第二章 14話
はっと、イディアは目を覚ました。今は涼風の吹く過ごしやすい時間であるはずなのに、薄絹の寝着が汗でぐっしょり濡れていた。
イディアは深い呼吸をひとつ吐き出すと、ゆっくり寝台から体を起こし、窓の外に視線を向けた。
窓の外はいつもどおり瑞々しく薫る緑の樹木と澄んだ湖。美しい自然たちが視界いっぱいに広がって、優しく風がそよいでいる。
「……みな……私が創った……」
両手で頭を抱え込むように崩れ落ち、苦しげに呟く。左の瞳から、一筋だけ涙がこぼれ落ちた。
いつもそばに在る優しい風が、彼を慰めるようにふうわりとまとわりついてくる。けれども。イディアはうっとおしげにそれを振り払った。
「忘れていたわけじゃない。あの日のことを。ただ、愛しかっただけだ。このアルファーダに息吹く生命が。ここに……憎悪の風を吹かせたくなかっただけだ……」
右手で額の珠玉を掴み、イディアはぽつりと呟く。
「それなのに、何故ここに来た!? 今度は……私が創ったこの生命たちを奪おうというのか! また、東側のためにっ!」
今までに見せたこともないような激しい感情を、イディアは言葉と共に吐き出した。
刹那、ぱり…んと、澄んだ高い音をたてながら、額環の翡翠石がイディアの手の中で粉々に砕け散った。
そのかけらを投げ捨てて、イディアは無言で立ち上がり天空を見やる。
天空にはレミュールの蒼月が、白くぼんやりと浮かんで見えた。
本来ならば、夜の闇が優しく世界を包み込んでいるはずの時間。しかし、いつまでも夜になることのない、青い空 ―― 。
「すべてはあの塔のせいだ。あれがあるから、アルファーダは再生出来ない……」
イディアは固く唇を噛んだ。
さっき彼の手の中で砕けたのは額輪の珠玉ではなく、穏やかな彼の瞳の方であったのだろうか?
イディアの双眸は、壊れた翡翠石と同じ憎悪の輝きを宿し、遥か彼方の流月の塔を睨みすえるように、冷たく……そして激しく見開かれていた。
「 ―― なんだ?」
ショーレンと久し振りに語り明かしていたアスカは、とつぜん鳴り始めた激しい鐘の音に眉をひそめた。
まるで警鐘のように、けたたましい鐘の音が町中に響き渡っていた。
「イディアの聖殿にある大鐘楼の鐘だと思うが、こんなふうに鳴るのは初めてだな」
ショーレンも訝しげに窓の外を見やる。
普段は時を告げる鐘として柔らかな響きをかもしだす鐘である。しかも今は眠りの夜とされる時間帯で、時の鐘は鳴るはずがなかった。
「……空気がざらついてるな」
アスカは何か嫌な気を感じたように、そう呟く。その感覚を拭うように髪を無造作にかき上げながら、彼は窓を開けた。
ふと視線を上げると、町の中央、イディアの聖殿がある場所から黒煙と紅炎がゆるやかに立ち上ぼっているのが見えた。
「ショーレン、燃えてるぞ!」
アスカが叫び、ショーレンはみんなに知らせようと席を立つ。そのショーレンにぶつかるように、ティアレイルが奥の部屋から飛び出して来た。
「憎悪が解放された……」
茫然と、ティアレイルは呟いた。
黒煙を上げて燃える聖殿を苦しげに見つめ、強く頭を振る。
今、ティアレイルの脳裏に映る予知は、変えようもないほど鮮明にレミュールの崩壊を見せていた。
しかしそれ以上に、イディアの見た『過去』がティアレイルの胸を締め付ける。
どうしてだかは自分でも分からなかった。けれど、ティアレイルもイディアと同じ夢を見た。古月之伝承には書かれていなかった自転停止の真実と、それに伴うイディアの過去を ―― 。
自転停止から、すでに数百年の月日が流れている。しかしティアレイルは、あの赤子がイディアなのだということを疑いもしなかった。
「……あれは……でも……」
ティアレイルは、何かに迷うように蒼銀の髪を揺らした。
彼は以前にも同じような光景を、違う視点で見たことがあった。激しい閃光が走り、それによってすべての生命が一瞬にして消える。そして荒野と化した大地。
それを見たのは、ティアレイルがまだ子供の頃……十二・三歳くらいの時だ。
魔術という力の存在をアスカに教えてもらったばかりのあの頃。魔術研究所の湖上の大鐘楼のベンチで魔術関係の本を読みながら、ティアレイルは子供の好奇心からそこに書いてあった風鏡の術を使ってみたのだ。
そのとき風鏡に映ったのが、『閃光によって死にゆく大地』の姿だった。
その光景を、ティアレイルが忘れるはずもない。彼が科学派を徹底的に嫌悪しはじめた原因は、そこにあったのだから。
そのときティアレイルは見たのである。すべての生命を奪う光を発した、機械仕掛けの『塔』の姿を ―― 。
「……あのとき私が科学派の仕業だと思ったものは、実際は……魔術だったというのか?」
ティアレイルは唇を噛んだ。信じてきたものが崩れていくような感覚に、激しいめまいと吐き気がした。
あの光を発したのがカイルシアであるならば、それは魔術によって発せられたものということになる。自分は……本来嫌悪するべきものの『象徴』になってしまったのだろうか……。
「そんなはずはない。あの『塔』は確かにコンピューターで動いていた」
ティアレイルは崩れそうになる足許を必死に支えるように壁にもたれ、ここには無い何かを睨むように翡翠の瞳を宙に向ける。
「どうした、ティア?」
ティアレイルの肩に手を添えて、アスカはその瞳を覗き込んだ。
むかし見たことがある、心を壊してしまった人間と同じような眼光を宿した幼なじみの様子が、アスカには恐ろしかった。
ティアレイルはゆっくりと瞼を閉じ、そして、ふたたび瞳を開くと同時に穏やかな表情を作り上げる。
「なんでもないよ。アスカ」
今は、自分の思想のことなどで思い沈んでいる時ではなかった。
イディアの憎悪が解放されたこと。そしてレミュールを救うこと。自分は、ただそれだけを考えていれば良い ―― 。
「……やはり私たちの存在が、イディアの憎悪を呼んでしまったようだ」
ティアレイルは瞬きひとつする間に精神的再建を果たし、窓の外に見える光景に悔しげにそう言った。
「いまこの瞬間、レミュールに月が落ちることが、より確定的になった」
「予知の確定ってやつか。ちっ。そんなことより、今はあの炎をどうにかしようぜ」
ショーレンは苛立たしげに吐き捨てると、家の外に飛び出そうとする。
そんなショーレンの横を、リューヤが風のように駆け抜けた。外に出て、燃え盛る空に息を呑む。
「 ―― 聖殿が!」
信じられないというように目を見張り、リューヤは叫んだ。炎がイディア様を殺すとは思わない。けれども、何かとても嫌な予感がした。
ショーレンと荒野で別れてからすぐに、リューヤはイディアの様子を見に行ったのだ。その時はいつもと変わらない、穏やかで優しいイディアだった。
しかし、その別れ際にイディアはリューヤに静かに告げたのである。
―― これからは、何があっても町から出るな……と。
その時のイディアの表情が、リューヤは忘れられなかった。とても真剣な表情で。そして、ひどく哀しげで……。
「イディア様を助けないと!」
リューヤは必死になってパルラに飛び乗った。
「なんで、町の人たちは起きてこないのよ!?」
しんと静まり返った町並みを見て、ルフィアは信じられないというように叫んだ。
こんなに激しく鐘が鳴っているのに……。
彼らの大切なイディアの聖殿が燃えているというのに ―― 。
リューヤは固く唇を噛んだ。
「いつも、おれだけなんだ。眠りの夜にも起きていられるのは。他の人は……みんなは絶対に起きてこない。だから、おれがイディア様を助けなきゃ!」
そう叫ぶと、リューヤはパルラの尻を強く叩き、町の中央向けて走って行く。
「俺たちも行こう!」
ショーレンが皆を促した。
しかしリューヤのようにパルラがいるわけでもなく、また、いつものように車があるわけでもない。普通に走っていくには距離があり過ぎた。
彼らが湖に辿り着いた時には、既に聖殿も大鐘楼も焼け落ち、そして、炎は嘘のように鎮まっていた。
「 ―― イディア様」
焼け落ちた聖殿の残骸を眺めるように、茫然と立ち竦んだリューヤの呟きだけが、哀しげに風の中に響いていた。
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