第二章 13話

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 月も星も隠れ、深い暗闇が広がる夜空を眺めながら、男は深い溜息をついた。

「……活動が……止まる」

 その隣で、小さく可愛らしい靴下を楽しそうに編んでいた女は、不意に呟かれた男の声に、驚いたように顔を上げた。

「カイルシア様? 何かおっしゃいました?」

「ああ。……地球の活動は止まると言った」

 あまりに淡々とした、けれども恐ろしげなその応えに、女は持っていた編み棒を床に落としたことも気付かずに目を見開いた。

 自分の夫であるカイルシアは、世界で最も強大な力を持つ魔導士である。その彼が言うことに間違いはない。

「大自然もまた、その生命活動をすべて停止するだろう。このままいけば二十年……いや、十五年後くらいか」

「…………」

 女は不安そうにカイルシアを見上げた。

「心配するな。地球や自然の生命活動が止まっても、何も変わりはしない。いや、私が変わらせない」

 自信に溢れた笑みを、カイルシアはその独特な白色の瞳に刻む。

 その笑みに、女は安心したように微笑んだ。心の底からカイルシアという人物を信頼しているようだった。

 そんな彼女から視線を外し、カイルシアは再び天空に瞳を向けた。

「……そのためには、何でもする」

 誰にも聞こえないほど小さな呟きを、カイルシアは口の中で漏らす。それは、ひとつの決意だった。

 この惑星すべてを救うことは出来ない。彼は、それを知っていた。

「エリス、本部に出掛けてくる」

 そう言うとカイルシアは妻の頬に軽い口付けをし、その場から姿を消した。

 夫の体が空気に溶け込むのを眺めながら、エリスはふうっと溜息をついた。結婚したばかりだというのに、あまり一緒にいることがない。

 夫であるカイルシアの身分を考えれば、それは仕方のないことであったが、それでもやはり寂しいと思ってしまう。

「あの人が、もっと普通の人だったら良かったのに」

 彼女は拗ねた子供のように呟くと、寂しさを紛らわすように再び編み物を始めた。


 カイルシアは統帥本部に着くと側近たちを緊急招集し、自らが予知した自然たちの反乱ともいえる最悪の未来を告げた。

 けれども、妻であるエリスに言ったことと少し内容が違っていた。彼は側近たちに自転の停止は『一年後』だと伝えたのだ。

 側近たちは真っ青になった。

 自分達が超魔導を完成させたことによって、もっともっと魔術文明は発達していくはずだった。それが、自然界の乱れを引き起こすことになるとは考えもしなかった。

「カ……カイルシア様、それでは我々はどうなるのですか?」

 側近たちはすがるように、人類の代表者であり、強大な魔導士でもあるカイルシアを見やる。

 カイルシアは、淡々したと笑顔を見せた。

「案ずることはない。自転停止を防ぐことは出来ないが、この惑星に自転と同じ影響を及ぼすことなら出来る。生命活動の停止もそれによって防ぐことが出来るだろう」

 ゆっくりと瞼を閉じ、そして何か心を決めたように、その白色の目を開く。

「……西側のほぼ中心に塔を建てる。その塔に私の全魔力を集中させ、蒼月の魔力と連動させることで、惑星は死なずに済むだろう」

 一気に、カイルシアはそう言った。

 側近たちは不審げにお互いの顔を見回した。カイルシアが何故、統帥本部のあるこの地ではなく、反対の西側にその塔を建てるというのか分からなかった。

 惑星を守る魔力が発揮される塔ならば自分達のいる東側に建て、より高い安全を得たいというのが彼らの考えだった。

 カイルシアは楽しげな笑い声を上げた。

「西側の者は、我々がとかく本部のある東にばかり政策を施す、とうるさいからな」

 激しい後ろめたさを感じながらも、カイルシアは淡々とした表情を崩さず、今回は向こうに譲れと諭すように言う。

 側近たちは、どこに建てても効果に変わりはないというカイルシアの言葉に、渋々ながらも納得した。

「では、早急に塔の建設計画を始めてくれ」

 そうとだけ言うと、カイルシアは一人の側近を除き、皆を退室させる。残された側近はカイルシアが最も信頼する男。弟のルーカスだった。

「……ルーカス、おまえに話がある」

 カイルシアは先程とは打って変わり、どこか苦しげな表情でそう切り出した。

 ルーカスは不審そうに首を傾げた。

「予知に対する対策に、何か不都合でもあるのか?」

 さすがに勘の鋭い弟に、カイルシアは僅かに苦笑した。

「不都合なんてものではない。塔が建つ西側の大地は……すべてが死に絶えるのだから。私の魔力と惑星半分の生命力をかけて、こちらの地を守ることになるのだ。地球すべてを救うことは、不可能なんだ」

「…………」

 ルーカスは、ごくりと唾を飲み込んだ。この兄が不可能だと言えば、それが可能になることはない。それは分かり過ぎるほどに分かっていた。

「それに……ルーカス。自転停止が起こるのは本当はもっと先の……十五年後くらいの話だ。だが私は一年後にで自転を止める」

 はっきりと、カイルシアはそう断言する。ルーカスは思わず兄の顔をマジマジと見つめた。何を言っているのか、理解出来なかった。

「……なんでそんなことを?」

「もうすぐ、私を越える魔力を持った存在が誕生する。十五年後ではその者が成長してしまう。……その子供は、アルファーダに生まれるんだ。そうなれば、塔が建つのは東側になるかもしれない」

 カイルシアの声は少しひび割れて、弟の耳に届く。

 ルーカスは息を呑んだ。兄がこんな事を言い出すとは思わなかった。自分の感情で公明正大な態度を崩すということは、今までは決してしなかった兄なのである。

 しかし、大切な者を守りたいというその心情は理解出来た。この地に家族がいる自分には、兄の言葉に反対することなど、とても出来るものではなかった。

 それがエゴだと罵られたとしても ―― 。

「……そのことは、俺以外には言わない方がいい」

 ルーカスは、ようやく喉からしぼり出したような、かすれた声を出した。

「アルファーダ側が滅ぶのは、自転が止まったために起こる哀しいだ。カイルシア・ラスカードが、滅ぶのを承知でそこに塔を建てるわけがないからな」

 兄の白色の瞳をじっと見据え、ルーカスはそう告げる。

 カイルシアは僅かに瞳を伏せ、組んだ両手に顎を乗せた。

「……ルーカス、私は全魔力を発動することで、恐らく命を落とす。このことは、おまえ一人で背負うことになるかもしれない」

「俺は真実を知っている。だが、それを公表するもしないも俺の勝手だ。カイルシアの知ったことじゃない」

 兄の心理的な負担を軽くするように、ルーカスはあざやかな笑みを浮かべた。

 それくらい、なんでもないと思った。大切な者たちが多く生きる、この地を救うことができるのなら ―― 。


 西側世界の大陸にある小さな町で、一つの命が誕生した。

 美しい湖に面したその町は、新しい命の誕生に喜び賑わっていた。

 魔術者アクシアがこの町を訪れた時、ある妊婦を見て、生まれてくる子が『神の御子』だと予言したのである。

 アクシアは、この西側世界が生んだ初めての大魔導士だった。こちら側ではカイルシアよりも、アクシアの方が尊敬を受けていると言ってもいい。

 そんな彼女の予言を疑う者は、ここには誰もいなかった。

「神の御子様がお生まれになったぞー!」

 若い男が叫びながら町を走る。

 その声に、洗濯をしていた女たちはそれを放り出し、遊んでいた子供たちも遊ぶのをやめ、みんながその『御子』が生まれた家に駆け付けた。

 この『御子』は、西側世界の希望だった。

 人類が科学文明を捨てて魔術文明を選択して以来、世界は西のアルファーダと東のミュールに大きく区分された。

 ―― ミュールが現在のレミュールであり、『レ』とは『新しい』という意味を持つ言葉だった。

 大陸の総面積ではアルファーダの方が大きかったが、優秀な魔導士がミュール側に生まれることが多く、主導権は常に東側にあった。

 そこに、とうとう『神の御子』といわれる者が、この西側世界に生まれたのである。皆の喜びは大きかった。

「かーわいいねえ」

 赤子を遠巻きに眺めながら、さっきまで鬼ごっこをして遊んでいた子供たちは、感嘆したように吐息を漏らす。

 赤子は生まれて初めて見る『世界』に、無垢な翡翠の瞳を大きく見開いて、嬉しそうに笑っていた。

 不思議なことに、赤子は生まれた時からその瞳の色と同じ翡翠の珠玉が埋め込まれた額環サークレットを身に付けていた。

 それを見て、やっぱり神の御子様なのだと周りは嬉しげに囁きあった。

 この赤子が成長して立派な導士になることで、今はないがしろにされがちの西側も幸せになることが出来るだろう。人々はそれを楽しみにした。

 その時、激しく大地が揺れた。大地が悲鳴をあげ、ズ…ンと腹の底に響くような低い音が走る。

 何が起きたのか分からず慌てふためく人々の中で、一人の男が水晶玉を取り出しながら、恐ろしげな叫び声を上げた。

「カイルシアが建てた塔だ! あれが強い光を放ち、西側世界アルファーダを喰らっている!」

 男の水晶玉が映し出すその光景に、人々は恐れおののいた。

 何かが爆発するように塔から激しい光がたちのぼり、それが、まるで生き物のように地上全体を駆け抜ける。その光が通ったあとは、何も残ってはいなかった。

「御子様が、殺される!」

 誰かが狂ったように叫び、母親は必死に赤子をその胸に抱き締める。

 夫は母親ごと自分の子供を抱きかかえ、狂暴な『光』から我が子を守るようにうずくまった。

 ―― それが、最後だった。

 光が駆け抜けたあと、豊かだった大地は枯れ、川や泉は干上がり、そして生物はすべて死に絶えていた。

 西側世界は一瞬にして、命あるものが存在しない荒野と化したのである。

 眩い太陽と、気が遠くなるほど青い空だけが、ただただ変わらずそこに在った。

「 ―― 」

 ふと、赤子の泣き声がした。

 冷たくなっていく母親の腕の中で、赤子は火が付いたような泣き声を上げる。

 その二つの瞳からはとめどなく涙が溢れ、もう一つの瞳……額環の翡翠石が、死に行く者たちの姿をしっかりと焼き付けた。

 ―― 許さない……。

 その額に揺れる美しい翡翠の珠玉は、生まれたばかりの赤子が持つことの出来ない『憎悪』という感情を、代わりに深く宿した。

 ―― 許さない!!

 まるで失われた生命すべてを悼むように響く泣き声の中、赤子の額に揺れる翡翠の珠玉だけが、憎悪に満ちた輝きを放っていた ―― 。


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