第二章 7話
水面に美しい影を落すように、大きな朱塗りの柱は悠然と海中にたたずんでいた。近づくにつれ、周辺の輪郭もはっきりと見えてくる。
今まで迷宮の術の影響で海と空しか見えていなかったその場所に、濃緑に染まる雄大な山林に抱かれた大きな島が浮かんでいた。
目にあざやかな緑を背に、海の中に佇む柱と同じ朱い色の回廊に囲まれた優美な建物がこちらを望むように広がっている。
「う…わぁ……」
海の藍と。空の蒼。そして山の緑。その中心には優美な朱の色。それらが織り成す夢幻的な光景に、四人は息を呑んだ。
人ならぬ神の絵筆で描かれたかのような美しい風景。すべてが絶妙に絡み合い、己の美しさを最大限に表現しているような気さえする。
「あれって、確か『トリイ』とか言うんじゃなかったかしら?」
セファレットは海の中に佇む大きな朱い柱を見やり、軽く首をかしげた。
確か、祖父の家にも似たようなものがあった気がする。もちろんあんなに大きなものではなく、庭に入るような小さいサイズではあったけれど……。
「へえ、意外だな。ハシモトがあんな宗教的なものを知ってるなんて」
感心したようにアスカは笑った。
D・Eに来ると決まったあのあと、こちら側のことを少しでも知っておこうと古い書物を読み散らかしたアスカは、その中にあった『鳥居』に関する写真と記述を偶然見ていたので、あの朱い柱がなんなのかは分かった。
あれは、神を祀っている『神社』という聖域に入る、門のような存在だ。
「うん、祖父が教えてくれたんだ。祖父の家の庭にも似たのがあってね、その向こうにちっちゃいお社があるの。確か神様の家みたいなものだって言ってたよ」
セファレットは懐かしそうに瞳を閉じた。祖父の家には変わったものがたくさんあったが、その中でも印象に残っているのは、朱い柱とその奥にあった小さな社だ。
自分が祖父の家を出てからもう四年になるが、それはとても美しく、どこか神々しい気をまとっていたのを憶えている。
「ふうん。ハシモトのおじいさんって、いい趣味してるな」
カイルシアという創世主がいたレミュールでは、宗教はないと言っていい。宗教の代わりに『科学派』と『魔術派』があると言ってもいいくらいだ。
そんな中で、神社や鳥居の存在を知っているだけでなく、庭に置く人間は希少価値といえるだろう。
ましてやそれは世界的なものではなく、ある特定の地域文化に見られる特有の建造物なのだと、アスカが読んだ書物には記されていた。
「それにしても、あれだけ大きな鳥居があるんだ。相当大きな神社なんだろうな」
アスカは感嘆したように息をついた。書物などで得た知識はあっても、アスカとて実物を見るのは初めてなのだ。
「向こうに見える朱い建物が、その『神社』っていうものなのかな? 島に上陸してみる?」
ルフィアは意見を聞くように周りを見やる。
「見てみたいね」
にやりと、アスカは笑った。
こんな時のアスカは、探求心に満ち溢れた少年のようにみえる。彼はとにかく新しい知識を得ることが好きなのだ。そんなところはショーレンとよく似ている。そう思うとルフィアは可笑しかった。
ショーレンの捜索もしなければいけなかったが、今はイファルディーナの計器は使い物にならない。現地で情報収集できるのであれば、した方が良いように思われた。
「あの島には人がいるよ。……ショーレンではないみたいだけどね」
ティアレイルは静かに告げた。
少し先にあるあの島から、ほんの僅かに生命の存在が感じられた。
ロナたちの話では、D・Eの生命はあの『カイルシア事件』で完全に絶えているということではあったけれど ―― 。
「人がいるの? じゃあ、驚かさないようにしないとね」
そう言って、ルフィアはイファルディーナを海面ぎりぎりに着水させた。いきなり空から行って警戒されることを懸念したのである。
「すべてが荒野に変わったって言ってたけど、だいぶ元通りになってきてるんだね」
ゆっくり陸へ近付いて行きながら、そこに息づく自然の美しさに、ルフィアは感嘆したように色違いの瞳を細めた。
レミュールにある自然が洗練された美しさだとすれば、こちらに息づく自然は柔らかく、そしてとても暖かな美しさをもっているように感じられた。
そしてまた、粛々とした清浄な空気が辺りをおおっている。
「……笛の音?」
大きな朱塗りの柱に触れるほどに近づくと、そこからまっすぐ続く海参道のその奥に、やはり朱の欄干に囲まれた高舞台が見えた。そこで、小さな白い影が揺らめいている。
風に乗って時おりティアレイルたちの耳に運ばれる笛の音に合わせるように、その影は静かな舞を舞っているようだった。
よく目を凝らしてみれば、それは小柄な少女のようだった。その背後では、雅なものにはあまり似つかわしくなさそうな精悍な体躯の青年が、ゆうるりと笛を奏でているのが見えた。
「本当に人がいる……」
セファレットは遠くに見える静かな舞を眺めながら、ほうっと息をついた。
息を呑むような美しい光景だった。
少女が舞うたびに黒く艶やかな髪が風にたなびき、きらきらと輝く光影がそれを追うように流れている。
「……風に力を与える舞だ」
ティアレイルは魅入られたようにそれを眺めた。あの少女から発せられる気が、風に強い力を与えているのは魔術者である自分にはわかった。
けれどもそれは、先ほど風の中に感じた気配とは違う。まるでその気配の持ち主を
ふと、笛を奏でていた男の目が見開かれた。
朱い鳥居の向こうに異質な存在が訪れたことに気が付いたようだった。笛を奏でるのをやめて、高舞台から海に向かって突き出した桟橋の先にかけ出てくる。
少女はちらりとこちらに視線を流したが、それでも舞はやめなかった。
「 ―― っ!」
男の口が嫌悪をあらわす形を作り出し、ぎりっとイファルディーナを睨みつける。
刹那、強風が吹き荒れた。まるで、この景観の中に他者は邪魔だと言うように、強い向かい風がイファルディーナの進行を妨げる。
波もそれに応じて高くなり、イファルディーナは嵐にあったように翻弄された。
「ルフィア、上昇しろっ!」
ルフィアは慌てて窓を閉めると、車体の浮上を試みる。
その反応の素早さになんとか海中に沈むことは免れたものの、意志を持ったように吹き荒れる風にあおられ、イファルディーナは天空に飛び立つことは出来なかった。
「これって、魔術での攻撃だよね!?」
さっきの優しい穏やかな風とはあまりに違うこの強風に、セファレットは叫ぶ。
よく舌を噛まずに言えたものだと自分自身で感心してしまうほどに、その揺れは激しいものだった。
こんなにも攻撃的な風は、強風で目標物を取り囲む『風陣の術』以外には考えられない。彼らがいる場所だけが荒れ狂っているのだ。台風や嵐などの天候でないということは言うまでもなかった。
―― 幽霊をこの神聖なる島に入れるものか!
低い声が海鳴りのように辺りの空気を震撼させた。警戒心と嫌悪がビンビンと伝わって来る。
「ゆ、幽霊!?」
四人は顔を見合わせた。それが自分たちのことを指しているのだとは分かる。けれど、そう言われる理由がわからない。
「……私たちを幽霊と勘違いするくらい、ここにはそれが出るのかしら」
セファレットは不安げに身を竦めた。今までそんなものは見たことはなかったが、たくさんの人間が一瞬にして死んだというこのD・Eでは、もしかすると幽霊が存在するのだろうか?
「…………」
ティアレイルは無言のまま瞳を閉じた。先程の声が指す『幽霊』は、死んだ人間という意味ではないのだろう。もしかすると、それは自分達レミュール側の人間を指す言葉なのかもしれない。
―― こちらを犠牲にして生き延びた……本来ならば死に絶えているはずの『カイルシアの末裔たち』が!
さっきの声は、心の中でそう叫んでいるような気がした。それが、ティアレイルには聴こえていた。
レミュールの人間があの事件を忘れ去っていても、切り捨てられた側がそれを忘れるはずはない。
「たぶん、俺たちがこっちを『D・E』と呼んでるのと同じだと思うぜ。言葉なんて、使う人間によって意味が変わってくるものだからな」
アスカは晴れた夜空のような瞳に苦笑を刻み、頬をゆがめた。
レミュールの人間がカイルシア事件を否定するということは、自分達が生き延びることが出来た理由を否定しているようなものだと思う。
だからこそ『D・E』の人間は侮蔑と怒りを込めて、レミュール側の人間を幽霊と呼んでいるのではないだろうか。そうアスカには思えた。
「そっか……そうだよね」
アスカの言葉に、セファレットは哀しげに俯いた。確かに、彼らがレミュール側の人間に好意をもつ理由はない。
D・Eの人々が自分達レミュールの人間にどんな感情を抱いているのか、はっきりと理解させられて切なくなった。
「そうだとしても、この風はどうにかしないと!」
いつでも現実的なルフィアの声に、他の三人は頷いた。確かに、このままでは海に呑み込まれてしまう。人為によって起こるこの風を止めなければならない。
「アスカ、私が止める」
風陣の術を使っているのは、あの桟橋に立つ青年だろう。彼に対して行動を起こそうとしたアスカを片手で制し、静かにティアレイルは言った。
どこか憂鬱そうに青年を見やり、そうして何かを振り払うように軽く手を動かす。
ぱしんっと、イファルディーナを覆っていた強風が弾けるように海を走った。
仕掛けた強風を跳ね返され、男はあおられたようにバランスを崩してひざまずく。
―― 幽霊なのに。
悔しそうに顔を上げ、男はじっとこちらを睨みつけていた。その眼光は、離れた場所にいるティアレイルたちを射抜くように激しいものだった。
そんな青年の傍に、今までうしろで舞っていた少女が舞をやめて歩み寄るのが見えた。その肩に手を置き、なにやら哀しげに首を振っている。
「……どうする?」
アスカは三人を見回した。このまま島に上陸してもいいものか、それとも離れるべきなのか、判断に迷っていた。
「D・Eに張り巡らされていた迷宮の術は、たぶん最後はこの島に辿り着くように織り成されていたのだと思う。それなら、彼らに話を聞いてみるのも良いのじゃないだろうか?」
ティアレイルは静かに翡翠の瞳を窓の外にめぐらし、桟橋に佇む少女と青年の姿を見やる。彼らはじっと、こちらを見つめていた。
「……きゃっ、何?」
不意に、イファルディーナが動き出した。ガクンと大きな振動が起こり、四人ともバランスを崩してよろめいた。
ルフィアが動かしているわけでも、コンピューターが自動で動かしているわけでもない。まるで何かに引き寄せられるように陸に向かって動き出したのである。
イファルディーナの進む先には、二十代前半くらいの精悍な顔つきの男。そして舞を舞っていた小柄な少女。
二人はじっと、社殿の建つ入り江にイファルディーナが入ってくるのを見つめていた。彼らがその魔力で引き寄せていることは、もう間違いなかった。
「 ―― 出て来ていただこうか。夜からのお客人」
イファルディーナが止まると、男はゆっくりと近付いてきて低く促す。
「……出るか?」
アスカは苦笑を浮かべて三人を見回した。はいそうですかと、気軽に出ていけるような雰囲気ではなかった。男の態度は、とても友好的なものには見えない。
「この状況じゃ、出るしかないんじゃない?」
ルフィアはイファルディーナのコントロール系の装置を視線で示す。
非情にも『制御不能』の文字を点滅させるスクリーンを見て、アスカは大きく溜息をついた。
「まあ、どうせ俺たちだってここに上陸するつもりだったんだし、行くか」
もう一度深いため息をついて、アスカは身体を滑らせるように外に出る。それに習うように、三人もゆっくりと『D・E』の大地に降り立った。
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