第一章 9話

「冗談だよ」

 何事もなかったかのように、ティアレイルはくすりと笑った。その目には普段よりも幾分子供っぽい笑みが浮かんでいる。

「貴方があまりに真剣な表情で……それなのにそんな格好をしているものだから、ついからかってみたくなったんだ」

「……え?」

 きょとんと、自分の格好を眺めやる。次の瞬間、セスは耳まで真っ赤になった。

 マンションを出た時、そう言えば自分は起き抜けで、寝着の上にコートを引っ掛けているにすぎなかったのだ。

 ファーヴィラと話したことで、すっかり着替えた気になっていたが ―― 。

 せっかく知的さをアピールしていたというのに、コートの中身はヒヨコが飛んでいるのである。インテリ然とした印象も、これでは台無しだった。

 これがせめて普通の寝着だったら……と切実な、しかし途方もなく論点のずれたことを考えながら、セスは照れたように頭を掻いた。

「いやあ、その……申し訳ない」

「別に謝ることはないですよ。もっと早く教えてあげるべきだったのに、黙っていたのは私ですから」

 ティアレイルは穏やかな笑顔を見せながら、そう応えた。

 十歳近く年上なはずのセスの率直な感情表現は、羨望にも似た好感をティアレイルに抱かせる。自分をそんな気分にさせるのは、アスカは以外には珍しいことだった。

「 ―― !」

 ふと、ティアレイルは何かに気付いたように天空を振り仰いだ。

 痛覚を伴う不快な感覚が、何かが起こる前兆として彼の表情を軽くしかめさせる。

「……それ以上進むと爆発する。引き返せ」

 心の中でティアレイルは警告を発した。細められた翡翠の瞳には、ここにはないはずの光景。シャトルを操縦するショーレンの姿がはっきりと映し出されていた。

「私の声が、あいつに聞こえるはずも無いか」

 一向に止まろうとしないシャトルに、ティアレイルは軽く唇を噛んだ。

 科学派の人間は好きではないが、だからと言って予知してしまった事実を見過ごすことはティアレイルには出来なかった。

 それに……何と言おうがショーレンはアスカの友人なのである。それを死なせるわけにはいかなかった。

 ティアレイルは精神を落ち着かせるように軽く瞳を閉じると、形の良い唇に微かなことばを刻む。

 それに呼応するように、僅かに癖のある蒼銀の髪が澄んだ光を帯びたように見えた。

 それは、あたかも闇の中に光星が誕生するかのような夢幻的な光景。呼吸をするのも忘れたように、セスはその光景に心を奪われていた。

 科学同様に魔術にも慣れ親しんでいるセスには、大導士が術を行使しているのだということはすぐに分かった。

 しかし、いくら魔術に慣れてるとはいえ、ここまで圧倒的な魔力を目の当たりにしたのは初めてで、眼前で展開される夢幻的な光景を、熱に浮かされた子供のように、ただただ見つめるだけで精一杯だった。

 ゆるやかな風とともに、凛とした輝きをおびた光がティアレイルを中心に波紋のように広がっていく。

 その直後、ティアレイルの瞳がハッと見開かれた。

「馬鹿なっっ!?」

 驚愕した翡翠の瞳は、すぐに研ぎ澄まされた宝剣のような怜悧な鋭さを帯び、遥か天空の彼方を凍て付かせるように閃いた。

 ぱしんっと鋭い裂音が響き渡り、ティアレイルを取り巻いていた風が眩い閃光を放って弾け散る。

 その強い衝撃に、ティアレイルは一瞬気が遠くなった。ぐらりと、自分の身体が傾くのがわかったが、それを持ち直す気力は残っていなかった。

「大導士!?」

 慌てたように、セスはティアレイルを抱き留める。その力強い感覚にうっすらと目を開き、ティアレイルは自分を心配そうに覗き込む男を見た。

 その視界の端に、先程まで周囲で雑談をしていた所員達が異変に気が付いて駆け寄ってくる姿も見えた。

「……ああ、ありがとう」

 ティアレイルは夢から醒めたように言うと、ゆっくりと自分の力で立つよう精神力のすべてを動員する。それが成功すると、ティアレイルは安心させるように穏やかな笑みを浮かべた。

「何があったんです?」

 まさか自分へのサービスで術を見せてくれたなどと思うわけもなく、さらに顔色のあまり良くない大導士に、セスは当然のようにそう尋ねた。

 ティアレイルは額にふりかかる前髪を両手でかきあげながら、さりげなく額ににじむ汗をぬぐった。

「少し、事故があったんだ。でももう大丈夫」

 周りに集まった同僚達にも聞かせるように、明瞭な声でティアレイルは言った。その目元には、ゆるやかな笑みが浮かんでいる。

「…………」

 セスはほうっと息をついた。

 先程の状況を考えてみれば、何もなかったわけがない。けれども、セスは何故かそれ以上聞いてはいけないような気がして口をつぐんだ

 例え最悪の状況が目の前にあったとしても、ティアレイルの穏やかな笑みと、大丈夫という言葉があれば、ほとんどの民衆は絶対の信頼と安心を寄せるだろう。

 それこそが、彼の『象徴』としての存在意義だと言える。

 その笑顔が『作り物』であるなどと、誰が思うだろうか。そんなことを微塵も感じさせないほど精巧に、そして穏やかに彼は笑顔をつくる。

 このポーカーフェイスを見破ることが出来るのは、ごく限られた人間だけだった。

「さてと、そろそろ失礼させてもらおうかな。明日の『聖雨』の打ち合わせもありますから。今頃セファレットがヤキモキしてる」

 ティアレイルはいたずらな少年のように翡翠の瞳を細めると、セスを、そして自分たちに話し掛けるのを躊躇しているふうの所員達を見やる。

 そのゆるやかな微笑をたたえた目を見て、集まってきていた所員達はほっとしたように互いに頷きあうと、雑談を再開するために元居た場所に戻っていった。

「今月は大導士が当番なんですか? それならさぞ植物たちも喜ぶでしょうね。まあ、聖雨の間は人間様が外出規制にあうのは不便ですけど」

 セスは茶化すように軽く舌を出した。

 普段、勝手に天からこぼれおちてくる雨とは違い、月に一度、魔術派が降らせる『聖雨』と呼ばれる雨がある。それは『植物保護と成長促進』の恵みの雨というのが一般的に理解されていることだった。

 しかし、それは聖雨の性質の一部を表しているに過ぎない。

 聖雨の本来の性質は、汚染された全てのもの……自然だけでなくあらゆる生物にも及ぶそれを、正常な常態に戻してくれる『浄化の雨』だった。

 この惑星に住むすべての生命は、自分でも気付かぬうちに、その生命の中に歪みを生じるのだという。その歪みが蓄積されていけば、自然も、人も、動物も。あらゆる生命が失われるのだと……。

 浄化の雨なくして、このレミュールに生物が存在するのは不可能だとされていた。

 しかしこれは、一部の人間しか知らないことだった。

 真実は、科学派の『人工太陽』同様に両アカデミーの『最高機密』として扱われ、一般の人々には公表されていなかったのである。

 すべては数百年前に起きたという事件に端を発するのだが、その事件を知るのは<古月之伝承>を受け継いでいるロナとルナの二人だけだった。

「降らせるのは深夜だよ。それとも、セスさんは深夜が活動時間かな?」

 ティアレイルはクスクスと笑いながら、セスの紅茶色の瞳を覗き込む。

「まあそんなとこです。深夜はいろいろとやることが……っと、また時間をとらせてしまうところだった。じゃあ俺はこれで失礼します。お忙しいのに、長い間すいませんでした」

 セスは軽く頭を下げ、ティアレイルに別れを告げる。

 結局、日蝕についての真面目な返答を得ることは出来なかったが、大導士の仕事を邪魔するわけにはいかなかった。

「……日蝕。少し図書館で調べてみると良いよ。もう、閲覧できないかもしれないけれどね」

 ふと、ティアレイルの柔らかな声音が聞こえ、セスは振り返る。

 ティアレイルは意味ありげな微笑をセスに向けていた。

「……え?」

 余りに唐突な言葉に、セスはその真意を測りかねたように、思わず聞き返す。

 けれどもそれには応えようとはせず、ティアレイルは白い上着を翻すと、研究棟に向かって歩き出した。

 去って行くティアレイルをしばらく見送ったあと、セスは夜空を仰ぎ見た。

 いつも三つの月を見慣れている彼らにとっては、月が二つしか見えない『夜空』は何とも不思議な光景だった。

「日蝕じゃないんだろうなっていうのは分かったけど、余計に謎が増えちゃったな。ティアレイル大導士も、どこまで本気なのかさっぱり掴めんしなあ」

 紅茶色の髪を無造作にかきまぜながら、セスは参ったというように溜息をつく。

 前回の対談で会った時とはどこか違うティアレイルの雰囲気に、少し戸惑っていた。

 誠実そうな好青年という印象に変わりはなかったが、その中に垣間見た、抜身の刀剣を懐に抱いているかのような危うさが、その困惑の原因だった。

「象徴も人間だってことか。考えてみれば、俺より十歳とおも若いんだもんなあ」

 気持ちの整理をつけるようにそう呟くと、セスは軽く溜息をつく。

「あとは自分で調べるしかないかな」

 うーんっと大きな伸びをしてから、セスは先程来た道をゆっくりと帰っていった。

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