第一章 10話

 魔術研究所の導士たちには、それぞれ個人研究室が設けられている。もちろんアスカにもそれがあるはずなのだが、そこに彼がいることはほとんどなかった。

 半分はティアレイルの研究室に。そしてもう半分は科技研に居るので、わざわざ自分の研究室に行かないのだという。

 よく使う物や必要なものはティアレイルの部屋に置いているという噂もあるほどで、いっそのことアスカの研究室をなくしてしまっても、きっと本人は気が付かないんじゃないかとまで言われている。

 ティアレイルにしてみても魔術研に入所してから4年間。ずっとそれが普通だったので今更なんとも思わない。逆に、そこに居ないほうが落ち着かないことさえあるくらいだ。

「アスカは……研究室か」

 だから今も、誰もいないはずの自室から感じる人の気配にそう思った。

 特に確かめたわけではなかったけれど、自分の研究室に勝手に入る人間などアスカくらいのものだ。

「……なら、話は早いな」

 そう呟いて、ほっと息をつく。

 ショーレンの友人であるアスカには、先程の事故のことを伝えたほうが良い。そう思っていたので、アスカが部屋にいてくれるのなら都合が良かった。

 いつものティアレイルなら、そんなふうには考えなかったかもしれない。けれども彼は今、いささか判断力に欠けていた。

 セスや同僚の前では何でもないように振る舞っていたが、実際は立っているのさえも辛かった。こうして普通に歩いていられるのも、すべてはその意志と気力によるものだ。

 それでも外見上だけみれば、彼がそんな状態であることを示す要素はない。強いて言えば、普段より少し顔色が悪い程度であろうか。

 廊下ですれ違った所員たちも誰一人としてその異変に気付くことはなく、大導士に対する敬意と畏怖いっぱいのを眼差しを向けて、深々と会釈をする。

 それに対し、穏やかな微笑と軽い会釈で応える一連の動作も、まったくの普段どおりだった。

 しかし自分の研究室に入り固くその扉を閉ざすと、ティアレイルは壁にもたれるようにずるずると座り込んだ。

 足に力が入らない。これほど自分の体が重いと感じられたことはなかった。

 出来る事ならこのまま床に倒れこみたい衝動にかられたが、そうもしていられない。事故のことを、目の前にいる幼馴染みに伝えなければならないのだから。

「アスカ……」

「ティアレイル!? どうしたの?」

 ティアレイルが幼馴染みの名を呼ぶのと、ソファで彼の帰りを待っていた女性が声をあげたのは、ほとんど同時だった。

 女性は苦しげに座り込む大導士の姿に、慌てたように駆け寄ってくる。

 その、アスカのものではない女の声にティアレイルはハッと顔を上げた。

 自分のこのような醜態を他人に見られることは何よりも嫌だったし、『象徴』と呼ばれる者が他者に弱さを見せるわけにはいかない。

 相手が幼い頃からの友人であると思えばこそ、安心していたというのに――。

「大丈夫?」

「……セファレットか」

 ふわりと自分の肩に置かれた華奢な手の向こうに、すみれ色の瞳の見慣れた女性を確認して、ティアレイルは少しだけほっとした。周囲に数多いるの中で、彼女は近しい存在と言える。

「浄化の雨の打合わせに来たんだけど。……どこか悪いの?」

 普段は毅然とした態度を決して崩さない同僚の苦しげな表情が、セファレットは心配だった。

 よく見てみれば、彼の額からこめかみにかけて冷や汗が幾筋も流れているのだ。

「……アスカは? ここにいたはずだが」

 ティアレイルは一度崩れたポーカーフェイスを立て直す気力もないのか、僅かに苦い笑みを浮かべると、呼吸を整えながらゆっくりと立ち上がった。

「アスカさんなら、さっき慌てたように出て行ったわよ」

 セファレットは応えながら、無理に立ち上がるティアレイルにそっと肩をかし、ソファへと座らせる。

 昨日も今日も、どう考えても彼の様子はおかしいと思う。入所以来だからもう4年の付き合いになるが、こんなティアレイルを見るのは、彼が『魔術派の象徴』となってからは初めてのことだった。

「ねえ、ティアレイル。昨日はなんでもないって言ってたけど、本当は何か予知したんじゃない?」

 問い詰めるのではなく、やんわりとした口調で尋ねてくるのがとても彼女らしい。

 美人というよりは愛らしいと言う形容が良く似合うセファレットは、ティアレイルと対等に話をする唯一の女性だった。

 ほとんどの女性は、ティアレイルの端整な外見と優しい性格に好意を持ちはするのだが、あまりに強大な魔力と『大導士』『象徴』としての立場にいる彼を雲の上の存在とみなし、対等には接しない。

 だからティアレイルは、変に気を使わなくても済むセファレットとはよく話をしたし、今回の『聖雨』のように研究所で何かをする時、同じチームを組むことも多かった。

 そのため、セファレットとティアレイルは恋愛関係にあるのではないかという噂が羨望こもごも研究所内外に広まっていた。

 が、あくまでも噂は噂である。ティアレイルにそんな気はなかったし、彼女自身もそんな感情を抱いている気配はまったくない。

 親しい同期の友人。そんな言葉が2人にはよく当てはまるだろう。

「……ああ、予知したよ。世界の崩壊をね」

「 ―― !?」

 ティアレイルは軽く息を吐き出すと、隠しても仕方がないというように淡々と言った。

 あまりに淡々とした口調に、一瞬セファレットはその内容を理解し損ねた。瞬きをひとつして、意味をようやく飲み込む。

 目の前に居るこの青年は、そんなことを冗談で言える人間ではなかった。

 ティアレイルの予知は、今まで99%の的中率を誇る。

 それも残りの1%は魔術派内で変えるべきだと決議し、起きる前に実力行使で変えてしまうために表れる数値だった。

 何もしなければ100%的中しているのである。いわば、彼の予知は『予知』ではなく『事実』だった。

「それは……『変えるべき予知』ね」

 僅かにかすれた声で、セファレットは言った。恐ろしさというよりも、突然のことに驚いていた。

 何かあるとは思っていたが、まさか彼がそんな予知をしていたとは思いもよらなかったし、その内容があまりに大きすぎて実感がわいてこないというのも事実だ。

「変える?」

 いつものように変えられると思っている同僚に、ティアレイルは苦笑した。

「昨日、言っただろう? 月の位置関係が崩れたせいで三月の『ちから』が中和しなくなり停電が起きたのだと。その『ちから』は科学の力だけでなく、魔力すら排除しようとするものだったようだ。これが……その証拠だよ」

 言いながら、両の手をおおう白い手袋を取る。

 手袋の下から現れたのは、正視にたえぬような赤黒く異様な『物体』だった。

 思わずセファレットは悲鳴を飲み込み、一歩あとずさる。それが、ティアレイルの手だと気付くのにかなりの時間を必要とした。

「さっき、あなたの強い波動を感じたけど、まさか、その時に?」

 セファレットはすみれ色の瞳を見開き、そっとティアレイルの腕を取る。まるで焼けただれたように変色した皮膚は、腕だけでなく広範囲に広がっているようだった。

 魔力の反発は本来術者の内に返り、体の内側からダメージを与える。それが『外傷』となって見えるとは、彼がどれだけ強大な魔力を行使し、そしてその反発を受けたのか、考えただけでも恐ろしかった。

「どうして……こんなになるほどの魔力を使ったの?」

 セファレットは痛ましげに頬を歪めた。

 まるで反発されることを感じたからこそ、その術力を強めたのではないか。そう思えるほどこの青年の怪我はひどいのである。

 しかし、ティアレイルは彼女の問いに答えようとはしなかった。

「外傷がひどく見えるのは、内臓を守ったからだよ。そんなにたいしたことはない」

「……まったくもう」

 顔に似合わず頑固なこの青年に諦めたように溜息をつくと、セファレットは傷だけでも治療しようと軽く手をかざす。

「癒しの術は効かないよ。使うと傷が広がるだけだ。私が受けた『反発』の力は、まだ体内に残っているらしい。なかなかしぶとい『ちから』さ」

 治癒の術を使おうとしたセファレットに、ティアレイルは淡々とした口調で告げる。まるで他人事のようなその口調が、彼らしいと言えば彼らしかった。

「……ティアレイル」

「大丈夫だよ。明日には反発の力は消える。そうしたら自分で治療ぐらいするさ。私はマゾではないからね」

 既に彼の表情から苦しげな様子は失せ、いつもの穏やかな微笑が浮かぶ。そのためにどれ程の精神力を必要とするのか、セファレットには想像もできなかった。

 ティアレイルは彼女から手を放すと、再び純白の手袋をはめる。この白手袋は魔術研究所の正装でもあるので、つけていても誰も不審に思わない。傷を隠すのにはうってつけだった。

 体中のいたるところに傷は広がり、息をするだけでも疼くことだろうと思う。

 けれども、目に見える場所に関しては綺麗なものだ。セファレットはこの青年の意地というのか、象徴としての自分に対する潔癖なまでの責任感を見た気がして、深く溜息をついた。

「……気は進まないが、科技研に行って来る」

 心配そうなセファレットはよそに、ティアレイルはそう呟く。

 シャトルの事故に関わった手前、自分の知る事を科学技術研究所の人間に報告する義務があった。

 それに恐らくアスカも『事故』に気付き、科技研に行ったのであろう。ならば、話はそこですべて済ませることができる。

 正直言ってティアレイルは早く用事を済ませ、自宅で体を休めたかった。

 自宅とは言っても両親とは数年前から絶縁状態にあり、長年ホテル暮らしをしている彼には看病してくれる身内はいない。

 だがその分、自分の醜態を誰にも見せずにすむ ――。

 そんな、アスカが聞いたら怒りだしそうなことを考えながら、ティアレイルは窓の外に遠く見える科学技術研究所に視線を向けた。

「あの異常な『ちから』が出ているというのに、宇宙に出るなど無謀すぎる。目に見えるものしか信じない。だから科学派は……」

 軽く睫毛を伏せ、ティアレイルは言葉を飲み込むようにうつむいた。

 そして何かをふっきるように一度頭を振ると、そのまま姿を消した。

「ちょ……っと、転移なんて無茶よ!」

 あのひどい状態で、しかもその体内には魔力に対する反発の力が残っているのだと言っていた。それなのに転移をするなど自殺行為にも等しい。

 しかし既にティアレイルの姿はそこになく、掴もうと伸ばしたセファレットの右腕は虚しく空を切っただけだった。

「もうっ! いつもこうなんだから」

 珍しく声を荒げて吐き捨てると、セファレットは宙を睨んだ。

「怪我人を一人で行かせるわけにいかないじゃない。それにあのティアレイルが科技研に行くなんてよっぽどのことだわ。世界崩壊に関係があるのかもしれない」

 それならば自分も知りたい。セファレットは軽く瞳を閉じると、ティアレイルの気配を追うように自らも転移を行った。

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