第二章 12話

「これは、いったい何の集まりだ?」

 緩やかな優しい風が起こると共に、静かな声音が降りそそぎ、すべての視線が声の方へと向けられる。

 ゆうるりと薄藤のローブをまとった美しい青年が、風の中心に佇んでいた。

 彼はどこか蒼褪めたように、けれども優しげな微笑を口許にたたえたまま、周囲の様子を見つめていた。

「あ……イディア様。アルディスの友達が、迎えに来ちゃったんです」

 寂しそうに口を尖らせて、リューヤはイディアに訴える。家族のいないリューヤにとって、この数日間だけでショーレンが兄のような存在になっていることをイディアは知っていた。

 自分も何度かこの闊達な青年と話をし、確かに気持ちの好い人間だとも思った。けれども ―― 彼がレミュールの人間であることには変わりがない。

「もともとアルディスは反対側の人間なのだから。仕方がないだろう? わがままを言ってはいけないよ」

 イディアは優雅な足取りでリューヤに近付き、同じ目線の高さに腰を落とすと、その髪を優しく撫でてやった。

「……はい」

 リューヤは頷きながら、しゅんと下を向いてしまう。

 そんな様子に不憫だとも思ったが、イディアはこれ以上リューヤに、レミュールの人間と親しくして欲しくなかった。

 哀しげに微笑むと、ゆうるりと立ち上がり視線を元の高さに戻す。

「 ―― !?」

 ふと、その瞳が信じられない物を見たように見開かれた。

 目を向けたその先に、自分を凝視する眼差しがあった。静かに、しかし強く自分を見ている瞳。自分と同じ感覚を持つ、翡翠の ―― 。

「…………」

 イディアは深く息を吸い込んだ。

 自分と同じ感覚をその身に宿した存在が、そこにいる。その存在にまとわりつく微かな『気』に、それが反対側の人間であることはすぐに分かった。

 レミュールの人間からは、必ずといっていいほどカイルシアの守護ともいうべき魔力の残滓が感じとれる。

 リューヤがショーレンに初めて会ったときに『幽霊の匂い』と言ったのも、そののことだった。

 一瞬、頭の中に光が拡散したように、イディアは気が遠くなった。

「あなたがイディア、か?」

 ティアレイルはどこか息苦しげに首許を押さえ、薄藤のローブに身をつつんだ青年を見やった。

 自分が他人に魔力で劣ることがあるなどと思ったこともなかったけれど、このイディアの内に秘められた魔力の強大さに、ティアレイルは確かに圧倒されていた。

 そしてまた、奇妙な懐旧の念にとらわれていた。

 この人を、知っている。会ったことも、見掛けたことすらないはずの人。しかし、確かに自分はこの存在を知っている。そう思った。

 それは単なる既視感だったのかもしれない。ただ、ひどく懐かしい気がした。

 ―― 何故、あなたは幽霊なの?

 ティアレイルの中にゆっくりと、トリイの町で巫女の少女に言われた言葉がよみがえる。

 それはまるで、自分がレミュールではなくこのアルファーダに在るべきはずの存在だと、そう言っているようではなかったか?

 ティアレイルは深い思考の水底に沈みこんでいくように、ゆっくりと瞳を閉じた。

 そんなティアレイルを現実に引き戻したのは、イディアの静かな声だった。

「……君はいったい何だ?」

 その問いが自分に向けられているのだと、すぐにティアレイルには分かった。イディアもまた、自分と同じ感情を抱いたに違いない。

 目を開けると、イディアは穏やかな、しかしどこか緊張したような翡翠の瞳を、じっとティアレイルに注いでいた。

 ティアレイルは心を落ち着かせるように、ひとつ、ゆるやかな瞬きをした。

「私は、ティアレイル・ミューア。……レミュールの、魔術者だ」

 ことさら簡潔に、ティアレイルはそう自分を表現した。それ以外に、いうべき言葉が見付からなかった。

「レミュールの魔術者……」

 イディアは微かに唇を噛んだ。レミュールの魔術者。それは彼にカイルシアの存在を連想させる。

 カイルシア……このアルファーダを犠牲として、自分の生まれ育った大陸だけを、自分の大切な者たちだけを救った男の名前 ―― 。

 その名を連想して、体中の血液が逆流するような気がした。心の中で、煮えたぎる憎悪が頭をもたげようと蠢いた。

 けれどもすぐに、イディアは自分の胸元を強く掴み、深く長い呼吸をする。

 激情してはいけない。それが、自分が自分でいるための戒めだった。

「まただ。あのサークレットの翡翠石……」

 ショーレンはポツリと呟いた。

 初めて見た時と同じように、イディアの額で揺れる翡翠石が鈍い輝きを放っていた。いや、あの時よりも更に強く激しい光だとショーレンは思った。

 目の前にいたティアレイルも、もちろんその鈍い輝きに気が付いた。

 気付くと同時に、激しい悪寒が走る。イディアに対してではない。その額で美しく揺れる、翡翠の珠玉に対してだ。

 あの翡翠石は、イディアが激情するのを待っている。そう思えて仕方がなかった。

「イディア様、どこか具合でも悪いの?」

 リューヤは心配そうに、敬愛する青年を覗き込んだ。こんなにも苦しそうにしているイディアを見るのは初めてだった。

「大丈夫。……何でもないよ」

 イディアは優しい微笑を浮かべ、ふっと顔を上げる。

 穏やかすぎるその表情は、けれども誰かが少し肩を押せば狂気の底へ落ちていくような、きわどい笑みであるようにも見える。

「心配はいらない」

 呼吸を整え、イディアはゆっくりと『幽霊たち』を眺めやる。故意にティアレイルから目をそらすと、その視線をショーレンの所で止めた。

「……もう少し、湖の町にいてやってくれると嬉しい。リューは君がとても好きだから」

「ああ。まだ、帰るつもりはないよ」

 ショーレンがそう応えると、イディアはちょっと笑った。そして、隣に佇む少年の髪を優しく撫でた。

「良かったね、リュー」

「はいっ」

 リューヤは心底嬉しそうに、明るい笑顔でイディアに応える。

「……では、私は失礼させてもらう」

 イディアはそう言うと、今度は誰の応えも待たず風の中に消えた。カイルシアの末裔たちから一秒でも早く遠ざかりたい ―― 。それが本心だった。

「大丈夫かなあ、イディア様」

 心配そうにリューヤは眉をひそめた。なんだか、いつもの穏やかで優しいイディアの波長が少し乱れているような気がした。

「『月』の様子を見に行って、疲れてるんじゃないか? 心配するな。明日には普段のあの人に戻ってるさ」

 ショーレンはくしゃくしゃとリューヤの髪をかきまぜながら、にっと笑った。

「ったりまえだろお」

 ぷんと頬を膨らませ、リューヤは悪態をつく。それでもやっぱり心配なのか、町の方をちらちらと見た。

「先にパルラで帰ってろよ。こいつら全部がパルラに乗るわけにはいかないだろ。俺があとから引き連れて帰るよ」

 ショーレンは優しい笑みを浮かべ、少年を追い払うように手を振ってみせる。

「……うん。さんきゅ、アルディス!」

 嬉しそうにリューヤはパルラに跳び乗った。

「じゃあ、またあとでな」

 そう叫ぶと、リューヤはパルラを疾走させ、一目散に町に向かって戻っていった。

 それを見送っていたショーレンの表情が、ふと真剣さを帯びる。

「……で、アスカやルフィアはともかく、何でティアレイルや、えっと魔術研のハシモトさんまでが来てるんだ? 俺の捜索ってだけじゃなさそうだよな」

 今までの疑問を質すように、ショーレンは四人に順繰りと視線を巡らせた。それ相応な理由がなければ、科技研と魔術研が合同で動くはずがない。

 しかも魔術派の象徴まで出して来たとなれば、一アカデミー員の捜索レベルの問題でないことは明らかだった。

 夜が明けないことで、何か重大なことでも起きたのだろうか? ショーレンの意志の強そうな藍い瞳が凛と閃くように、アスカのところで視線をとめた。

 アスカも表情を改め、ゆっくりと頷いた。

「ああ。レミュールが死滅するかどうかって問題さ。実は……」

 両アカデミーの代表者であるロナとルナの二人に聞いた話と、<古月之伝承>についての要点を簡潔にまとめ、自分達が『D・E』と呼ばれるこちら側に来たその経緯と目的を話す。

「ふ……ん、レミュールに月が落ちるのを防ぐために来たってことか。それで、『止めなければいけないあいつ』っていうのは、もう見つかったのか?」

 吟味するようにアスカの話を聞いていたショーレンは、不意に顔を上げ、斜め向かいにいたティアレイルを見やる。

 はっと、アスカやセファレットたちも真剣な眼差しを大導士に向けた。

 みんな薄々気が付いてはいた。月を落とす……そんなことが出来るほどの人間はそういるものではない。それにトリイの町の巫女が言ったことを考えれば、おのずと答えは出てくるというものだった。

 ―― イディア。

 あの、突然現れた時に感じた圧倒感。魔術者ではないルフィアにだって、その彼が内に秘めている魔力の強大さを感じ取ることが出来たほどである。

 だが、イディアの人柄というか、その雰囲気を見た限りでは、そんなことをする人物には思えない。否、思いたくなかった。

「……さっきの、イディアという人だ」

 周囲の願いを裏切るように、ティアレイルは静かな口調で、やはりその人物の名を告げる。口調だけは淡々としていたが、その表情は僅かに青ざめていた。

「それは、確かなのか?」

 ショーレンは確認するように問い返す。本当にそうだとしたら、自分の立場は微妙なものになってくる。

「カイルシアが示していた人物は、確かに彼だ」

 ティアレイルは翡翠の瞳に強い意志を浮かべ、科技研の青年の目を見返した。

 しかし、すぐに憂鬱そうな色がティアレイルの瞳に影を差す。

「だが、月を乱そうとする魔力の存在は、彼から感じられなかった」

 言ってから、ティアレイルは自分の言葉を恐れるように両手で口許をおおった。

 さきほど自分と対面した時のイディアの表情と、その額に揺れる翡翠石の鈍い輝きとが、鮮明に脳裏に浮かぶ。

「 ―― 私たちがここに来たことが、イディアを追い詰めることになるかもしれない」

 トリイの町で感じた嫌な予感はこれだったのか! ティアレイルはそれに早く気付けなかった自分を呪った。

 そしてまた、トリイの町の二人の言葉にもっと耳を貸していればよかったと、後悔した。

 もっと早くにそうと気付いていれば、イディアに会いはしなかったものを……。

「考えるのは、流月の塔に行ってからにしよう。ここでうだうだ考えてたって、何も見えてはこないさ。すべての答えは流月にあるんだろう?」

 ショーレンは溜息をつきながらそう言った。あまりにティアレイルが青ざめているので、落ちつかせないといけないと思った。

「 ―― ああ。そうだね」

 ティアレイルはどこか苦しそうにショーレンにみやり、そうして頷いてみせる。

「今日はひとまずリューヤの家に行こう。あいつならたぶん流月の場所も知ってる」

 ショーレンはそう皆を促した。

「そうだな。仕方ないか……」

 アスカは軽く頷くと、町があるという方向へ視線を向けた。

 ティアレイルのことを考えると、これ以上D・Eの人間に会うのは避けたいとアスカは思っていた。

 しかし、そんなことを言っている場合ではないことも分かっている。

「家に行くの? じゃあ久し振りに、ちゃんとした場所で眠れるんだね」

 セファレットは嬉しそうに、にっこりと笑った。その、彼女の現実的な欲望を表したひとことに異を唱えられる人間はいない。

「リューヤくんには迷惑かもしれないけど、私もそれは嬉しいな」

 ルフィアは明るい笑顔をつくると、セファレットの言葉に同調する。

 一週間ちかくもイファルディーナの中で過ごしてきたのだ。皆に疲れとストレスがたまってきているのは確かだった。

「 ―― 流月の塔の場所が分かるのなら、私にも異存はない」

 ティアレイルはやや青ざめたまま、そう言った。

「じゃあ決まりだな。今日はとにかく休もう。イファルディーナは町の人間が驚くとまずいから、ここに置いていけよ」

 そう言うと、ショーレンは他の4人を促し、徒歩で湖の町へ向かって行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る