第二章 4話
遥かに広がる海を眺めながら、セファレットは深い息を吐き出した。
何者も支配することの出来ないはずの壮大な海。深い碧翠色をした水の上に、柔らかな光にも似た壁が高く遠く広がっている。
ロナ達が言っていた、レミュールとD・Eを隔てる二重結界。
オーロラのように天空を覆うそれは神秘的で、けれどもどこか寂しげだとセファレットは思った。
それはただの感傷かもしれない。しかし忘れ去られ、そして存在を否定されたD・Eの物哀しさであるように思えるのだ。
「結界の向こうに、何があるのかしら?」
セファレットは後ろに佇むティアレイルを振り返る。
寄せては返す波に足元を濡らしながら、夜でもなく朝でもない、ほのかに朱く染まった天空を見上げていたティアレイルは翡翠の瞳をゆっくりと彼女に向けた。
「さあ? D・Eに行って帰ってきた人間はいないからね」
セファレットの期待していた答えとは明らかに違う答えを返し、ティアレイルは打ち寄せる波に視線を落とす。
いつもの穏やかなその表情が、なぜだか幼い子供のようにも思えてセファレットはくすりと笑った。
科学技術研究所と魔術研究所。この二つのアカデミーがつくられた本当の理由をロナとルナの口から聞いて以来、ティアレイルはどこか途方にくれたような、道に迷った子供のような表情を時おり見せた。
セファレットも昨日はかなり頭が混乱したものだ。けれどもそれが自分だけではなく、人々の畏敬を集めてやまないこの魔術派の象徴でさえもそうなのだと思うと、心がほっと軽くなる気がした。
「ティア、ハシモト。もうすぐ科学派の方の結界は解き終わるみたいだぞ」
波音の合間にきゅっきゅっと砂が擦れる音と落ち着いた低音の声が聞こえ、二人はその方向を振り返った。
白い砂浜をゆっくりと歩いて、アスカがこちらに向かってきていた。その色素の薄い髪に空の色が映え、やわらかな薄紅に染まって見える。
「科技研はルフィアひとりだからな、孤軍奮闘してたよ」
アスカは晴れた夜空のような瞳を楽しげに細め、親指で背後の岩窟を示した。
「アスカさんが手伝ってあげればよかったのに」
いつも科技研に入り浸っているのだから、それくらい出来るのじゃないかとセファレットは思った。科学派が一人しかいないのは分かっていたのだから、少しでも科学になじみのあるアスカが加勢するべきだ。
「そうしようかなぁと思ったんだけど、邪魔だといわれたのさ」
ぺろりと舌を出して、アスカはおどけたように笑った。
「ほら。そんなことより、そろそろおれたちも行かないとなっ」
二人は軽く頷くと、砂を蹴るように岩窟に向かった。
巨大な岩が重なり合うように出来た自然の天井の隙間から柔らかな薄紅の陽光が差し込んで、彼らの姿を優しく照らしている。
こんな状況でなければ、幻想的なこの空間を楽しむことも出来ただろうにと、セファレットは少し残念に思った。
この場所は、アカデミー員でさえ滅多に立ち入ることの出来ない場所なのである。
夜も昼もない。ただただ淡い薄紅の色をした空の色が支配する空間。レミュールとD・E……昼と夜の境界。
この二つを隔てる二重結界が生み出される、四方を海に囲まれた小さな島。そこが4人が今いる場所だった。結界を保護するために、もちろんこの島に人は住んでいなかったし、立ち入りも禁じられている。
ティアレイルは以前にも一度だけ仕事の関係で来たことがあったが、他の三人にとっては初めて訪れた場所だった。
しばらく薄紅の通路を歩いていくと、微かな陽射しすら入らない大きな部屋のような場所に出る。
人為的に造られただろうと思われるその大きく広がった空洞の岩肌は、まるで白い炎を含んでいるように輝き、陽射しが届かなくともほのかに明るく彩られていた。
二重結界をつくりだす二つの『鍵』が、そこに置かれているのである。
アスカたちがそこに入ると、手頃な岩に軽く腰掛けていたルフィアがあざやかな笑みを浮かべて立ち上がった。
「遅かったね。待ちくたびれちゃった」
「ルフィア、もう終わったのか?」
アスカは確かめるようにそう尋いた。
少し時間が掛かりそうだから、その間にティアレイルたちを呼んでくるようにと言われ、アスカは砂浜まで二人を呼びに行ったのだ。
「うん。まあショーレンがいればもっと簡単だったんだろうけど、私は技術屋だからね。ちょっと時間がかかっちゃった」
おどけるように応えると、ルフィアは軽く肩を竦めていたずらっぽい笑みを宿す。
科学派の施した光壁の一部を一時的に取り除くのが目的だったのだが、その光壁を作り出す装置は今までルフィアが見たこともない旧式の
ルナから一通りの操作方法は聞いてきていたが、あまりに旧式すぎて、てこずったのだという。
「ほんのちょこっと、私が使いやすいように改造しちゃったから、あとでちゃんと総統に報告しとかなきゃ」
ぺろりと、ルフィアは舌を出して笑った。
だいぶ前に自分用に開発していたコンピューターチップ内蔵の多機能ピアスをその装置の中に埋め込んで、自分流に改造してしまったと言うのである。
それを『ちょっと時間が掛かった』程度でやってしまうのは、科学派きっての技師と言われるルフィアだからこそできる芸当だ。
「さすがルフィアだな」
アスカは軽く口笛を吹くと、感心したように何度も頷いた。
「まあね、それが私の専門だから」
明るい笑みを浮かべながら、彼女は軽く左目を閉じてみせる。豊かな自信に彩られた笑みが、ルフィアによく似合っていた。
「…………」
ティアレイルはルフィアと機械を交互に眺めた。
彼女の手際の良さを賞賛しようとも思ったが、結局何も口には出さず苛立たしげに視線を逸らす。
科学派も魔術派も根は同じだと知らされた今、前のように徹底的に科学を嫌うことはできなくなっていた。だからといって急に好きになれるほど、ティアレイルの科学に対する『嫌悪』は簡単なものでもなかった。
「次は魔術の結界を解く番だな。ハシモトやるぞ」
アスカはセファレットと共に部屋の中央にあった魔法陣に歩みを進めた。
二重結界の最後の鍵。魔術派の『オーロラ』は、その魔法陣から発せられている。それを止めなければD・Eに行くことはできない。
三人の実力を考えれば、この役目はティアレイルのものだっただろう。しかし、アスカとセファレットの二人が敢然と反対した。まだ体力が十分に回復していないというのが、二人の言い分だった。
ティアレイルの体内に残っていた『反発』の力は朝には消え、彼は治癒の術で既に昨日の怪我を癒し終えている。けれども、あまりに凄い剣幕で反対されたので、ティアレイルは特に反論もせず、二人に任せることにしたのである。
「魔術の方は一時的に結界を弱めるための道具を総帥にもらってきているからな。ルフィアよりも楽だ」
あたかも血の色のように見える真紅の珠を手に持ち、アスカは軽く笑った。
魔術の結界は科学のそれとは違い、総帥が変わるたびに張りなおされてきた。ここに施された『結界』は、魔術研究所総帥の魔力そのものだと言ってもいい。
ゆえに魔術研の総帥には強大な魔力と精神力、そして維持力が要求され、そのうちのどれかが弱まると世代交代を余儀なくされる。
現在の結界はもちろんロナが張ったものであり、ほんの三年程前に張りかえられたばかりの、まだ新しい結界だ。
そしてその結界を解くには、やはりロナの力が必要だった。無理に解くこともできるが、そうすれば『結界創者』であるロナに危害が及ぶと言われている。
だからこそロナは、彼らに『道具』を与えたのだった。
「じゃ、やるぞ」
アスカはロナの術力が込められた真紅の珠を、魔法陣の中央目掛けて放り投げた。珠は重力に反し、ふわりと空中で止まる。
その珠に向けてアスカは無造作に左手をかざし、セファレットは祈るように瞳を閉じて精神を集中させる。まるで陽炎が立ち上ぼるように、二人の周りを緩やかな風が包み込んだ。
真紅の珠は、彼らから発せられたその魔力に感応したように静かな輝きを放ち、少しずつ大きくなる。
そして ―― それが魔法陣全体に影を落とすほど大きくなると、珠は玲瓏な音をたてて砕け散った。
静かにふりそそぐ紅の雪のように、紅珠の破片は薄く魔法陣をおおう。魔法陣から発せられる結界の魔力を、その破片が遮っていた。
「今のうちに、さっさとD・Eに行こう。この破片がどれだけ保つかわからないからな」
アスカは薄い笑みを頬に刻むと、他の三人を促すように見やる。
「そうだね。じゃあ私はイファルディーナを準備してくるから、あとから来て」
ルフィアはぴょこんと飛び跳ねるように、岩窟から走り出て行った。
D・Eでの移動手段には魔術の『転移』を行うよりも車の方が便利だろうということで、科学技術研究所から一台借りてきたのである。
総統であるルナが用意したのだ。それはもちろん最新型の浮上車で、まだ市場にも発表されていない長期探索用の設備として開発された車だった。
イファルディーナは反物質や反水素と呼ばれる原子を安全かつ手軽に生成できる機能を持ち、ほとんど半永久的に燃料の補給を必要としない。1gの反水素があれば車は十万年は走り続けるとも言われている。
それは、まったく未知の場所であるD・Eに行くには必要な機能といえた。
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