生命』を喰らい尽くす場所。私たちアルファーダの人間など、よほど強い生命力がなければ一瞬にして消滅してしまう。塔が……ここに在るだけでそうなのです。その魔力を再び強化し、発動させるようなことになれば、このアルファーダは二度と再生出来なくなってしまいます」

 小夜はその黒い瞳に涙を溜めて、必死になって訴える。

 何百年も掛けてイディアが育んできた、アルファーダの僅かな自然たちを、どうしても彼女は守りたかった。

 その小夜の黒珠のような瞳を見つめ返し、ティアレイルは哀しげに息をついた。

「アルファーダに存在する『生命』は、すべて虚構まぼろしではないのか? 本当はここは今なお、命あるものなど存在しない、死の大地なのではないか?」

 とても穏やかな口調で、しかしティアレイルはおそろしいことを言っていた。

 今こうして自分の目の前にいる小夜も、左京もリューヤも。そして町にいたすべての人々が、イディアによって作り出された虚構ではないのだろうか? そうティアレイルは言ったのだ。

 はっと、小夜は目を見開いた。

 今にも泣き出しそうに表情を歪め、震える唇から悲痛な吐息を漏らす。

 やはり彼は……イディアに良く似た感覚を持つこの青年は、そのことに気が付いてしまった。そう思うと哀しくなった。

 けれども、そうだと認めることは小夜には出来なかった。このアルファーダに住む者たちを虚構というには、それはあまりに悲しすぎる。

「いいえ……。いいえ。違います! 確かに……イディア様はその御力で、死に絶えたこの大地に緑豊かな自然を育まれ、町を造られました。そして……そこに住むものは……あのときカイルシアの閃光で命を失った者たちです。でも、魂はここに在るのです。だから……虚構なんかではありません……」

 囁くような、けれども耳許に流れこんでくるような透明な声音で、小夜はそう言った。どうしても分かってもらいたかった。アルファーダを再び死の大地にはしたくない。それだけが、今、彼女を動かしていた。

「……アルファーダの人が、私たちを『幽霊』って呼んでいるのは、なんだか皮肉なものだね」

 ルフィアはやるせなさげに唇を噛んだ。本当の幽霊は自分達レミュールの人間ではなく、アルファーダの方だったのだ ―― 。

「それでも……私たちはこうして生きているんです。お願いっ! 塔の魔力を発動させないでください。イディア様を、苦しめないで……」

 すがるように、小夜はティアレイルを見やる。あまりに哀しげで、そして純粋な想いに、ティアレイルは瞳を伏せた。

 自転停止の真実やイディアのことを知ってしまった今、自分だって流月の塔を再び発動させたくなどなかった。ましてやイディアが悪いなんて思っていない。

 けれども、脳裏に浮かび上がる予知。紅蓮の焔に捲かれ、助けを求めるレミュールの人々の顔が……彼の心を惑わせる。

 自分がどうすることで最良の結末を迎えることができるのか。今のティアレイルには分からなかった。

 魔術派の象徴と人々に畏敬され、天才的な魔導士だなどと謳われて ―― けれども、けっきょく自分はそんな彼らを助けるすべを何一つ持っていないのだということが、ティアレイルはひどく悔しいと思った。

 ふと、寒気がした。全身が総毛立つような不快で厭な感覚にティアレイルは驚き、そして気が付いた。

「 ―― 早く、彼女を連れて町に帰れっ!」

 ティアレイルが鋭い叫びを上げるのと、少女の体がガクンと崩れるように地に倒れたのは、ほとんど同時だった。

 艶やかな黒い髪がふわりと宙を舞い、少女の白い顔にふりかかる。

 ティアレイルには、彼女の持つ優しく哀しげな『生命力』が流月の塔に吸い込まれて行くのが見えるような気がした。

「小夜っっ!!」

 慌てて左京は少女を抱き起こした。けれどもすでに、彼女の『生命』はそこにはなかった。あでやかな黒髪と白い頬。そして清楚な緋袴の色彩が拡散し、ゆうらりと、小夜の体が存在そのものを失ったように風の中に溶けてゆく。

 それを ―― 左京は茫然と見つめていた。

「……いったいどれだけの生命を喰らえば、この塔は動きを止める? このアルファーダすべてがほんのわずかな再生さえも出来なくなるまでか? それとも、あんたたちのレミュールまでも喰らい尽くした時なのか?」

 左京の強い双眸に、涙が溢れた。

 自分たちが町から出れば、こうなることはわかっていた。『イディア様の守護』が薄い場所に行けば、この塔の餌食になる。それは、自分たちが本来実体の無い、魂だけの存在であると知っていた小夜と自分には、わかりきっていた。

 それでも、どうしても塔の発動を止めたくて。大切なイディア様を救いたくて……。その魔力で守られたトリイの町から出て来たのだ。しかし ―― 。

「イディア様の優しさが、我々を塔の魔力から守ってくださっていた。だが、おまえたちが流月を発動させなくとも、アルファーダは滅びるかもしれん。あの方の御心が憎悪で満たされていれば、我々は生命を守る壁を失うことになる。そうすれば……」

 存在すらなくなった少女の名残を抱くように、左京は自分の両腕を胸に引き寄せる。そして、唇を噛むように立ち上がった。

「それが目的で、おまえたちはここに来たのか? イディア様の町が増えれば、それだけこの塔が吸収できる『生命力』が減る。だから……イディア様を憎悪の渦に堕とし、町を消滅させるつもりだったのか?」

 左京はレミュールの人間たちを睨み据えるように視線をめぐらした。そうと分かっていれば、どんなことをしてでも……自分の命をかけてでも、彼らをイディアのいるこの中央には入らせなかったものを……。

「だが……滅ぶのは、どっちかな」

 左京は怒りと悲しみの入り交じったような笑みを口許に刻んだ。

「町が消滅するよりも早く。イディア様が憎悪に駆られ、この塔を破壊してしまわれれば、滅びるのはアルファーダだけではなく、レミュールも同じだ」

 狂気に魅せられた人間のように高く哄笑すると、左京は塔と砂漠を遮る結界のように佇む唯一の彫刻を跳び越えた。

 まるでこの塔の恐ろしさ、おぞましさを見せつけるように、カイルシアの魔力に満たされた空間へと、その身を投げる。

 誰かが止める間も、なかった。

 一瞬にして、左京の姿がそこから掻き消え、その生命力が貪欲に命をむさぼる塔の中へと吸い込まれていく。

「いやーーーーっ!!」

 今までそこに在ったものが、そこで話をしていた人が。とつぜん消失してしまうという恐怖。その光景を目の当たりにして、セファレットは悲鳴を上げた。

「……どうして? 嫌だ。こんなの。私たち何のためにここに来たの……?」

 ぺたりと地面に座り込み、しゃくり上げるように訴える。

 あまりにも、それは衝撃的だった。自分たちが来たことでイディアを追い詰め、そして小夜や左京という存在をも消してしまったのだ。いったい何のために自分たちはここに来たのか? それは皆がもった共通の疑問だった。

「カイルシアが私たちをここに導いたこと。それはアルファーダを滅ぼすのと同じことだったのかもしれない……」

 座り込んだセファレットの肩に手を置き、ティアレイルは静かに言う。その瞳は己を責めるように沈痛な翳を負っていた。『D・Eに行け』というカイルシアの言葉を皆に伝えたのは、他でもない自分だったのだから。

「…………」

 アスカは左京が消えた場所をじっと見つめ、唇を噛み締めた。

「あいつが……左京が言ったことは正しいかもしれない。イディアがこれ以上町を造らないように、俺たちはカイルシアにここに導かれたのかもしれない」

 やりきれないというように、アスカは足許の砂を思いっきり蹴り上げる。自分たちは、カイルシアの手のひらで踊らされていただけなのだと思うと腹が立った。

「……小夜さんも左京も……死んじゃったのか? な……んで? なあ……アルディス、なんでだよっっ!?」

 何がなんだか分からないというように、リューヤは叫んだ。

 イディアから使いを頼まれて、何度も小夜や左京とは会ったことがあった。

 二人ともとても優しくて、そしてイディア様のことが本当に大好きで、自分にもいろんな話をしてくれたのに ―― 。

 その二人がどうして消えてしまったのか。何故まったくその人の『存在』さえも感じられなくなってしまったのか、リューヤには分からなかった。

 ゆうるりと優しく穏やかな時間が流れているこのアルファーダで、今までリューヤは『死』というものを感じたことがなかった。

 もちろん、言葉としては知っている。イディアが繰り返しそれの哀しさを教えてくれた。けれども。実感するのは初めてだった。なぜならイディアは、アルファーダに息づく生命たちを、決して損なわせなかったのだから……。

「この塔が、彼らを呑み込んだ」

 ショーレンはリューヤを守るようにしっかりと抱き締めた。

 この禍々しい流月の塔が、この子の生命を奪わないように。そして……その心がこれ以上傷付かないように ―― 。

 ショーレンは二つの生命の消滅をその目で見て、はっきりと心に決めていた。

 ―― 流月の塔は、発動させるべきではない……と。

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