第三章 7話

 誰かが自分を見ている。

 この身にまとわりついて離れない、蜘蛛の糸のような視線。一瞬にして、すべてを奪ったあの白い瞳が、また ―― 。


 イディアはふと、閉じていた瞳を見ひらいて空間の一点を見据えた。そこに嫌悪すべきものがあるように、翡翠の瞳が苛立たしげに揺れる。

「いつまでも、大切なものを奪い続けさせはしない……」

 ゆらゆらと宙に浮かぶようにそこに在る漆黒の水晶を静かに睨み据え、イディアは自分自身に言い聞かせるように呟いた。

 彼の銀色の髪がそれ自体が光源であるかのように淡い輝きを放ち、ゆうるりとこの空間全体をつつみこむように広がってゆく。

「 ―― !」

 ぶわりと、風もないのに白銀の髪が、薄藤のローブが、たなびくように激しく宙を舞った。まるでイディアの言葉を嘲笑うかのように、黒水晶から光が放たれていた。

 誰の手にも触れられぬ場所に置かれた漆黒の水晶球は、かつて『カイルシア』がすべての魔力を込めた結晶だった。

 それは、アルファーダを死した大地に変えた忌まわしい力。そして……イディアがこの世に生を享けてからずっと、彼を牽制し続けてきたおぞましい魔力。

「あのとき……アルファーダを犠牲にする必要などなかった。おまえが見た予知は、私が生まれる以前のものだった。おまえと私が手を携えることで、その未来は変えてゆけるはずだったのに……」

 怒りのためか、それとも悲しみのためだろうか。そう語るイディアの唇が、僅かに震えている。

「この塔が……おまえが無くなれば、アルファーダは再び自然の豊かさを取り戻す。私はもう大地の……生命の悲鳴を聞きたくはない」

 イディアはゆうるりと瞬きをひとつすると、心を決めたように、空間に浮かぶ黒水晶に魔力を込めた眼差しを向けた。

 己の内に眠る強大な魔力を解放し、あれを破壊する。そうすればアルファーダは、この死した世界は、再び生命を宿すことができる場所になる ―― 。

 そうすることが反対側の世界レミュールにどんな影響を与えるか。イディアは知り過ぎるほどに知っていた。

 けれども、あえてそれを行うつもりだった。

 あの日、カイルシアはそれをやったではないか ―― !

 あとほんの僅か。黒水晶を睨むこの瞳にさらなる魔力ちからを込めれば、すべては終わる……。

 その想いに促され、魔力の奔流を抑えていた心の箍がはずれようとしたその刹那、イディアの動きが一瞬とまった。

 翡翠のように煌く双眸が驚愕に見開かれ、背後を振り返る。

「 ―― 生命だれかが……消えた?」

 ふいに襲ってきた激しい喪失感と、言いようのない哀しみ。その不可思議な感覚にイディアは固く唇を噛んだ。

 彼にとって何よりも大切なアルファーダの生命。その一部が失われたような気がして、ひどく心が痛い。

「いったい誰が……?」

 嘆くような問いかけに、けれども応える者はここにはいない。

 イディアはちらりと黒水晶をみやり、そして深く嘆息するようにかぶりを振った。

 ふわりと、風を孕んだ髪が静かに揺れる。その長く伸びた白銀の髪が静止するのも待たずに、その場所からイディアの姿は消えていた。

 カイルシアの水晶を破壊することよりも、突然消えてしまった生命の感覚のほうが、彼にとっては重要だった。



 太陽に向かって伸び上がる巨大な光の柱のように、天高くそびえる塔の前でイファルディーナは地上に降りた。

 今まで彼らが通って来た場所は、荒れ地といえども僅かに草木は存在していた。

 しかし、流月の塔の周囲にはまったく何も存在していない。黄金色の乾いた砂が散らばった、広大な砂漠の中に塔は建っていた。

「……月の森がなくなってる。前に一度だけイディア様と来た時は、この彫刻を境にしてこっち側に森が在ったんだよ」

 信じられないというようにリューヤは呟いた。残っているのは、まるで流月の塔と砂漠を隔てる門のように置かれた一対の、鳥を形どった彫刻のオブジェだけだった。

「…………」

 ティアレイルは塔を見上げ、嘔吐感を伴う不快さに頬を歪めた。他の四人も、どこか居心地が悪そうに互いに視線を交わす。

 みんながこの塔が発する異常な空気を感じていた。何か嫌な空気がこの辺りに渦巻いているように思えて仕方がなかった。

 何が悪いのかは分からない。視覚的なものだけで言えば、流月の塔は本当に、とても美しい建造物だった。

 太陽にきらめく真珠色の壁面も、凛と佇む聖木のような毅然としたそのシルエットも。普通ならばこれを見る者すべてに深い感銘を与えずにはおかないだろう。

 けれども、その周辺をおおうように存在する異常な空気が、その視覚的な美のすべてを損なっていた。

「綺麗なのに……なんだかヘン」

 セファレットはどこか息苦しそうに胸のあたりを抑え、眉をひそめた。

 こんなにも胸がざわつくのは、この塔が自転停止のときにどんな事態をこのアルファーダにもたらしたのか、知ってしまったからなのだろうか? それだけにしては、あまりにも嫌悪感がたちすぎる。

「本当だね。綺麗すぎて……逆にグロテスクに見えてくるよ」

 ルフィアは自分の心に湧き上がる不快感をどう表現していいのか考えあぐねたように、軽く頭を振った。

 自分は魔術の存在等を知ることは出来ないけれど、ここには何か自分にとって嫌悪すべきものが存在する。そう思えて仕方がなかった。

「おいっ、ティア!?」

 ぐいっと肩を抱くように、アスカは幼なじみの目を覗き込んだ。そうせずにはいられないほど、ティアレイルの顔色が悪かった。

 このままいきなり死んでしまうのではないかと思うような、ひどく白い顔。けれども、アスカが覗き込んだその翡翠の瞳だけは、しっかりと強い意志を宿していた。

「……だいじょうぶか?」

 あまりに心配そうなアスカの声に、ティアレイルは血の気が完全に失せて蒼白になったその頬を、笑むように引きつらせた。

「ああ。私は大丈夫だよ。ただ……分かってしまった」

 ティアレイルはふっと目を細め、睨むように真珠色に輝く流月の塔を眺めやる。

「この塔は……今なお、アルファーダの『生命』を喰らい続けている。おかしいと思っていたんだ。ここが滅んでから数百年も経つというのに、まったく自然が回復していないのは……。でも、再生しようとする自然の生命力をこの塔が奪ってしまっているのだから、あたりまえだ」

 嫌悪感に、ティアレイルの語尾が揺れた。カイルシアがそこまでしてレミュールを守っているのだということに、やりきれない滑稽さすら感じる。

「え? この塔がアルファーダの『生命力』で、その効力を失うことなく動いているのだとすれば、その乱れを修正するって……どういうこと?」

 恐ろしい予感に、セファレットは微かに震えていた。

 三月みつきを支えるこの塔の魔力が弱まったからこそ、月が落ちてこようとしている。だから自分達は、月の支柱である『流月の塔』の魔力を修正し、再び三月のバランスを保つためにここまで来たのだ。

 彼女は、塔の力をイディアが弱めているのだと思っていた。だから、彼を説得すればいいのだと。そう思っていた。けれども ―― 。

 塔の弱った力を修正するということは、再びその魔力を強めることになる。それが意味するものは、あまりに恐ろしいものである気がした。

 アスカはセファレットを見やり、そして晴れた夜空のような瞳に研ぎ澄まされた刃を宿し、流月の塔を見上げた。

「この流月の塔を再び発動させる、ということだろうな……」

 低く呟く声が、砂の海に溶けて消える。

 ショーレンは軽く眉をあげた。

「それじゃあ、アルファーダを再び死の大地にするってことだな」

 腹立たしげに両手で前髪をかき上げる。

 ショーレンは偽善者ではなかったが、そうまでしてレミュールを守ることの意義を、見つけることが出来なかった。

 確かにレミュールには大切な人もたくさんいるし、生まれ育ったところなのだからもちろん救いたい。

 けれどもアルファーダにだって『生命』はある。そして、僅かな期間とはいえ、自分はその『生命』たちと親しく接していたのだ。

「……アルファーダの犠牲の上にレミュールが存在しているのだということを知らず、のうのうと暮らしているレミュールの人間達は、確かに罪悪かもしれないな。そして、それを俺たちにさせたカイルシアも」

 アスカはショーレンを見やり、きっぱりと言う。それは、ショーレンと同様の考えだということを表していた。

 一方を守るために、もう一方を完全に切り捨て犠牲にする。そんなことが、正しいやり方であるはずがなかった。

「月の森がなくなっちゃったのは、この塔のせいなのか?」

 リューヤは唇を噛むように、ショーレンを見上げた。

「……ああ。たぶんな」

 苦しげに、そう応える。リューヤは責めるように塔を見上げた。

「何で、こんなものがあるんだよ。カイルシアって奴は、何なんだよ!」

 いくら怒っても怒り足りないというように、リューヤは地団太を踏む。これのせいでいつもイディア様は苦しんでいたのだ。そう思うと許せなかった。

「やはり……おまえたちはイディア様に害を為す存在だったな」

 ふいに、怒りを押し殺したような声がティアレイルたちの耳朶を打った。

 聞き覚えのあるその声に、驚いて周囲を見渡した彼の目に、二つの影がはっきりと映る。ゆるやかに空間が割れ、その中からそれは現れていた。

 おぼろな影が少しずつ色彩を帯び、完全な人になる。それはトリイの町の二人。彼らがアルファーダに来て初めて出逢った人間。小夜と左京だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る