第三章 3話

「おい、セス。あんな記事を書いて本当によかったのか?」

 デスクに向かったままペンをくわえるように天井を見上げていた青年に、男は溜息をつくように声を掛けた。

 彼の書いた原稿を初めて見たときは、もちろんすぐに却下した。けれどもめずらしく執拗に食い下がってきたセスに、とうとう根負けしたこの男が日蝕特集の臨時号として、ゲリラ的に雑誌を発刊したのはつい昨日のことだ。

「出したあとに言ったって、仕方ないでしょう」

 発刊責任者であるこの男……ケイトを軽く見やると、セスは肩をすくめた。

「それに俺は、別にアカデミーを批判するためにあれを書いたわけじゃない。批判したいのは自分達のことさ。アカデミーのため……っていうと僭越かもしれないけど、あれは両アカデミーに良かれと思って書いたんだよ」

「……確かにアカデミーを直に批判してるわけじゃないよな。まあ、俺もおまえがそう言ってくるから、根負けして臨時号の発刊に踏み切ったんだがなぁ」

 それでも不安そうに、ケイトは頭を振った。

 自分で物事を考えなくなり、何かに頼りきった人間は本当にもろい。

 民衆の代わりに何もかもをやってくれていたアカデミーという存在に、もし何か間違いがあれば、自分達も一緒に、しかも知らないうちに倒れてしまうだろう。

 そうなればそれまでずっと頼りにし、そして信仰していたその存在を、今度はすべての責任をかぶせて憎悪の対象にしかねない。今のレミュールの人間たちはそういう脆さと狡猾さを併せ持っている。

 けれども、それでは根本的な解決にはならないのだ。

 だからこそ物ごとの本質をしっかりと自身の目で見極め、そして考えることが今の自分たちには必要なのだとセスは思う。

 そうしてもし何か危急を迎えた時にも、己自身で対応できるような知識と確固とした意志を持っていなければならないのではないだろうか?

 セスは、あの時ティアレイルと僅かな会話をした中でそう感じ、そして他の人間たちにもそれを伝えたい。そう思った。

 それが、自分に情報を与えたティアレイルの真意だとも思った。だからこそ、彼は迷いながらもあの記事を書いたのだった。

 それがまさか、こんなにも人々を動揺させ、逆に不安に陥れる結果になるとは思っていなかったのだけれど ―― 。

「それだけ人々の心にアカデミーへの信仰が根付いている証拠なんだろうな」

 セスは大きく腕を伸ばしながら、ひとりごちた。

「おまえさんの言うことにも一理あるけどな。ただ、あれ以来ティアレイル大導士の姿は見えないし、夜は明けないしで、余計にみんなが神経質になってるんだよ。他にも何人か姿の見えないアカデミー員がいるらしいしな。いったい何がどうなってるんだろうなぁ。セスはなんか知ってるのか?」

 ケイトはたくましい腕を組みながら、いまだに暗闇に閉ざされたままの窓外に目を向ける。セスは軽く首をかしげると、何事かを考えるように目を閉じた。

 彼の住むマンションの隣人であり、科技研のメインコンピューターを管理しているアルディス・ショーレンの妹の話によれば、彼女の兄もあの日以来、家に帰って来ていないらしい。

 兄の友人から『仕事で一緒に出かける』のだと連絡は入ったけれど、いつもは必ず連絡してくるはずの兄からは、直接には何も言葉がなかったのだと、ファーヴィラは少し残念そうに教えてくれた。

「……ってことは、魔術研だけじゃなくて科技研も今回の件に関わってるのか」

 セスは一度頭を振ると、おもむろにデスクから立ち上がる。どこに行くんだというケイトの問いかけに、セスは彼特有の人好きのする笑みを浮かべた。

「両アカデミーの様子を見てくるんだよ」

「おまえさん、気をつけろよ。アカデミーの妄信的な信者に何かされてもおかしくない状況だからな」

 ケイトは心底セスの身を気遣うように、そう言った。

「ありがとう。でも大丈夫だよ」

 にこりと笑い、上司であり友人であるケイトにひらひらと手を振ると、セスは事務所を後にした。



 しんと静まり返った部屋の中で、ロナは水をいっぱいにたたえた硝子の器を見つめていた。そこにぼんやりと何かの影が映し出されてくる。

「見てごらん、ルナ」

 ロナは、ルーカスの遺したノートを食い入るように見ている妹に声をかけた。その声にはいつものような張りはなく、一昼夜ずっと魔力を使い続けたためなのか、どこか疲れたようにも見えた。

 ルナはノートから顔をあげ、兄の創り出した遠視用の『水鏡』をじっと見やる。

「この青年が『大自然に愛された赤子』の成長した姿なの?」

「そうらしいな」

 ロナは軽くこめかみを押さえながら、瞼を閉じた。

 水鏡に映るのは、ひどく哀しげな、けれどもとても激しい眼光を宿した青年の姿だった。長く伸ばされた白銀の髪が、翼のように風に舞っている。

 翡翠のような緑色の瞳が見下ろすその眼下には、ロナたちがルーカスの炎舞視でみたアルファーダのどの景色よりも荒れ果て、そして完全に死に絶えたような大地が広がっていた。

「なんだか少し、ティアレイルくんに似ているわね?」

「……そうだな」

 ロナは溜息混じりに応えた。しかし敢えてそれについては言及を避けるように、水を弾いて画面を切り替える。すると、今度は真珠色に輝く塔が水面に映し出された。

「これが流月の塔だ。……見てすぐに分かったよ。今なお、この塔は生命を喰らい続けている。今でもレミュールは、西側世界アルファーダの生命によって生かされているのだとね。そこの民であるこの青年がそれを止めようというのは、正当なことかもしれない」

 ロナは深い溜息をつくと、カイルシアと同じ白色の瞳を夜空に向けた。

 レミュールを守るために流月の塔を建てたカイルシアの子孫である自分たちが、イディアが『アルファーダ』を守るために取ろうとしている行動を責めることなど出来るのだろうか? そう自問しているようだった。

「ロナは月が落ちても仕方がないと思っているの? 黙って死ぬのを待つつもり?」

 ルナはしっかりと兄を見つめ、そう尋ねる。何かを犠牲にして生きていたいとは思わない。けれど、黙ってそれを待つのも嫌だった。

「いや、そのつもりはないよ。だからこそ私は彼らに流月の塔の乱れを修正して来いと命じた。……だがそれは、あるいはという命令だったのかもしれんな」

 ロナは自嘲的な微笑をその頬に刻み、ルナを見やる。

 流月の塔を発動させるのに、カイルシアでさえ命を落とした。それを修正するとなれば、やはりそれなりの犠牲が出るはずだ。

「……兄さん」

 珍しく弱気な兄に、ルナは目を見張った。何がそんなにロナを不安にさせているのか、分からなかった。

「 ―― 弱気になっているわけではない。ただ、自分はやはりカイルシアの子孫なのだと、痛感しただけだ。結局は、私も何かを犠牲にしてレミュールを守ろうとしているのだからね」

 溜息をつくようにそう言うと、ロナは再び水鏡に視線を戻す。普段は大らかなくせに意外と気苦労な兄に、ルナは穏やかな瞳を向けた。

「ねえ、ロナ。あの子たちは素直に犠牲になんかなったりしないわよ。なにせ、一筋縄じゃいかない子たちなんだから」

 どう考えても、彼らが簡単に自分たちの命を粗末にするとは思えない。一人心配なのもいるけれど、周りがそれを許さないだろう。

 ルナはD・Eに送り出した面々を思い浮かべながら、明るく笑った。

「きっとみんな、無事に任務を完了するわよ」

「ふむ。確かにそうだな」

 ふっと、ロナも笑った。心配と後悔は尽きなかったけれど、今は彼らのことを信じるしかないだろう。そう思った。

「……ん? ルナ、あのセスとかいうコラムニストが魔術研に訪ねてきたらしい。受付のミザリー導士がいま私の残像かげに伺いを立てているよ」

 不意に、ロナは何かに気付いたようにそう言った。

 総帥室に残してきた自分の残像に、ミザリーという導士が話し掛けたのだろう。残像が見聞きしたことは、すべてそうして自分に伝わるようになっている。

「もう日蝕ではすまないだろうからな。……少し、情報公開するか」

 苦笑するように、ロナは金糸の髪を揺らした。

「……けっきょくは、最初にティアレイル大導士がしようとしていたことと同じになったな」

「そうね。じゃあ、私とロナの二人で、そのセスという彼に会いましょうか。現在は魔術研と科技研の双方で緊急対策中ですってね」

 ルナはあでやかな笑みを浮かべて、立ち上がった。

 すべての情報を公開しては、民衆の動揺をおさめるどころか拡大させるだけだろう。だから二人は考えた。何をどこまで発表し、そしてどんな対応をすることで、動揺しきった人々の心を安心させることが出来るのか ―― 。

 それが今、D・Eにいるティアレイルたちに対して報いることの出来る……こちら側で自分たちが出来る最大の仕事だと、そう思った。

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