第二章 3話

「イディア様」

 青年が湖岸にたどり着くと、リューヤはすぐに駆け寄った。

 ぴょこんと頭を下げ、今までに見せたどの表情よりも元気で溢れんばかりの笑顔を浮かべてイディアを見やる。

「いつも元気だな、リューは」

 青年は穏やかな瞳を少年に向け、優しく笑った。

 そのイディアの表情を真正面から見て、ショーレンはまたもや息を呑んだ。目の前にいるその人物は、ある人間をショーレンに連想させた。

 ティアレイル・ミューア大導士 ―― 。

 もちろん顔の造形はまったく違う。けれども。雰囲気がよく似ていた。

 瞳は同じ翡翠。髪はティアレイルが蒼っぽい銀色なのに対し、イディアは白銀の長髪という違いがあるだけで、同じ銀髪。

 しかし何よりも似ているのは、その表情の作り方だった。

 見た者すべてを安堵させるような、穏やかな穏やかな表情。けれど ―― 精巧な偽物の笑み。

 その仮面の下には、いったいどんな表情があるのだろうか。

「イディア様、おれを探してたって聞きましたけど、何か御用ですか?」

 リューヤはイディアと話すことが嬉しくて仕方がないのか、弾んだ口調になった。

 イディアはにっこり笑うと、少年の目の高さまで腰を落とした。

「いや、幽霊の街からこちらに人間がやってくる気配があったのでな、町を出る時は気を付けるようにと、そう言おうと思っただけなのだが……」

 イディアは自分の瞳の色と同じ翡翠石を埋め込んだ額環サークレットを揺らし、ショーレンを振り返る。

「もう、会ってしまっているようだな」

 一瞬、身も凍るような激しい恐怖がショーレンの脳髄を走った。

 イディアの額環に埋められた翡翠石が、静かな両眼とは裏腹にショーレンを睨めつけるような鈍い輝きを見せていた。

 剛毅なショーレンが恐怖を覚えるほどに、その翡翠石は深い『憎悪』を宿しているように感じられた。

 イディア本人がとても穏やかな表情をしていたからこそ、なお恐ろしいとショーレンは思った。

 リューヤはそんなイディアの額できらめく額環の輝きに気付いた様子はなく、照れたように笑う。

「はい。トリイの町から帰ってくる途中、荒れ地で会いました。当分の間、おれの家にいると思います。幽霊の街の話をしてくれるって約束したんです」

 言いながらリューヤは、自己紹介しろとばかりにショーレンをつつく。

 ショーレンは気を取り直すように頭を一度振ると、あざやかな笑みを浮かべ、すっと右手を前に出した。

「アルディス・ショーレンだ。こんな砂まみれで失礼する」

 先程リューヤに言われた言葉を思い出し、ショーレンはそう挨拶する。

 イディアはふわりと笑い、そんなことは気にしていないように軽く握手に応じた。

「私はイディア・ロット。この聖殿の神官を務めている」

 銀髪の青年はとても穏やかな、春の陽を思わせる口調で言葉を紡ぐ。

 どこから見ても穏やかなその表情が何故『作り物』だと思うのか、ショーレンは自分自身でもわからなかった。

 しかしどうしても、このイディアという青年からは『穏やかさ』以外のものを感じてしまう。先程のサークレットの件がなかったとしても、自分はそう思ったのだろうとショーレンは自覚がある。

 それは、初めてティアレイルに会った時にも感じたことだったのだから……。

 魔術者に対する偏見を持っているわけではない。けれども、内に宿したあまりに強大な魔力を無意識に怖れてそう感じてしまうのかもしれない。

 ショーレンは自分の中の不確かな感情にそう思うことにした。

「……神官、か。レミュールには既に存在しない職種だな」

 感慨深げにショーレンは目の前の青年を見る。レミュールにおいて、すでに宗教は歴史の中のとしての存在でしかなかった。

「アルディス、イディア様はこの聖殿に住まわれている、神の御子様なんだぞ!」

 あまりに不躾なショーレンの言葉に、ひっしとリューヤは叫んだ。

 彼にとってイディアは『神』そのものだった。そんな大好きなイディアを軽く見られるのは嫌だった。

「……み、神子?」

 聞きなれない言葉に、ショーレンの目が丸くなる。

「そう呼ばないでほしいと、私は言わなかったかな?」

 イディアは僅かに苦笑を浮かべ、軽く吐息を漏らした。自分は神ではなく、ただの人なのだと。何度言ってもこの少年はきかないのだ。

「ごめんなさい。でも……」

 リューヤは拗ねたように口を尖らせた。イディアがただの『神官』であるなどと認めたくなかった。イディアが自分のことを神官だと名乗ること自体、リューヤは嫌なのである。

「まったく、おまえは……」

 なかば呆れたように、しかしとても優しく、イディアは笑った。

「あとでおまえの家に行こうかな。幽霊の街の話とやらを、私も聞きたい」

 きかんぼうな子供をあやすように、イディアは拗ねてしまった少年の瞳をのぞきこみながら、髪を軽く撫でる。

 リューヤは自分の家に来てくれるというイディアの言葉に、ぱっと顔を輝かせた。

「はいっ! じゃあ、アルディスをちゃんとお風呂に入れてからにしましょう。イディア様のお好きなハーブティーもいれときます」

 今まで拗ねていたことなどさっぱり忘れたように、すっかり機嫌のなおったリューヤは元気にパルラに跳び乗った。

「アルディス、早く行くぞ!」

「げんきんな奴だなぁ」

 急かすように自分を呼ぶ少年に、ショーレンは肩をすくめてみせる。

 この様子だと、リューヤは家に帰ったらイディアのために大掃除でも始めるかもしれない。そう思いショーレンは吹き出した。

「なんだよぉ」

「いや。べつに」

 くすくすと笑いながら、ショーレンはパルラに乗った。それを確認すると、リューヤはパルラの手綱を取る。

「じゃあ、イディア様。またあとで会いましょうね!」

「ああ。楽しみにしているよ」

 元気に手を振って、あっという間に遠ざかるリューヤたちを眺めながら、イディアはくすりと笑った。

 他の人々にはないリューヤの元気さを、イディアはとても気に入っていた。

「 ―― !?」

 ふと、イディアの脳裏に何かの気配がよぎる。それはひどく強力な波動。まるで雷光の直撃を受けたような感覚に、イディアは強く胸元を掴んだ。

「……他にも、まだ来るのか。カイルシアの末裔たちが……」

 唇を噛み、そう呟く。

 そのイディアの表情はリューヤなどが見たことのない、ひどく冷たく、そして燃えるような憎悪の表情だった。

「…………」

 ふわりと、涼やかな風がイディアの髪にまとわりついた。

 まるで何かを警告するように、しかしとても優しく白銀の髪を揺らす。

 その柔らかな風の感覚に、彼はふっと我に返った。憎悪に揺れた翡翠の瞳が理知的な輝きを取り戻し、緩やかに和む。

「そうだな。ありがとう風伯……」

 自分の中に生まれた憎悪を吐き出すように、イディアは深いためいきをついた。

「もうすぐ眠りの夜だ。こんな憎悪を振りまくわけにはいかないからな」

 風の警告に応えるようにイディアはふわりと微笑み、そしてやわらかな瞳を閉じて蒼天を仰いだ。

< ―――― >

 彼の唇が微かに動き、夢幻的なまでに優美で柔らかな響きを風に紡ぐ。

 それは、ひどく優しく。そしてどこか悲しい響きを持つ旋律。

 人の声とは思えぬイディアのその歌声が風に乗り、ゆるやかに天空を渡ってアルファーダに生きるすべての生命に安らぎの時間を贈る。

 遥かな昔、多くの生命と優しき夜の闇を失ったこの……『昼世界アルファーダ』に捧げる鎮魂歌のように――。

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