第三章 6話

 不意に、頬に冷たい物が触れた。その冷たさに思考を中断され、ティアレイルは驚いたように翡翠の瞳をそちらに向けた。

「……え?」

 目の前に、グラスを持ったルフィアが立っていた。

 あまりに意外な人物に、ティアレイルは思わず目を瞬かせる。この一週間一緒に過ごしてきたとはいえ、個人的な会話をしたことはほとんどない相手だった。

「アイスココア。これでも飲んで、頭をすっきりさせなよ。頭がグチャグチャだって顔してるよ」

 はいっとグラスを渡されて、ティアレイルは驚いた表情のままそれを受け取った。

 彼女の視線に促されるようにひとくち飲むと、ひんやりとした感覚が体に心に染み渡り、沸騰寸前だった思考回路を冷やす。

 イディアのことを考えて張りつめていた神経も、ココアの甘さに少しだけ和んだような気がした。

「……ありがとう、イスファル女史」

 苦笑に近い笑みを浮かべ、ティアレイルは軽くグラスを掲げるように礼を言う。甘いものを口にして落ち着くなど、幼い子供にでもなったような気分だった。

 ルフィアはいたずらっぽく片目を閉じるとティアレイルの隣の席に座り、左右色違いの瞳で窓の外を眺めた。

「本当に、何もない荒れた土地だよね」

 言いながら、今度は天を仰ぐ。眼下に広がる荒野にはあまりに不似合いな、美しい輝くような青い空。それがさらに感傷的な気分を誘った。

「…………」

「あのね、ティアレイル大導士。何でも自分ひとりでやろうと思うから、頭がになっちゃうんだよ。君は天才的な魔導士かもしれないけど、私たちにも得意なことはあるよ。だからもっと周りを信用して、いろいろ話してほしいな」

 ルフィアはふふっと笑い、隣にある穏やかな青年の顔を見つめて明るく言った。

 ずっと彼に対してこのことが言いたかった。あまり真剣に言えばうっとおしい言葉になりかねない。だから、冗談めかして言ったけれども。何もかもを一人で背負い込んでしまおうとするこの青年は、幼なじみのアスカでなくとも心配になる。

「…………」

 ティアレイルは目を見開くようにルフィアの顔をまじまじと見つめ、そして、くすりと笑った。

 いつもなら余計なお世話だと、腹立たしく思ったかもしれない。けれどもティアレイルは妙に可笑しくなった。ルフィアのその瞳が、冗談めいた口調のわりにはとても真剣なものだったからだ。

「助言ありがとう、これからは気をつけるよ」

「う、うん。それと……『イスファル女史』じゃなくて、ルフィアでいいよ」

 魔術派の象徴と民衆に畏敬されている青年にそんなふうに呼ばれるのは、なんだかこそばゆいからと、照れたように彼女は笑う。

「わかった。それなら私を呼ぶのにも称号はつけないでいいよ。ここはアカデミーではないし、ましてやレミュールでもないからね」

 一瞬きょとんと丸くなった瞳をふわりと和ませて、ティアレイルはもう一度科学派の女性に笑ってみせた。

 初めて、しっかりとルフィアの顔を見たような気がする。色の異なる彼女の左右の瞳。琥珀と、藍灰。それが、とても綺麗だと思った。

「朝と夜。アルファーダとレミュール……か」

 色の違うふたつの瞳がまるでこの世界を象徴しているように思えて、ティアレイルはやんわりと目を細めた。

「 ―― 確かに、こんなことは一人で考えても仕方ないのかもしれない」

 ルフィアが持ってきてくれたグラスに再び口をつけながら、ティアレイルは周囲の人間たちの顔を思い浮かべる。

 彼らになら、自転停止の真実を告げてもいいかもしれない。そう思えた。

 真実を知ることが、これから自分達の行動にどんな影響を与えるかは分からない。けれども、知らないでいることを彼らは望まないに違いなかったし、自分ひとりで考えるにも荷が大きすぎた。

「ね、ねえ。どうしたの?」

 不意に黙ってしまったティアレイルに、ルフィアは声をかけた。自分の目を見つめたまま、この青年はまた己の思考の海に沈んでしまったようなのだ。

 その視界に自分が入っていないと分かってはいても、気恥ずかしいことには変わりがない。

「……ああ、ごめん」

 ティアレイルは我に返ったように笑むと、おのおの好きなことをして時間を潰している友人たちに顔を向けた。

「みんなに ―― 話したいことがある」

 一度瞳を閉じ、そうして心を決めたようにアスカたちを呼ぶ。

「どうした? 深刻そうな表情かおして」

 反対側の窓際で本を読んでいたアスカは顔をあげると、大きく伸びをしてから立ち上がり、幼なじみの隣に歩み寄ってきた。

 操縦席で窓外を見ながらアルファーダでの暮らしについて話をしていたショーレンとセファレットも、何事かとティアレイルに視線を向けた。

 ティアレイルはゆっくり息を吐き出すと、周囲に視線を巡らせた。

「ロナ総帥たちが言っていた<古月之伝承>ではない、自転停止の本当の……真実。そして、イディアのことだ」

「真実ってことは、古月之伝承は嘘だってことなのか?」

 意外な言葉を聞いたように、アスカたちは目をまるくした。

 古月之伝承を聞いたときもかなりの衝撃だったというのに、それ以外にもまだ何か、自転停止には秘密があるというのだろうか?

「まるっきりの嘘というわけじゃない。でも、一番肝心なことが伝承には書かれていない。間違えているんだ。……あれを書いた本人でさえ、おそらくはそれが真実ではないなんて、思っていなかったのだろうけれどね」

 幼なじみの問いかけに、ティアレイルは軽く首を振った。

 当時、自転停止の本当の理由を知っていたのは、自転を止めた張本人のカイルシアとその弟ルーカス。そして……すべてを知る神の御子だけだったろう。

 カイルシアは側近たちにもそのことを決して話さず、みごとにレミュールを救ったのだ。実質的にも、精神面においても。

 古月之伝承を密かに伝えてきた両アカデミー代々の総帥・総統たちも、アルファーダを襲った流月の塔の『閃光』が事故だと思えばこそ、『D・E』に対してあんなにも無関心でいられたに違いなかった。

「今から話すのは、昨夜私が夢という意識の中で見たことだ。……ただの夢だと思ってくれても構わない」

 翡翠のように綺麗な緑色の瞳が凛とした光を帯びてそう語る。そのあまりに真摯な眼差しに、皆の表情が引き締まった。

 魔術派の象徴といわれる大導士が意味のあるものと判断したその夢を、ただの夢だとバカにする人間など、ここにいるはずもなかった。

 ティアレイルはゆうるりと瞬きをひとつすると、リューヤが眠っているのを確認してから、昨夜自分が見た夢の話をする。

 故意的に自転停止を行ってアルファーダを滅ぼしたカイルシア。そして、その時に生き残った、アルファーダの神の御子 ―― 。

「そんな……」

 セファレットはやや青ざめ、寒気を覚えたように身を竦める。その光景を想像しただけで恐ろしく、そして哀しかった。

「じゃあ、その時に生き残った赤ん坊がイディアってことか?」

 ショーレンの問いに、ティアレイルは軽く頷いた。

「人々の願いと大自然の意志が、彼の生命を守ったのだと思う。そして、自転停止から数百年経った今も、彼はこのアルファーダの大地と共に生きている。いつか、豊かな自然を取り戻す日を夢見て……」

 ゆったりとしたいつもの口調で、ティアレイルは語る。

 何故こんなにもイディアのことが分かるのか、ティアレイルは自分でも不思議だった。けれども、伝わってくる。イディアの生きてきた時間も。そして心も。

 互いの波長が、ぴたりと合っているせいなのだろうか ―― 。

「でも、あの人がレミュールに月を落とすんでしょう? それって復讐なのかしら」

 セファレットはすみれ色の瞳を哀しげに伏せた。確かに、復讐されても文句の言えないようなことをカイルシアはやったのだ。

「最初に会った時、イディアはレミュールに復讐しようなどという意志を持っていなかった。何故カイルシアが彼を止めろと言ったのか、私には理解できない」

 イディアが憎悪を解放したことによって、予知は変えられるどころか、そのまま最悪の未来へと突き進んでいる。

 しかし、それを誘発したのは予知した未来を変えるために来た自分達だったのだ。

 何のためにカイルシアは自分達をここに導いたのか。イディアの何を『止めろ』と言っていたのだろうか ―― 。

 ティアレイルは深い溜息をついた。これではまるで、自分達はイディアを暴発させるために来たようなものではないか。

「イディア様は他人を憎むなんて事はしない。まして幽……レミュールの人を滅ぼそうだなんて思わないよっ!」

 不意に、大きな声が車内に響き渡った。

 眠っていたはずのリューヤが、その黒い瞳をしっかと見開き、ショーレンたちを見つめていた。

「イディア様の夢は、豊かな自然と、生命あるものが穏やかに暮らせることなんだぞ。いつも一生懸命に大地を育まれていたんだ。……大自然の再生能力に力を貸して上げるんだって……いつも優しく微笑わらってたんだ」

 絶対にそんなことは在り得ないと、リューヤは叫んだ。

 いつだってイディアは言っていたのだ。『生命』が失われることがどれだけ哀しいことなのか。それが人であっても動物であっても、そして自然であっても……。

 例えレミュールのものであったとしても、その『生命』を滅ぼすようなことをするはずがないではないか ―― !

「……リューヤ」

 ショーレンは苦しげに少年を見やる。彼がどこから話を聞いたのか分からない。けれども、傷つけてしまったことだけは確かだった。

「アルディスだって知ってるだろ。イディア様が、どんなに優しい人なのかって!」

 ぐいっとショーレンの服を掴み、リューヤは叫ぶ。ショーレンだけでもいい。イディアがそんな人間ではないと否定してほしかった。

「分かってるって」

 くしゃくしゃと少年の髪をかき混ぜながら、ショーレンは優しく笑った。リューヤの信じる『イディア様』を、自分も信じたかった。

「あのね、リューヤくん。たぶんみんな、イディアさんのこと悪い人なんて思ってないよ。今のリューヤくんの気持ち、私とてもわかるもの」

 ふと、セファレットはリューヤの目をしっかと見つめて言った。

 かつて自分たちも同じような思いをしたことがある。だから、リューヤの心情が少しは理解できる。そう思った。

 ロナの前に魔術研究所の総帥だった人は、精神こころを壊して魔術研アカデミーを去ったという経緯がある。彼が突然の狂気に身を堕としたことは、少なからず魔術研究所の人間たちに影響を与えていた。

 優しくて責任感の強かった大好きな人が、ある日とつぜん豹変したのを見てしまった自分やティアレイルがどれだけ多くの葛藤に苦しんだか。それを思い出し、セファレットはすみれ色の瞳を細めた。

 当時は、前総帥が何にそんなに追い詰められてしまったのか、誰にも分からなかった。けれども今、こうして『自転停止』の真実を知ってしまった自分には、その苦しみが分かるような気がした。

 もしかしたら前総帥も、このことを知ってしまったのかもしれない。それを誰に告げることもできず、ついには心を壊してしまったのかもしれない ―― 。

 そう考えると、ティアレイルが独りで抱え込むのをやめてみんなに打ち明けることが出来たのは、お互いに良かったのかもしれないとセファレットは思った。

「私たちはその人を救うことが出来なくてとても後悔したの。でも、リューヤくんにはそんな思いはさせたくないよ。だからこそ、イディアさんとはできれば話し合いたいって、そう思ってるんだよ」

 口先だけで言ってもリューヤには信じてもらえないかもしれない。だからセファレットは、自分の経験を踏まえてその気持ちを素直に伝えた。

 伝えると同時に、自分自身で改めて納得もする。きっと、レミュールを救うことも、イディアの心を救うことも可能だ。そう信じて。

 リューヤは驚いたようにセファレットを見つめ、そしてショーレンを仰ぎ見た。

「誰も、イディアを傷付けたいとは思ってない」

 にこりと、ショーレンは頷いてみせる。

「う、うんっ!」

 リューヤは嬉しそうに笑った。そして、ぴょこんとみんなに頭を下げると、照れを隠すように窓の外を見た。

「流月の塔だ ―― !」

 ふと気付いたように、リューヤが前方を指して呟く。

 そこには、太陽の光を受けて真珠色に輝く、優美な塔が建っていた。

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