第三章 4話

 アルファーダに僅かに存在している町々は、いつもとはどこか違う、ぎすぎすした雰囲気に包まれた『朝』を迎えた。

 まるでイディアの憎悪がアルファーダの全生命に大きな影を差しているように、人々も動物も自然も、すべてが生彩を欠いて見える。

 幸福な色に染められた童話世界のようだったこの町も、今は何もかもが色褪せたように感じられた。

 あのリューヤでさえ、しゅんとうなだれたまま湖から離れようともしない。彼はあのとき、イディアがいなくなる瞬間をその目で見てしまった。

 あの時 ―― 彼が湖に駆け付けた時、燃え盛る聖殿の中にイディアはまだ居た。静かに窓辺に立ち、二つの瞳はどこか遠い空を睨むように冷たい輝きを宿していた。

 そこから感じられるのは、吹き荒れる憎悪。強すぎる哀しみが紅蓮の炎の中で憎悪に形を変えた……そんな眼差しだと、リューヤは思った。

 いつも自分に穏やかな瞳を向けてくれたイディアとはあまりに違うその様子に息を呑み、一瞬、声を掛けるのが遅れた。

 そのほんの一瞬のうちに、イディアはいなくなってしまったのだ。

 炎が巨大な鳥のように空を舞い、聖殿が最期の咆哮をあげながら湖の中へと崩れ落ちる。その時すでに、イディアの姿はなくなっていた。

 あの時、すぐに声を掛けていたら? そうしたらイディア様はいつもみたいに微笑んでくれたかもしれない。優しく、リューと呼んでくれたかもしれない ―― 。

 そう思うと悔しくて……悲しくて、リューヤは固く唇を噛んだ。

「リューヤ、いつまでここにいるつもりだ?」

 ショーレンは少年の頭にぽんと手をおき、隣にしゃがみこんだ。いつも誰よりも元気なリューヤを知っていたから、そのあまりに沈んだ今との落差が痛々しかった。

「イディア様が帰ってくるまで」

 チラリと目を上げショーレンを見ると、リューヤはそう応えた。いつものいたずら少年特有の活発な黒い瞳が、捨てられた仔犬のように思える。

 くしゃっとリューヤの髪をかきまわすと、ショーレンはあざやかな笑みを口許に佩いて立ち上がった。

「こんな所で待ってるより、迎えに行った方が早いと思うぞ。イディアはきっと方向を見失って、帰って来れないでいるのさ。だからリューヤが迎えに行って、こっちだよって教えてやんなきゃな」

「…………」

 アルファーダを想うゆえの激しい悲しみと、優しすぎるその為人ひととなりが、イディアを憎悪の渦へと導いたのだろう。そうショーレンは思った。

 その憎悪こそが、レミュールに月を落すのだという。けれども……たった一週間ではあったけれど、その人物に接し、また彼を心酔するリューヤの話を聞いていたショーレンには、イディアの本意がだとは、思えなかった。

 イディアの憎悪が何に向けられているものなのか。それは、自転停止の真実、そしてイディアが何者であるのかを知らないショーレンには分からない。だからこそ、そんなふうに楽観できたのかもしれなかった。

 リューヤはちょっと俯き、ショーレンの言葉を心の中で噛み砕くように考える。そして、ゆっくりと顔を上げた。

 その言葉が比喩であることは分かったが、それは案外名案であるような気がした。

「イディア様を呼ぶのには『様』をつけろって言っただろ」

 少しだけ、いつもの闊達な瞳を取り戻し、リューヤはぷんっと口を尖らせる。

「まあ、今回は許してやるけどさ」

 言って、照れくさそうに横を向いた。自分が後ろ向きな思考に走っていては何もならない。そう思った。

 そしてふと、リューヤは気が付いたようにショーレンの顔を仰ぎ見た。

「アルディスは、もうみんなとレミュールに帰っちゃうのか?」

 人々が眠りについている『夜』の間に、外からこの湖の岸辺に運び込まれたイファルディーナを見て、不安な表情が少年の瞳に海のように広がった。ここでショーレンまでいなくなったら、あまりに心細い。

 ショーレンは軽く少年の頭をたたくと、明るく笑った。

「まだレミュールには帰らないよ。俺たちは流月の塔に行く。そこに、もしかしたらイディアもいるかもしれないな。……一緒に、行くか?」

「行くっ!」

 リューヤは間髪いれずに応えると、ぴょんと立ち上がった。

 最後にイディアと話をした時、何があっても町から出るなと言われていたが、彼は初めて『イディア様の言いつけ』に逆らおうと思った。

 リューヤにとってイディアの言葉は絶対だったけれど、それがイディア自身に関わることであれば話は別だった。

「イディア様のお手伝いをするって、おれはずっと決めてたんだもん。道に迷われてここに……在るべき場所に戻って来られないのなら、お迎えにいかなきゃなっ」

「ん。そうだそうだ」

 にこりと笑って、ショーレンはリューヤの頭を思い切りなでてやると、背後に待つイファルディーナに向かわせる。

「 ―― !?」

 焼け落ちた聖殿をぼんやりと眺めていたティアレイルは、イファルディーナに乗り込むリューヤに気付き、信じられないというようにショーレンを振り返った。

 今のイディアは少年の知っている穏やかで優しい青年ではないかもしれない。憎悪を解放し、レミュールへの復讐に身を委ねている狂気の人かもしれないのだ。

 そんなイディアがいる場所へ、彼を慕っているリューヤを連れて行くのはリューヤを傷付けるだけではないか?

 ショーレンは意志の強い笑みを浮かべ、ティアレイルの前に立った。

「リューヤにとっては、どんなイディアでも『大好きなイディア様』だよ。それにあいつは強いからな。平気さ」

「…………」

 深い信頼の込められたその言葉に、ティアレイルは軽く唇を噛んだ。

 本当は、流月の塔に行きたくないのは……イディアに会うのが嫌なのは、リューヤではなく自分なのだ。

 イディアと出会ってからずっと抱き続けている同調と反撥。不思議な懐かしさを感じさせるイディアの心に、ゆうるりと、しかし確実に引きずり込まれてしまいそうな自分自身を、ティアレイルは持て余していた。

 夢という意識の中で見てしまったイディアの過去が重く心にのしかかり、さらにその気分を増大させる。

 イディアという存在の意味。そして自転停止の真実とレミュールの虚偽。生まれては消える疑問と解答。何が正しくて何が間違っているのか。自分自身でいまだ判断がつかないそのことを、誰かに話すわけにもいかなかった。

「……大切な存在が豹変した姿を見るのは、辛いことだよ」

 ティアレイルは科技研の青年を睨むようにそう呟くと、くるりと踵を返した。

 ふわりと、やや癖のある蒼銀の髪が風を孕んで宙を舞う。そうして無言のままショーレンから離れ、ティアレイルは先程リューヤが入った同じドアからイファルディーナに乗り込んだ。

「確かに……おかしいかもな」

 拒絶の色を浮かべて立ち去る大導士を眺め、ショーレンは軽くため息をついた。

 アスカの懸念どおり、イディアの存在がティアレイルに何かしらの影響を与えていることは確かなようだと、ショーレンはそう思った。

 レミュールにいた時には『象徴』と呼ばれ、人々の尊崇を一身に受けていた大導士とは違い、どこか精神が不安定であるように見える。

 自分は彼が腹の底で何を考えているか分からないと思ってはいたけれど、レミュールでのティアレイルはいつも穏やかな空気をまとい、人々に安心感を与える存在であったのは確かだ。

 それが今は、容易に心のひだが見てとれる。感情のコントロールが上手くいっていないように思えた。

「おい、ショーレン早く乗れよ。おまえが操縦するんだろ?」

 車体に手を掛けるように立っていたアスカは、ぼんやりとこちらを眺めて立ち尽くしている友人に声を掛けた。

 普段なら一番最後まで外に残っているだろう幼なじみが既に車に乗っているというのに、まっさきに乗っていそうなショーレンが外にいることが可笑しかった。

「ああ。いま行く」

 ショーレンは意志の強さをうかがわせる藍い瞳に強い笑みを宿して頷くと、軽快な足取りで近づいてくる。

「お手柔らかにお願いしますね。ショーレンさん」

 コントロール系装置の前に立ったショーレンに、セファレットはくすくすと笑った。彼の豪快な操縦のほどを、さっきルフィアに聞いていたのだ。

「ハシモトちゃんにいらんことを言ったのはアスカかな、それともルフィアかな? 俺は人を乗せたときは安全運転だよ。安心して乗っていいって」

 ショーレンは楽しげに笑うと、いたずらっぽく片目を閉じた。

 そして、鮮やかな手付きでコンピューターを操作して、ゆっくりとイファルディーナを発進させる。

 自然の中でも大いに生き生きとしていたけれど、やはりコンピューターをいじっている時のショーレンは楽しそうで、水を得た魚のようだ。

 そんな同僚の久しぶりな姿に、ルフィアは可笑しそうに声をあげて笑った。

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