第二章 10話

「こう見ると、愛嬌のある顔してるよな」

 その頸から背を丁寧にブラッシングしてやりながら、ショーレンは笑った。

 鳥の顔に似た頭部をもつ小ぶりな馬。しかし、そのパワーは並ではない。二人の人間を背に乗せて荒野を駈けた時のあの速さは尋常ではなかった。

 レミュールでは見たことのない動物。不思議な生態の馬。リューヤいわく『この世に一頭しか居ない神馬』なのだそうだ。

 初めは何かの突然変異かと思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。じっくりと観察してみれば、本当に見事な毛並みの動物だった。

「それにどことなく品があるっていうのか? 目が綺麗なんだよなぁ」

 光の加減で金色にも見えるたてがみを、ぽんぽんと軽くたたいてやりながら、さらに誉めそやす。

 ちろりと、パルラの黒く大きな瞳がショーレンを見た。

 まるで「当然だ」と言いたげに目を細め、あごを上げて「くうっ」と鳴く。そのあまりのタイミングのよさに、ショーレンは目を丸くした。

「こいつ、まるで人の言葉がわかるみたいだな」

「あははは。パルラはもともとイディア様の乗騎だもん。すごいのは当然だって。人の言葉ぐらいわかるし、それにまだアルディスの前ではやってないけど、空だって飛べるんだぞ」

 小屋の柱に寄りかかるように座ったままショーレンとパルラの様子を見ていたリューヤは、楽しげに笑って立ち上がった。

「翼もないのに、空を飛ぶのか?」

「うーん。飛ぶっていうか、駆けるって感じかな。風に乗って空の上を走るんだよ。おれもよくは知らないけど、パルラは風伯の眷属だから風に乗ることができるんだって。イディア様が前にそうおっしゃってた」

 リューヤは服についた砂埃を軽く払い落としてから、ひょいっとパルラに飛び乗った。慣れた手つきで手綱を操り、ゆっくりと小屋の外へと足を向けさせる。

 一日に一度。そうしてパルラと一緒に散歩に行くのが日課だった。

「今度おれがトリイの町に行く時に、アルディスもつれてってやるよ。そしたら飛ぶところも見せられるし」

 ぽくぽくと、静かでリズミカルな足音を響かせて青空の下に出たパルラは心地好さげに風を受け、リューヤを乗せたまま頸を伸び上がらせた。

「今じゃダメなのか?」

 この愛嬌のある馬が天空を駆ける光景を想像して、ショーレンは楽しくなった。出来ることなら、今すぐにでも見てみたい。

「海を越える時以外は飛ばないようにってイディア様に言われてるから、今はダメだよ。いくら風伯の眷属でも、飛ぶのはさすがに疲れるみたいだしね」

 パルラの雄姿をすぐに見せられないことが残念だというように、リューヤは軽く首を振って溜息をついた。

 だからといって、大好きなイディア様の『言いつけ』に反するわけにもいかない。

「そうか。なら仕方ないなぁ」

 風伯。その言葉が何を意味するものなのか、ショーレンは分からなかった。何かしら魔術に関係のあるものなのだろうとは思う。けれどそれ以外のことはわからない。

 ただ、確かに翼もない身体で空を駆けるにはそれなりの気力と体力を使うのだろう。ならば無理強いは出来ない。

「風伯は、風を司る精霊の長だよ。いつもイディア様のお傍にいる」

 リューヤはくすりと笑った。

「普段は風の中にいて姿が見えないんだけどさ。たまーに気が向くと、ほら。ああして鳥の姿で現れることもあるんだ」

「うん?」

 リューヤの視線の示す先を見やり、ショーレンは目を瞬かせた。

 長い羽毛につつまれた純白の大きな鳥。それが薄藤のローブをまとったイディアの肩に優雅に止まり、まるで愛しい者を抱くように翼を青年の頬に寄せている。

 そこだけが何か特別な空気……清廉なる風が流れているかのような錯覚にショーレンはとらわれた。

 この世のものとは思えぬ美しい鳥を従えたイディアは、湖に向かう森の入り口に静かに佇んでいた。イディアの神殿がある湖を中心に、ゆうるりと広がるこの町に暮らす人々の営みを眺めているようだった。

 その眼差しが、どこか哀しげに見えるのは気のせいだろうか?

 以前リューヤがイディアを『神の御子』だと言った気持ちが、ショーレンは今になってようやく理解できるような気がした。

 確かにあの存在を『人』と呼ぶには、彼は神秘的にすぎる ―― 。

「風伯、か。アルファーダには不思議な生き物がたくさんいるな。レミュールでは精霊だのなんだのなんて、魔術派の人間でさえその存在をまともに信じてる奴はいなかったっていうのに」

 自分の住むレミュールで『D・E』と呼ばれていたこの場所は、本当に思いも寄らないことが多く在る。

 自然に宿るといわれる神秘の存在が色濃く存在し、『科学』と呼べるものは一切みあたらない。人が科学というものを認識するよりも以前は、人々はこのような生活をしていたのだろうか?

 これがレミュールと同じ惑星の中に存在する土地なのだと思うと、ショーレンはとても不思議な気がした。

「そういえば、今日はイディアのところには行かないのか?」

 いつもならその姿を見かけただけで駆け寄っていくはずのリューヤが、何故か今日はそのまま自分の隣に留まっているので、ショーレンは促すようにその背をぽんと押してやる。

 リューヤは、どこか情けない表情でうつむいた。

「そりゃあ、すぐ行きたいよぉ。でも今朝イディア様は月に出掛けられていたんだ。月の気は危険だから午後の鐘が鳴るまでは自分に近づいてはダメだって、そうイディア様に言われてるんだもん」

 イディアの近くに行きたくて仕方ないパルラをなだめるように柔らかな頸を叩いてやりながら、リューヤはしかし、自分もむくれたように口を尖らせた。

 月の気がイディアから消えるまでは、自分達は近くに寄らせてはもらえないのだ。

 そんなに危険なが満ちている場所なんかに、イディア様にも近づいて欲しくないのに……とリューヤは思う。本人にそう言ってお願いしたこともある。

 けれども、そのときイディアはただただ優しく笑っただけだった。

「ふーん。珍しいな。あの人が自分で出掛けるなんて。いつも何か用事があるときはおまえに頼むんだろう?」

「うん。でも月だけはご自分で見に行かれるんだよ。危険すぎるからって」

 このアルファーダに人の住む町はそんなに多く存在しない。数えるのに両手で足りてしまうほどだ。

 その町々には、リューヤはイディアに使いを頼まれて時々行っていた。

 『月』にも一度だけ行ったことがあったけれど、それはイディアと一緒にだ。そのとき月だけは一人で近づいてはいけないと、そうイディアに念を押されたので、それ以来リューヤは言い付けどおりその場所には行っていない。

「月か……」

 ショーレンは天を仰いだ。

 こっちで見られる月と言えば、惑星の周りを回っている『蒼月』しかないはずだ。それも、昼の蒼天にうっすらと浮かぶ白い月として。

 あそこに、イディアが行くのだろうか?

「あの空にある白いやつも月っていうの? 知らなかったなぁ」

 つられたように空を見上げ、そしてリューヤはきょとんと目を丸くする。

「でも、あれじゃないよ。イディア様が見に行かれてるのは、地上にある月さ」

「地上にある月?」

「うん。『流月るづき』っていう月。おれも一度しか見たことないけど、白く輝いていて、すっごく綺麗だったよ。アルディスのところには三つも月があるんだよね。それもやっぱり、綺麗で危険な物なのか?」

 ショーレンにレミュールの話をいろいろと聞かせてもらってから、リューヤはとても裏側に興味を持っていた。

 自分の住むこのアルファーダとは、かなり違う世界のようなのだ。好奇心旺盛な子供にとっては、宝物のような情報だ。

「ああ。月は綺麗だよ。でも確かに……あればあったで問題もあったな」

 ショーレンは苦笑した。自分がここに来る羽目になったのは、もとはといえばその月のせいなのだ。

 自分がここに来てしまったということは、まだレミュールの夜は明けていないのだろう。そう思って、いささかマズイという表情になる。

 大きな騒ぎになっていなければいいが ―― 。

 おそらく両アカデミーがなんとかして人心の安定に努めているだろうとは思う。けれども、やはり心配せずにはいられない。

 なにせ自分がこちらへ来てしまってから、もう一週間ちかくは経っているのだ。

「アルディスがそんな顔するんだから、そうとう危険なんだな、そっちの月も。イディア様もおっしゃってたよ。月は危険なものだって。あれがあるからアルファーダは荒れ地が多いんだって。おれには、よくわかんないけどさ」

「ふうん?」

 ショーレンは軽く眉間に皺を寄せた。レミュールの月と同じように、アルファーダに在るという地上の月 ―― 流月 ―― にも、異変が起きているのだろうか?

「へへっ。アルディス、なに難しい顔してるんだよ。問題があったって、イディア様が居らっしゃるんだから大丈夫だよ。そんなに悩むなって」

 今までだって、このアルファーダに悪いことなど起きた事がない。大好きなイディア様がアルファーダを守ってくださっているのだから。

「おれは、そのイディア様をお助けするんだよ」

 にこにこにこと、リューヤは笑った。

 本当に、イディアの話をするときのリューヤは嬉しそうだ。そう思い、ショーレンは軽く目を細めた。心からイディアを信頼し敬愛している子供の無邪気な姿は、見ていてとても心が和む。

「ああ、一人じゃイディアも大変だからな。頑張って手伝ってやれ」

 ぽんぽんとリューヤの頭を軽く叩いてやりながら、ショーレンは笑った。

「もちろんさっ。それより、アルディス。『イディア様』って呼べよなぁ」

 何度いっても改める様子のない青年に、リューヤはぷっくりと頬をふくらませて見せる。ショーレンはにやりと笑って軽く片目を閉じた。

「イディア本人が、呼び捨てでいいって言ったからな」

「ちぇー。だからって普通、本当に呼び捨てにする奴があるかよ。おまえってやっぱりヘンなやつっ!」

 リューヤはおもいきりあかんベーをし、そしてリューヤを乗せたパルラも同感だというように、ぺしりと長く柔らかな尾でショーレンの頭を叩いた。

「パルラにまで怒られちゃったな」

 可笑しそうにショーレンは笑った。そしてふと、何かに気付いたように森の方へと目を向ける。

「 ―― 昼の鐘だ」

 静かな鐘の音が、湖の方から風に乗って流れてきていた。イディアの聖殿の脇に建つ大鐘楼の、時を告げる鐘の音だった。

「もう、イディアのところに行っても良いんだろう?」

 ショーレンはにっこりと笑い、先ほどからイディアの近くに行きたくてうずうずしていたリューヤとその乗騎を見やる。

「うんっ!」

 何よりも嬉しそうな笑顔で頷くと、リューヤは一目散に走り出そうとした。

 しかし ―― 近づくことは出来なかった。

「あっ。イディアさまだっ!!」

 道端で石蹴りをして遊んでいた幼い子供たちが、遠くに佇むイディアの姿を見つけ、うれしそうに駆け寄っていく。

 その声に、周りにいた人間達も一様に顔を上げた。皆の表情がにわかに明るくなり、あっという間にイディアは人々に囲まれていた。

 いつも自分たちを守り、夜の安らぎを与えてくれることへの感謝。そして『神の御子』への畏敬の言葉が溢れるようにイディアを包むこむ。

 そのひとりひとりに優しい笑みを返しながら、イディアはそれぞれに何かを話しているようだった。

「ちぇ。先越されちゃったなぁ」

 リューヤは拗ねたように深い息をついた。パルラが居るので、あの人込みに駆け入るわけにもいかない。

「まあ、いつも独り占めだからいいや」

 諦めたように笑って、リューヤは傍らに立つショーレンに肩をすくめて見せた。

「ほら、リューヤ、イディアがこっちを見てるぞ」

 口では諦めたと言いながらも心底残念そうな少年に、可笑しそうにショーレンは教えてやった。

 イディアの翡翠のような緑の瞳が少し離れた場所にいるリューヤたちを見つけ、やわらかに微笑んでいるように見えた。

「ほんとだ!」

 にっこりと明るい笑みを浮かべ、リューヤはぴょこんと頭を下げる。ショーレンもそれに倣うように軽く会釈をした。

 刹那、イディアの肩で翼を休めていた純白の鳥が、ばさりと大きな羽音を立ててはばたいた。

「 ―― 風伯!?」

 警戒するような鳴声を上げながら、それは長い尾羽をひくように白い翼をたなびかせ上空たかく舞い上がる。

 あまりに突然の出来事に、人々は目を丸くした。彼らの敬愛するイディアの神鳥が、あのような奇声を発するのを聞いたのは誰もが初めてだった。

 そして ―― イディアは凍りついたように天を見上げた。

 ショーレンの深い海の底のような藍い瞳も最大限まで見開かれ、驚いたように空を見上げている。

 白い鳥が舞い上がったその空の遥か向こうから、何か大きな影がこちらに近づいてくるように見える。

「イファルディーナ!?」

 それがイファルディーナと呼ばれるレミュールの最新浮上車だということに、もちろんショーレンは気が付いた。

 だが、こんなところでイファルディーナを見るとは思いもしなかった。

 科学の欠片もない、まるで本当に童話の世界か何かのようなこのアルファーダには、浮上車の存在は不似合いかつ異質だとしか言いようがない。

「……カイルシアの……末裔たち……」

 イディアは哀しげに目を細め、嘆息を吐き出すように呟いた。

 そして ―― その額に揺れる額輪サークレットの翡翠石だけが、すべてを憎悪するように鈍い輝きを放っていた。

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