第一章 5話
平安な睡眠を妨げるように、目覚し時計のベルがしきりに鳴っていた。そのけたたましい音に、男は顔をしかめながら起き上がった。
「……ああ? まだ暗いじゃないか。時計が狂ったかな」
窓の外に見える星空に、腹立たしいと言うように時計を叩く。彼は睡眠を邪魔されるのが、いっとう嫌いだった。
この天空の様子だと、まだまだ深夜であるようだ。十分眠ったような気もするが、きっと熟睡したせいなのであろう。そう思った。
しかし、深夜にしては妙に周りが騒がしいように思え、男はベッドからのそりと這い出ると、近くの椅子に脱ぎ捨ててあったコートを寝着の上にひっかけて、マンションのドアを開けた。
外では多くの人間達が集まり、不思議そうに天空を眺めていた。
「何かあったのかい、ファーヴィラ?」
男はその中に顔馴染みの少女の姿を見つけ、声を掛ける。
少女は大きな瞳をより大きく見開いて天空を見上げていたが、男の声にやんちゃな笑顔をつくった。
「セスおじちゃん、いま起きたんだあ。おねぼーさん。もう朝の八時だよ」
朝という言葉を強調するように、少女は言ってみせる。
セスは『おじさん』と言われたことにいささか顔をしかめてみせたが、その後の言葉の方が気になった。
「朝って……こんな星空が?」
信じられないというように、セスは星空を見上げる。ファーヴィラはコクンと頷くと、セスの隣に駆け寄ってきた。
「お日様がお空にないの。それでみんな怖がってるんだよ」
少女は天を指差しながら、ちょこんと首を傾げて言う。
「君は怖くないのかい?」
「うん。だって、お兄ちゃんが心配するなって言ったもの」
少女は兄に対する信頼からか、柔らかな笑顔を浮かべ、そう応えた。つい先程、大好きなお兄ちゃんからの電話があったばかりだった。
それまでは暗い朝が怖いと思ったけれど、兄の優しい声を聴いたあとは、その不安がきれいに消えていた。
「そっか。アルディスがそう言ったのなら、確かに平気なんだろうな」
ファーヴィラの兄が、あの科学技術研究所に所属する科学者アルディス・ショーレンであることを思い出し、セスは妙に納得したように頷いた。
一般の人々にとって科技研の所員と言えば魔術者と並んで『特別な人間』である。彼らに対しては絶対の信頼を抱いているといっても過言ではない。
今まで一度として、その期待を裏切られたことはないのだから。
「うん。そうだよぉ」
兄を信頼されて嬉しいのか、ファーヴィラはにこにこと笑う。そんな少女の頭をくしゃくしゃと撫でてやりながら、セスは自分の心に何か引っかかるものを感じた。
本当に、アカデミーは絶対の存在なのだろうか?
心の中に芽生えたかすかな不信。今まで自分が抱いてきたアカデミーに対する信頼と安心が、なんの根拠のない不確実な物であるような気がして、セスは瞑目した。
「昨晩は科学派の停電。今朝はこんな天変地異か……。魔術派はこのことを予知もせず、阻止もしていないじゃないか……」
絶対の存在であるはずの二つのアカデミーの相次ぐミスに、自分の心で次第に大きくなる不信感を抑えることは出来なかった。
『朝夜』の区別が人為的に行われているなどと、誰が想像しえるであろうか。人々にとって朝が来て夜が来るという生活は自然なことであり、必然的な現象だ。
夜が明けないなどということは、秘密を知らない一般の人間にとっては天変地異以外の何物でもない。
その『異変』を予知し対策を講じるはずの魔術派が、今回なんの動きも見せなかったことに対し、不信感を抱くなというのは無理な話だ。
もう一度、朝であるはずの夜空を見上げ、セスは軽く頭を振った。
「行ってみるか」
何かを決意したように、セスは階段を下りて行く。
急に自分から離れたセスを、ファーヴィラは階段の手摺から覗き込むように見下ろした。
「セスおじちゃん、どこに行くの?」
「おにいさんは、お仕事だよ」
僅かに苦笑を浮かべてそう訂正してみせると、セスは軽く手を振った。
「セスおじちゃん、コートの下にパジャマ着てたけど、わかってるのかなあ」
ファーヴィラは目をまるくして、そう呟く。その瞳が、いたずらなそれに変化した。
「きっと、忘れてるんだろうな」
クスクスと笑いながら、ファーヴィラはセスの入って行った路地を眺めていた。
天が、朱く燃えていた。夕焼けや朝焼けなどではない。
焔の海のごとく天上に広がるそれは、すべてのものを焼き尽くすように時折噴煙をあげ、地上に降り注いだ。
その熱は大気をも焦がし、灼熱の風がビルの間を、道路の上を、木々の隙間を、そして黒焦げになった……かつては人であったろう物たちをかすめ吹き抜けていく。
「……っ」
目の前に広がる無残な光景に、青年は唇を噛み締めた。
耳に飛び込んでくるのは人々の悲鳴。怒号。目の前には逃げ惑う人の群れ。
紅蓮の天はしかし、徐々にその勢いを増し、最初の一撃で生き延びた生命を屠るように、二撃三撃と炎の固まりを地上に投げ落とした。
「……ティ…アレイル様、た…すけてください……」
地面を這うように、右腕に子供を抱いた女性が青年ににじり寄り、悲痛な眼差しで訴える。その母の背は、熱風のせいかべったりと赤黒く焦げていた。
ティアレイルは必死で手を差し伸べた。焼け石に水でしかないことを承知しながらも治癒の術を施そうと試みる。
けれども、いくらその手を伸ばしても、彼女たちに届くことはなかった。
「……どうして」
女性は絶望したように青年を見やる。切なげに、そして恨めしげに両の目から涙を流し、短い悲鳴を上げながら地にくずおれた。
ティアレイルは目をそらすことも出来ず、手を出すことも出来ず、そのまま、ただただ時間とともに灰となって崩れいく親子を、歯を食いしばって見届けることしか出来なかった。
ふと気が付くと、周りにはたくさんの人間が集まっていた。そこに救いがあると思っているのか、彼らは必死の形相で、自分に助けを求めるように、少しずつ、少しずつ集まってくる。
けれども、自分は彼らに触れることさえ出来ないのだ。助けることも何も。
「…………」
青年は憎むように天を見やり、そして自分の無力さを痛感して瞳を閉じた。
焔の海と変わり果てた天空はその熱い欠片を撒き散らしながら、地上に向かって落ちてきている。
どんなことをしても助けたいと思った。けれど、そんな大きな災害を前に、自分にいったい何が出来るというのだろうか? このままでは、何も出来やしない……。
必死で考える青年を嘲笑うかのように、天空は朱く、そして月は熱く輝いていた。すべての生命を、呑みこもうとするかのように ―― 。
「ティアっ。おいっ。ティア!」
大きな窓に寄りかかるように天空を眺めていた幼馴染みに、アスカは声をかけた。どこか茫然としたふうのティアレイルが気がかりだった。
心ここにあらずといった態で、ティアレイルはもうどれくらいの時間をそうしていたのだろうか? 両の手に包み込むように持っている大きなマグカップからは、すでにほのかな湯気さえも出ていない。
「……ああ、アスカか。なに?」
夢から醒めたような表情で、ティアレイルは少し笑った。
「総帥が呼んでるぞ。今回の『事態』を阻止しなかった理由が聞きたいそうだ」
「……そう」
ティアレイルは僅かに窓から体を起こすと、気だるげにアスカを見やった。2歳年長の幼馴染みが、自分を心配するような表情をしていることに気付くと、ふうっと笑顔をつくる。
「何を心配してるのさ、アスカ。私に落ち度はない。総帥にとやかく言われることなど、何もないさ」
僅かに癖のある蒼銀の髪をかきあげ、ティアレイルはきっぱりとした口調で言った。
「今回の科学派の事故は、人々にとっては『天変地異』でしかない。それが魔術派の威信を落とすことになるということが、おまえに分からなかったはずはないよな」
ティアレイルは『それがどうした』と言いたげな笑みを浮かべ、アスカに視線を流す。
魔術派の象徴と言われるこのティアレイルが、その威信が落ちるようなことをわざわざ好んでするとは思えない。
それなのに、今のこの平然とした態度はなんなのだろうか?
アスカは初めて、この幼馴染みが何を考えているのか分からないと思った。今までにティアレイルの考えを理解出来ないことなどなかったというのに。
「……アスカ、停電が起きた原因はわかったのか?」
突然、ティアレイルは呟くような声で訊いた。
「ん? ああ。緋月と蒼月から出ている『波』が互いにぶつかって……」
「私は、そのチカラが発生した理由を聞いてるんだよ」
歯がゆいというように、ティアレイルは頭を振りアスカの言葉を遮った。
そのティアレイルの瞳に宿る眼光がどこか狂人のように思えて、アスカは目を見張った。こんな目をした人間を、一度だけ見たことがあると思った。
それが、彼が魔術研究所に入所した当時の総帥の瞳だと思い出す。突如その精神の旋律を乱し、総帥職を追われた男――。
今のティアレイルの眼光は、アスカが最後に見た、その男のものに似ているような気がした。
そこまで考えて、アスカは一瞬身震いした。
そんなことは、決してあってはならないことだ。
「……何かあったのか、ティア?」
幼馴染みの心情を推し量ろうとするように、アスカはゆっくりとティアレイルに近付いていく。それに気が付いたのか、ティアレイルは軽く呼吸をすると、すぐにいつもの柔らかな表情を取り戻した。
「ごめん、あっちゃん。何でもない。……総帥のところに行ってくる」
ティアレイルは持っていたマグカップをアスカに押し付けるように手渡すと、軽く手を振って部屋を出ていった。
一見いつもどおりに戻ったティアレイルが、自分を幼い頃の愛称で呼んだことに、アスカが気付かないはずはなかった。
ティアレイル自身、無意識であったのかもしれない。しかし久し振りにその名で呼ばれたアスカは、幼馴染みが何か問題を背負いこんでいるのではないかと思えて仕方がなかった。
ティアレイルのマグカップに入っていたのがココアであるということが、その思いをより強くアスカに抱かせる。
普段は余り甘い物を好まない幼馴染みがそれを望むのは、決まって何かを悩んでいるとき、もしくは精神的に疲れているときだということを、長い付き合いの中でアスカは知り過ぎる程に知っていた。
「 ―― あいつはなんでも独りでやろうとするのがいけないところだよ。昔は『あっちゃん、あっちゃん』って、俺の後をくっついていたくせに」
腹立たしげに、荒々しくマグカップをデスクの上に置くと、ソファにどっかと腰を下ろす。
いつからだったろうか? ティアレイルが自分を『私』と言い始めたのは。そして、独りで責任を背負い込むようになってしまったのは……。
記憶をさかのぼりながらアスカは、それがティアレイルの魔術研での地位が高まってきた頃からだと気が付いた。
「……真面目すぎるんだよな、あいつはさ」
溜息をつくようにそう呟いて、アスカは背もたれに体を預けて天井を眺めやる。
真面目すぎる幼馴染みが前総帥のように。その強い責任感故に追い詰められる状況に陥らなければいいが……そう考え、アスカは再び深く溜息をついた。
もう二度と、心を壊してしまった人間を見たくはなかった。ましてや、それが自分の幼馴染みであればなおさらだ。
「ったく、いったい何があるっていうんだろうな……」
アスカは天井を向いたまま、目を閉じた。
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