第三章

第三章 1話

 レミュールの夜が明けなくなってから、既に一週間が過ぎていた。

 そのあいだ魔術派の発表を信じて黙っていた人々も、いっこうに明ける気配すらない夜の空に、不満と不安はピークに達していた。

 いつもならば自分達の不安を穏やかな微笑みで打ち消してくれるティアレイルが、何故か民衆の前に出てこない。

 それどころか夜が明けなくなってからこっち、ティアレイルの姿を見かけた者もいないのだ。そのことが、余計に人々の不安を煽っていた。

「ティアレイル大導士はどこです? こんな時こそ我々の不安を消してくれるのが象徴の役目というものでしょう!」

「総帥を出せ、いったいどうなっているんだ?」

 魔術研究所の中央聖塔の前にたくさんの人間が集まって何やら叫んでいた。もう、さすがに『日蝕』で納得出来る範囲は越えてしまっている。

「ふ……む、まずかったようだな。議員達を安心させるためとはいえ、安易に日蝕と言ってしまったのは」

 総帥室の窓からそれを見やり、ロナはうんざりしたように溜息をついた。今更ながらに彼は、そんな古い現象を引っ張り出して言ったことを後悔していた。

 日蝕と発表したあとすぐに、ロナはアカデミーが持つ特殊な権限と力を使い、すべての日蝕に関する情報を封鎖・封印・消去していた。

 図書館も、コンピューター端末も、レミュールにおける全ての情報網は、他者にはそうとは知られずに、科学・魔術の両アカデミーが手中にしている。

 都合の悪い情報は秘匿し、アカデミーに都合の良い情報だけを開放する。自転停止の事件以来、魔術派と科学派はそうして互いに勢力を高めながら、民衆に対する情報操作を行ってきた。

 それを今回、ロナとルナは科学・魔術両代表の権限をもってアカデミーに発令し、そして実行していた。

 そのため、一般の人間が日蝕についての詳細を知ることは、本来であれば叶わないはずだった。

 けれども人々は何故かそれを知った。しかも、どこでどう間違えたのか、凶事の前兆であるなどという原始的な解釈までもが人々の間に広まっていた。

 月が落ちるということを考えれば、あてずっぽうとはいえ当たっているとも言えるからこそ、なお性質たちが悪いと、そうロナは思った。

「ティアレイルくんがやろうとしていたとおり、人工太陽の故障だって、みんなに秘密をばらしてしまえばよかった?」

 ルナは兄に紅茶を入れてやりながら、美しい頬に微笑を刻む。

「いや、こんな時に両アカデミーが『嘘つき』だなどと知られたら、よけいにパニックの収拾が付かなくなる。大導士もそれくらいは分かっていたはずなんだが、あの時は何故か公表することにこだわっていたな。……セスとかいうコラムニストにも、何か話したようだしね」

 先日アカデミーの目に留まる前に、ゲリラ的に発刊された雑誌を投げ捨てながら、ロナはしきりに右手で顎を撫でる。

≪ ―― 人はもっと自分の目で物事を見て、そして考えなければいけない。今はただただ科学派と魔術派が我々が生活しやすいようにと、すべての環境を整えてくれている。だから、人は自分でものを考えなくなった。

 与えられた情報をそのまま受け取り、それが正しいのか間違っているのか、自分で判断しようとはしない。すべてにおいてアカデミー任せにするのが我々の現状だ。

 日蝕という発表があったあと、ティアレイル大導士は私にこう言われた。『少し自分で調べてみるといい』と。そのとき私は、人は、もっと自分で考えなければいけないのだと、彼にそう諭されたような気がした ―― ≫

 今回の『日蝕』で民衆が動揺しだしたきっかけは、セスが書いたこの記事が原因といってもいい。ひいては、彼に情報を与えたティアレイルの……。

「衝動的なものだったんじゃない? あの子はまだ若いから。でも、今はそんなことを考えるよりも、みんなの不安をどう静めるかが重要でしょ」

 兄のどこか老人のような仕草が気にいらなかったのか、ルナは眉を跳ね上げ、いささかつっけんどんな物言いになった。

「……だな」

 応えながらロナは、軽く空を見あげた。一週間前よりもさらに、月が近付いているように見える。

 まだ他の人間には判別出来ないだろうが、そのうち一般の人でも月が近付いていることが分かるようになる。そうなれば、さらに混乱が広がることは火を見るよりも明らかだった。

「うまくいっていないようだな。大導士たちは……」

 ソファに体を投げ出しながら、ロナは溜息混じりにそう呟く。その拍子にテーブルを蹴飛ばして、ルナが淹れてくれた紅茶を床にぶちまけた。

 陶器の割れる硬質な音が部屋に響くと、ロナは自分のせいだと言うことを棚に上げ、嫌そうに顔をしかめた。

「落ち着かないみたいね。珍しいじゃない? ロナがそんなに苛々しているなんて」

「……ああ。何かとても嫌な感じがするんだよ。こんな感覚は初めてだな」

 妹に図星を指されたことに苦笑を浮かべ、ロナは両手で髪をかき上げた。

 長年生きてきた中で、こんなに気分がざらつくような感覚を味わったのは初めてのことだった。

「 ―― !?」

 刹那、魔術研究所の敷地内にある湖上の大鐘楼の鐘が、狂ったように鳴り響いた。建設された当初から一度も鳴り響くことのなかったが、まるで悲鳴を上げるように音を出している。

 ロナは胸を突かれたように目を剥いた。ひどく悪い予感が脳裏を駆ける。

「……ロナ、湖が燃えているわよ」

 ルナは窓の外を見やり、信じられないというように茫然と呟いた。

 本当に燃えているわけではなかった。まるで蜃気楼のように、あざやかな紅影が湖面に立ち上ぼっているのである。

 それは夢幻的な光景で、しかし、どこか恐ろしい感覚を見る者に与えた。

 外に集まっていた人々はその光景に驚き、やはり凶事の前触れと恐れ騒ぎ立てる。魔術研究所の所員たちは、その対応に大わらわとなった。

「D・Eで、何かあったのかもしれんな」

 ぽつりとロナは悲観的な言葉を漏らす。

 いつの間にか自分の隣に立ち、窓外を眺めていた兄の言葉にルナは息を呑んだ。

「あの湖とD・Eのどこかが、同空間にあるという話を信じているの?」

 昔から一部の魔術者だちの間で信じられてきた仮説。愚者のたわごととも思えるその言葉を思い出し、ルナは軽く首を振った。

 現実的なこの兄が、まさかそんなことを信じているとは思わなかったのだ。

「今までは半信半疑だったがな。今……一瞬だけあの紅影ほのおの向こうに人が見えた。D・Eに行ったはずの、ティアレイルたちの姿がね」

「 ―― !」

「あの大鐘楼は、魔術研が創設される当初からあったものだ。カイルシアの弟ルーカスが建てたものだと言われているが、同空間に存在するD・Eとレミュールとの環境混同を防ぐ封印だという説と、二重結界のために遠視出来ないD・Eの様子を見るための魔法陣だという説がある」

 ロナは淡々と、代々魔術研究所総帥の間で伝わってきた話をする。

 ルナは無言のまま、いろいろな出来事を整理するようにうつむいた。

 自分は科学者だが一応カイルシアの血を引く『ラスカード家』の人間である。魔術者の直感や、影視・遠視能力などの信憑性の高さは熟知していた。

 それに彼女は兄の言うことなら大抵は信じることにしている。

「ロナはどっちの説が正しいと思うの? それとも、独自の説があるのかしら?」

 いつものように艶やかな笑みを口元に刻み、ルナは兄を見やった。

 ロナは、やんわりと微笑を浮かべた。

「ルナ、確かめに行ってみるかい?」

「でも……結界があるんでしょう?」

 どちらの説が正しいのか、大鐘楼の中に入ってみればすぐに分かることだった。

 それなのに今まで真偽を確かめた者がいなかったのは、大鐘楼にはルーカスの強力な結界が張られ、彼が死んでからその中に入れる者がいなかったからだ。

「ああ。だが、さっきの紅影のせいで大鐘楼の結界が弱まったみたいだからな。今なら入口を開くことが出来そうな気がする。……もし、あそこがD・Eを見る魔法陣ならば、ティアレイル大導士たちの様子を見ることが出来るだろうし、行く価値はあると思うが」

 彼らに何かあったのではないかという考えが、ロナの頭からずっと離れなかった。

 自分ですら行ったことのない『死した土地』に彼らを送り込んだのは、大きな失策だったかもしれない。そうロナは思っていた。

「魔法陣だといいわね。あの子たちがショーレンと合流できたのかも気になるし」

 いつにない真剣さを帯びた妹の口調に、ロナは苦笑を浮かべた。やはり、彼女も自分と同じ後悔を抱いているようだった。

「……外から行くと周りがうるさいからな。ここから直接入るぞ」

 ロナはそう言うと、ルナを連れて大鐘楼に転移する。

 思った通り大鐘楼の結界は弱まっていた。今まで入れなかった大鐘楼の内部に、すんなり転移できたことでも、それは明らかだった。

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