第二章 6話

 どこまでも果てしなく続くかに思える青い青い海の上を、イファルディーナは滑るように走っていた。

 結界の島から離れるにつれて薄紅の空が少しずつ輝きを増し、眩いばかりの青空に変わっていく。

 初めてその目で見る、本物の太陽を戴いた空。その力強く眩い光は、レミュールから訪れた四人に大きな衝撃と感動を与えた。

 緋月がレミュールにもたらす朝の光も決して劣るものではない。けれどもやはり、人工と天然の差は歴然としているように思えるのだ。

 陽の光がもつ力が、あまりにも違う。こんなにも『太陽』という存在の大きさを感じたのは初めてだとティアレイルは思った。

 その眩い光の粒がさざめく波に溶け込んで、きらきらと乱反射するようにイファルディーナの窓ごしに差し込んでくる。

 セファレットはそんな海と空の融合した様子を見て子供のようにはしゃぎ、アスカやルフィアは何か生物がいないかなどと楽しげに探しだす。

 好奇心旺盛なものたちにとって、初めて訪れるD・Eは興味の固まりだ。

 けれども ―― それも最初の2・3時間だけだった。

 海にも空にも生物は見つけられず、ましてや何の変化もない風景。ただただ同じ光景がずうっと続くにつれて、その感動は薄れ、しまいには飽きてくる。

 空の様相や雲などがあれば飽くことはなかったかもしれない。しかしそこには一片の雲もなく、まるで絵に描いたような蒼天と海の藍だけが、静かに永遠に続いているかのようだ。

 彼らが二重結界を越えてから、すでに丸一日が経っていた。

 これまでに分かったことと言えば、とされるD・Eの空気や水質は、イファルディーナの計測器によると特に異常がないという事だけだった。

「海ばっかりね」

 セファレットは窓の外を眺め、ぽつりと呟いた。結界を通り過ぎてから、まだ海と空以外の景色をまったく見ていない。

 彼女の隣では、既に外の景色に飽きたアスカが椅子の背もたれに寄り掛かり、何やら厚い本を読みふけっている。暇になったら読もうと、自分で持ち込んだ荷物の中に入れておいたのだろう。

「地図によれば、こっちの方角でいいはずなんだけどな……」

 ルフィアはサイドスクリーンに世界地図を表示させ、青く点滅している箇所を視線で指し示した。

 イファルディーナは結界の島からまっすぐ西に向かって走っている。今までの走行距離とその方向を計測し、航路を矢印で示してみると、とうに陸地が見えていなければならないはずだった。

 出発前にウィスタードが算出した『ショーレンが居るはずの地点』にも、着いていなければおかしい。

「そうだな。いくらなんでも、陸地までの時間がかかりすぎだ」

 アスカは本から顔を上げ、スクリーンに目を向ける。

「この地図が、100億分の1の尺図だとかいうなら話は別だけどな」

 面白くもなさそうに、アスカは溜息をついた。

 この車は時速300kmほどの速さで走っている。既に24時間走り続けたのだから、同じ場所をぐるぐる回っていない限りは何かしら変化が見えてしかるべきだ。

 それなのに、現実には海と空が同じようにずっと広がっているだけなのだ。ルフィアは困ったように頭を振った。

「……窓を開けてもらえるかな?」

 ティアレイルはふいっと席を立ち、大きな窓に寄り掛かるように外を見た。

 先程からずっと、この空域に違和感のようなものを感じて仕方がない。それがいったい何故なのか、ティアレイルは知りたかった。

 視覚で広域を見渡すことは出来ないが、ティアレイルは感覚でならこの辺り一帯の状況や様子を網羅することができる。

 窓を開け、外の風や外気に触れることが出来たなら、その分詳しい状況を感じ取ることが可能なはずだった。

「かなりスピードが出てるからな。窓を開けるのはまずいんじゃないか」

 アスカは大きな伸びをしながらそう応える。ほとんど振動が伝わらないので気付かなかったが、時速300kmといえばかなりのものだ。

「あ、窓を開けたいなら減速するよ」

「……お願いする」

 ルフィアはにっこり笑うと、手元のコンピューターを操作してイファルディーナを減速させる。窓を開けても差し支えのない速さまでスピードが落ちるのを確認してから、彼女は窓を開け放った。

 ふわりと、微かに潮の香りのする風が車内に吹き込んでくる。

 それを心地好さげに受けながら、ティアレイルは翡翠の瞳を軽く閉じた。久しぶりに感じる外の風が、とても気持ちよい。

 自然の息吹を感じることの出来ない車の中にずっといるなどと、本来彼には耐えられないことだった。

「うわー。きもちいい!」

 体中でその風を受け止めながら、セファレットも華やかな歓声を上げる。窓の外には車内では感じることの出来なかった、涼やかな優しい風が満ち溢れていた。

 こんなにも心地の良い風は、レミュールに居たときでさえ滅多に感じたことがない。

 ティアレイルは軽く笑むと、D・E全体を網羅するようにすべての感覚を風の中に解き放った。

 彼の『意識』が風とともに駆け巡り、目には見えないはずの風景をその心に鮮明に描き出す。

 流月の塔が発動した時の影響なのだろうか、D・Eにはほとんど何も存在していなかった。ただただ色褪せた荒野だけが、すべてをおおうように広がっていた。

 ほんの数か所だけ、豊かな『樹木』に囲まれた場所が存在するのも見えたけれど、それは本当にごく一部だった。

 ―― 死した地球。ロナたちが口にしたその言葉を思い出し、ティアレイルは深い息を吐き出した。

 ここは、あまりにもその名称が似合いすぎている。

「あ。風が歌ってる」

 不意に、セファレットはうっとりしたように瞳を細めた。

 さすがに魔術派の女性だけあって自然に対する感性が敏感なのだろうか。風の中に溶け込む旋律を、セファレットは聴いていた。

 とても優しく暖かな風。それは、ここに存在するすべてのものを愛おしむように、ゆうるりと天空を流れている。

「歌だって!?」

 ティアレイルはハッと自分の意識を風の中からひき戻し、不審もあらわに彼女に詰め寄った。

 歌といえば、このD・Eに来る前に風が運んできた鎮魂歌が頭に浮かぶ。しかし今、ティアレイルにはその『歌』が聞こえてはいなかった。

「……うん。ティアレイルには聴こえない?」

 すみれ色の瞳が、きょとんと丸くなった。誰よりも敏感なはずのティアレイルが、この旋律に気付いていないということは、あまりにも意外だった。

「…………」

 ティアレイルは軽く唇を噛むと、確かめるようにアスカを見やる。

 アスカは軽くあくびをしながらゆったりと立ち上がった。

 のんびりとして緊張感のあまりないように見える態度のわりには、その瞳は鋭く細められ真剣さを帯びている。

「歌っていうよりは誰かの意識を感じるな。この風は自然以外の意志が働いている」

 低くそう呟くと、アスカは窓の外に目を向けた。

 大自然を支配できる存在が稀にいるのだと、アスカはショーレンに語ったことがある。雨を降らせたり、風を起こしたり。そういう自然を源とした術を操ることは、普通の魔術者でもできる。

 しかし、大自然を支配するというのはそういうことではない。

 極端に言えば、その稀有な存在が滔々と流れる川に「山になれ」と願えばそれは山に変わり、「消えろ」といえばなくなってしまう。そういうことだ。

 そんな人にあらざる大きな力を持つ存在は、そうは誕生するものではない。もし誕生したとしても、多くはその力に気が付かず使うこともなく朽ちていく。

 しかしその稀有な存在がこのD・Eに在る。天空を流れるゆるやかな風に、アスカはそんな気がした。

「ほんの少し、ティアの感覚に似ている気もするけどな」

 自分が感じたそのことを、アスカは控えめに言ってみせる。

「ほんと。ティアレイル大導士が『聖雨』を降らせる時の感覚に似てるね」

 ルフィアは外を見やり、そしてティアレイルの瞳を覗き込むように笑った。

 ふわりと風を孕み、栗色の髪があざやかな笑みを浮かべた頬にまとわりつくように舞い乱れる。けれどもそれは決して不快なものではなく、とても心地の良い風だ。

 聖雨が降る夜は、人の心も穏やかになると言われている。

 ティアレイルがそれを降らせたときなどは、さらに暖かく優しい想いに包まれるような気がして、ルフィアはいつも安心するのだ。

 魔術研の誰が『聖雨』を降らせるかなどは公表されているわけではない。けれどもティアレイルが降らせたときだけは、ルフィアにもそうと分かった。

 いま外をゆるやかに流れている涼やかな風は、そんな時に感じる暖かさに似ている。ルフィアはそう思った。

「…………」

 科学派であるルフィアでさえも気が付いたという『風の中の気配』。それを自分が感知できていないということに、ティアレイルは苛立った。

 すべての感覚を研ぎ澄ませ、少しの変化も見落とさないように細心の注意を払う。

「 ―― !」

 はっと、翡翠のような緑の瞳が見開かれた。

 ようやく風の中に潜む何者かの意志……穏やかで優しい。そしてどこか哀しげな旋律が、ティアレイルの耳にも届いていた。それはやはり結界の島で聴いた、鎮魂歌を思わせるあの旋律と同じものだ。

 なぜ今まで自分にはそれが聴こえなかったのだろう? 考えるように瞳を閉じ、そしてティアレイルは思い当たる。

 風の中にたゆたうその気配は、アスカたちが言うように確かに自分のものとよく似ていた。そのために、周囲に満ちる気配が他人のものだと思っていなかった。

 本人が違うと気付けないほどに、それはティアレイルに酷似していたのだ。

 しかし一度違うと気付いてしまえばその相違を判別できる。そう思ってもう一度よく周りに感覚を凝らしてみれば、新たなものが見えてきた。

「ティア、調子悪いんなら少し休め。無理することないさ。先は長いんだろうしな」

 外を見たまま黙りこくってしまった幼なじみの肩に、アスカは軽く手を置いた。

 どこまでも真面目なこの友人は、いろいろと物事を深く考えすぎるのだ。少し気をそらせた方が良い。

「大丈夫だよ。別に調子は悪くない」

 ゆうるりと幼なじみを振り返り、ティアレイルは穏やかに笑む。今まで感じていた違和感の正体をようやくつかむことが出来て、彼はほっとしていた。

 その表情は彼が魔術派の象徴として人々の前に立つときとは違い、どこか幼いような明るい笑みで、アスカに昔のティアレイルを思い出させる。

「そか。ならいいんだけどな」

 懐かしげに目を細め、アスカも笑った。こんなふうに笑えるのなら、本当に大丈夫なのだろう。そう思った。

「ねえティアレイル、D・Eの様子分かったんでしょう? どうだった?」

 ふいに、セファレットがくいっとティアレイルの服を引いた。

 涼やかで優しい風の旋律についはしゃいでしまったが、本来はなかなか陸地に辿り着かないその原因をつかむために窓を開けたはずだった。

「ああ、分かったよ。こうして飛んでいても大陸に着くはずがない。この空域には『迷宮の術』が張り巡らされてる。地図どおりに動いても無駄だってことさ」

 ティアレイルは軽く肩を竦め、再び外に視線を向ける。

 自分に似た気配を宿していたのは風だけではなかった。その気配はD・E全体に満ちている。

 そしてそれは今、方向を攪乱させる『迷宮の術』としてイファルディーナを覆い、すべての計器を狂わせている ―― 。

 それが違和感となって、ティアレイルはずっと落ち着かなかったのだ。

「……すごいな」

 今までずっと外の光景に変化がなかったのは、文字通り同じ場所をぐるぐると回っていたからなのだろう。その事実にアスカは息を呑んだ。

 D・E全体に迷宮の術を施すことが出来る人間がいる。それは先ほど自分が感じたこと……強大な魔術者の存在を裏付けるのではないだろうか?

「計器を頼らず、術にとらわれないように進まなければ、堂々巡りになるよ」

 イファルディーナを操縦しているルフィアに、ティアレイルはそう忠告した。計器が使い物にならないのだから感覚を研ぎ澄ませて進むしかない。

「それじゃあ私にはお手上げだね。魔術はまったくわからないもの」

 ルフィアは軽く頭を振って、お手上げだというポーズを取ってみせる。

「それなら、ティアレイルがルフィアさんに進路を教えてあげればいいじゃない? 現在位置が分かるのは、あなただけなんだし」

 セファレットはにっこり笑ってそう提案する。

 彼女はもう、海ばかりの景色に飽きていた。早く違う景色が見たかったし、陸地に出て潮風以外の風にも触れてみたかった。

「ああ、そうか。科学派には視えないんだったね」

 ティアレイルは軽く息をつくと、ルフィアの隣に立った。

 自分の近くに魔術を扱えない者がいることなど今までほとんどなかったので、うっかりそのことを失念していた。

「じゃあ、進むべき道をここに映すから、それ見て」

 穏やかに言うと、宙を撫でるようにすいっと左手を横に動かす。

 まるで手品のように、ティアレイルの手が動く通りに薄い膜のようなものが空中に現れた。

 それは結界の一種で『風鏡』と呼ばれるものだった。風を通して、この世のすべてを映し出すことができるといわれる術で、それを扱う術者の魔力の高低によってその限界は決まってくる。

 もちろん魔術派の象徴と言われるこの大導士にとっては、何でもない術だった。

 ティアレイルは周囲を巡る迷宮術の干渉を退け、目指す大陸への本当の道筋を風鏡に映し出す。

 それをもとに再びイファルディーナを発進させようとしたルフィアは、ふと、何かに気付いたように顔を上げた。

 一瞬、視界の端に何かの影を捕らえたのだ。

 それは初め、空間の歪みのように思えた。その歪みが徐々に開けていき、何かの存在を浮かび上がらせる。

「何か、海の中に建ってるよ」

 ルフィアは驚きに声を上げた。その言葉に、みんな一斉に外を見やる。

 海の中に、朱い柱のようなものが建っていた。

 大きな門のようにも見えるそれは、優雅に、そして荘厳とした佇まいを見せながら、足許を海の中に沈ませている。

 その向こうには、霧にかすんだ島影のようなものも揺らめいて見えた。

「……迷宮の出口だ」

 それは、彼らが目にする初めての、D・Eの大地だった ―― 。

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