無神島

マッティー

第1話

 大量に氷を入れたグラスに、サイダーを注いだ時のような心地よい波の音。


 貝の肝を口に含んだ時の臭いがする、頬を優しく撫でる乾いた風。


 海中にあるサンゴが目を凝らさなくても見えるほどの透明度を誇る海水。


 ここにもう一つ要素が加わっていれば世界的にも有名なビーチとなっていた事だろう。その要素とは、私以外の人間の姿の事である。




 ここは無人島。これは私が昨日、一昨日とこの島を探索したからほぼ間違いないだろう。鞄に入っていた水とお菓子で何とか食いつないできたが、もう身体は限界に近いと脳が必死に伝えてくれている。動く気力も体力も残されていない私に出来るのは、このつまらなかった人生を振り返ることだけだ。


 これが走馬灯というやつの正体なのだろうかなどと考えながら自分の人生を思い出していると、あっという間に思い出は一昨日にまで迫って来ていた。薄すぎる自分の人生に悲観しながらも他にすることも無いので再び空想に脳を委ねる事にした。


 この島で目を覚ました時に、この信じられない光景を目にして一番に取った行動は、自分で自分の頬をつねるという行為だった。まるで創作上の人物の様な行動だと思い、つい笑ってしまった。あれが人生最後に笑った出来事になるのだと思うとため息が出る。


 次に同僚の佐々木の名を呼んだが返事は無く、空しく響いた声が木々の揺れる音と波の音に殺されただけだった。この時不思議と恐怖はなく、遂につまらなかった自分の人生にも刺激的な体験が回ってきた、と少しだけ楽しくなった。しかし今なら、馬鹿な発想だと自らを嘲ることが出来る。その時の私は、それだけ冷静さを欠いていたのだろう。


 そんな事を思い出していると、聞こえるはずのない子供が遊んでいる声が聞こえてきてハッと我に返った。どれぐらいの時間思い出に耽っていたのだろうか、太陽の角度が全く変わらないのを見るに十分経ったか経っていないかぐらいだろう。今の幻聴で我に返っていなければ危険だったかもしれない。飽き飽きしたこの無人島の景色を少しでも変えようと、姿勢を三角座りに変えて足元に視線を映した。


 今まで気が付かなかったのか、自然だが不自然に落ちているそれを見て、思わず目を見開いた。漂流してきたのか、それともこの島のものなのだろうか、不自然だと感じたのは今が七月のはずだからである。喜びと驚きで動揺した私は久しぶりに声帯を振るわせた。


「えっ、どんぐり?」


今掠れた声を出した口の奥から唾液が湧いてくるのを感じる。気が付くと私はその六つ程のどんぐりを拾い上げ、拠点の方向へと足を運んでいた。さっきまで生きることを諦めて走馬灯を見ていた者とは思えない、脊髄反射の如き速さで自分の身体が動いたことに、人間という動物の生存本能の強さを感じ自らをせせら笑った。


 私が拠点としているのは、一昨日の散策の時に見つけたコンクリート造りの廃屋だ。どうやらこの島には何十年も前に人が住んでいたようだ。廃屋の中にあった、見たことのない文字が刻まれた酒瓶を見付けた時には、自分が最近流行りの異世界とやらに飛ばされたわけではないと安堵した。しかしそれは同時に、ここは無人島であるという現実を突きつけられたという事でもあった。


 この廃屋は、倒れた木が屋根の役割を担っている。おそらく台風か何かのせいだろうが、ありがたい。海に面した壁には腐触は進んでいるものの立派な開閉可能な扉まで付いている。他の壁も欠けはしているものの軽い雨風ぐらいなら難なく防げそうである。


 扉を身体で押し開けると、地下倉庫の様な鼻を擽る黴の臭いと、狩ったばかりの芝生の臭いが混ざった生温い空気が、私の胃液を込み上げさせる。こんな臭いでも時間が経つと慣れてしまう人間の適応力に最初は驚かされたものである。


 中に入って流木の椅子に腰かけると、大雑把にたき火を作り直した。何故どんぐりが落ちていたのかはさて置き、流石に生で食べるのは衛生上憚られたので、殻をむいて火で炙って食べることにしたのだ。こんな極限状態でも衛生状態を気にしてしまうのが、人間の性なのだろう。そう考えながらポケットに手を入れてライターを取り出した。


 もし、ライターを持っていなかったならこの賞味期限切れの島で、寒い闇夜の中を過ごすことになっていたのだろう。妻と娘に煙たがられてはいたが、ここに来て煙草を吸っていて良かったと初めて思えた。しかしそれも、後生一生あることは無いだろう。


 種火を付けるとそれを見ながらベッドに横になった。火は不思議なもので、見ていると心を落ち着く共に、時間や苦痛さえも忘れられる。それに、石と土と草で作ったこの超高反発ベッドで眠ることが出来たのも火があったからなのだ。このことを知ってからは、世界各国の神話に炎の神が存在するのもなんとなく納得できた。




 たき火から放たれている熱と、天井の木の幹が揺れる音で自分がうとうとしていた事に気が付いた。寝ぼけ眼のまま身体を起こし、どんぐりの殻をむく作業に取り掛かろうとした。私が磨りガラスの世界から戻ってこられたのは、三匹のやせ細ったリスがどんぐりを欲しそうに見つめているのが目に入ったからだった。彼らは、火を恐れる素振りなど全く見せずに、欲しいお菓子の前で思わせぶりに立ち止まる子どもの様な表情を私に投げかけてくる。


 私は困惑してしまい暫く固まってしまっていたのだが、勝手に取ったりはしない彼らの律儀な姿を見て、本能のままにどんぐりを手に取った自分を思い出し、少し恥ずかしい気持ちになった。


「このどんぐりが欲しいのかい?」


 今回は掠れることなく空気を震わせることに成功した。彼らは私が声を出したことに驚くことなく、どんぐりを見て軽く頷いたように見えた。


「欲しいだけもっていきな」


 何故か口からそんな言葉が零れ出た。私は彼らを気の毒に思ったのか、同情したのか……いや全くそうではない。ただ、私が責任を負いたくないだけの気の弱い男というだけだ。


「あなたなんでもあの娘に買い与えすぎよ」


 私は妻に、ため息混じりでよくぼやかれたものだ。おかげで娘には優しいお父さんとして認識されていた。しかし、実際にはそんなことは無かった。ただ自分が悪者の皮を被りたくなかっただけなのだ。プレゼントを買い与えることで家族サービスをして、父親としての役目を果たした気になっていただけなのだ。


 私の言葉を聞いたリスたちは、意味が通じているのではないかと思う程のタイミングでどんぐりを口に含み始めた。頬を膨らませた彼らは、私の方を一瞥すると壁の穴を通って森へと姿を消した。


 リスたちが居なくなった途端、時間の流れが急に遅くなったような感覚に陥った。ふと娘が嫁に行く時の感覚はこんなものなのだろうかと思った。リスに娘の姿を重ねてしまうのは、私の精神がかなり摩耗しているという事だろう。


 やる事を失った私は、飢えと渇きを忘れるべく横になって火を見ることにした。あのリスたちにも家族がいるのだろうか。と余計なことを考えていると再び天井の木の幹が揺れた。


「えっ」


 さっきのリスたちが戻ってきたのだ。しかも、彼らは柿を重たそうに神輿のように担いでいるのだ。そして「これはお礼だ」とでも言いたいかのように、私の鞄の上に乗せて去って行ったのである。一瞬の出来事だった。いや、驚きのあまりそう感じてしまっただけかもしれない。


 情けは人の為ならず。そんな言葉があるが、こんなに早く自分に返ってきたのは人生で初めてだった。正確には最初で最後なのだが、そう思うと悲しくなるので止めておいた。嬉しく思ったのは束の間、ある疑問が湧いてきたせいですぐに消えてしまった。


 柿の木が生えているという事はこの島は日本の領土のはずだが、一昨日見つけた酒瓶に刻まれていた文字は日本語ではなかった。もちろん海外からの輸入品である可能性も考えられるが、こんな離島からわざわざ仕入れるだろうか。あらゆる仮説を頭の中に並べたが、あまりに現実離れした考えが脳を支配しようとしていたので、浜辺に出て考えを整理することにした。けれど、神は私に考える時間を与えてくれることなど無かった。


 私の背後から動物の気配を感じたのだ。何者かは分からないが、無秩序に漂う獣臭で人間ではないことは察しがついていた。またも私は現実離れした考えを脳裏によぎらせてしまった。この考えを払拭する為に、恐る恐る頭を後ろへと回し始めた。


「ウキャ!ウキャ!ウォホッウォホッウォホッホ!!」


 目の前に現れた猿の素っ頓狂な鳴き声に、思わず驚いて尻もちをついた。ひとまず安心して胸を撫で下ろしたのは、考えていたような恐ろしい鳴き声では無かったからだ。猿もやはり痩せ細っていて、私が手に持っている柿を欲しそうに見つめている。


「これが欲しいのか?」


 たかが猿、されど猿である。猿を無視して食べ始めて、もし怒って暴れでもしたら今の私は簡単に殺されてしまうだろう。それに、リスにはあげておいて猿にはあげないというのはなんだか不公平なように感じたのだ。もしかすると、またお返しを期待してしまっている自分もいたのかもしれない。


 この猿もリス同様少し頷いたように見えたので、柿を口元に近づけてやると嬉しそうに手に取り一口で頬張った。猿は勢いよく地面に種を吐き出すと、人間の二歳児のような走り方で海に向かって行き器用に泳ぎ始めた。そして、どんどん沖まで泳ぎ進めると、急に私の視界から消えてしまった。四十年程生きてきたが、今日この時ほど唖然とした事は今まで無かった。猿の逸脱した奇行の数々に圧倒された私は、開いた口を閉じることが出来ず、口内には容赦無く海の味が叩きつけられる。


 次に猿が私の視界に現れたのは、姿を消してから二分ほど経った頃だろうと思う。猿は赤く蠢く何かを両手で持ち、海面から顔を出してこちらに近づいて来た。最初は化け物かと思って警戒していたが、形がハッキリにするにつれてその不安は薄れて、突然視界から猿が消えた謎も解けた。


 無神論者だった私も、この無人島での神の御業としか言い様の無い不可思議な体験を経て、神の存在を信じざるを得ない状態に陥っていた。私の身に起こっている、この現象というかこのシステムは間違いなく、昔話のアレだと猿に貰った蟹を見て確信していた。それと同じであれば、主人公は最終的に巨万の富を得られるはずだ。そう考えると、一気に世界が開けた様な気がして楽しい気分になってきた。色々な妄想で頭を膨らませていると、私の上に大きな影が覆いかぶさった。


 その巨大な影の正体が鷺だと気が付いた時には、既に私の目の前に姿勢良く立っていた。曇りのない白色の体色に、全てを見透かしているかのような鋭い目つき、おまけに持ち上げた頭が私の胸あたりまで来るほどの大きさに委縮し、神々しさの様なものすら感じた。私は、特に言葉を発することも無く恐る恐る蟹を近づけた。すると鷺は、その巨大な嘴で蟹を咥えると、大きな音を立てて白銀の翼を羽ばたかせて何処かへと飛び立っていった。




 どれだけの時間が過ぎただろうか。既に日は落ち、涼しい風が私の頬を撫でる。あれからお返しが貰えるのを待ち続けているが、あの美しい鳥は一向に戻ってくる気配を見せない。初めは色々な妄想に耽っていたが、一時間ぐらいすると考える事も無くなってしまった。そうなると、楽しみよりも段々と不安の方が大きくなり、私の身体はすっかり抜け殻となってしまっていた。それ程、この無人島での生活は私の心を蝕んでおり、あの不可思議な体験は無くてはならない存在とまで昇華していたのだ。


 やはり神なんてものは存在しないのだ、偶像崇拝なんてものを少しでも信じた私が馬鹿だった。けれども、何か縋るモノがあることで心の健康が保たれるのはまた事実であり、神は概念として存在する事に意味があるのだろう。完全に気を落としてしまった私は、重たい足取りで拠点に帰るとベッドに横になった。消えかかっている火を見ていると、まるで自分の命を見ているような気がしてきた。そして、火が弱くなるにつれて、段々と私の意識も遠退いていった。




 なんだか幸せな夢を見ていたような気もするが、目が覚めた時には既に忘れ去ってしまっていた。自分のお腹の鳴る音を聞いて、まだ私には時間が残されているのだと感じた。仕方なく身体を起こすと、拠点内に不自然と置いてある何かに視線を釘付けにされた。目の前に見覚えのない機械が、見覚えのある白銀の羽と一緒に落ちていたのだ。


 私は数十年ぶりに、あの嬉しくて仕方がなかったクリスマスの日の朝と同じ気分になっていた。そして、昨日の神を信用しなかった自分を悔い、私の知りうる限りで一番丁寧な日本語を並べて、心の中で謝った。だが、喜んでいられたのは少しの間だけだった。目の前に置かれていた機械は、「電動モーターDC12V408W型」だったのだ。寂れた古い町工場勤務の私は、別にモーターに詳しいわけでは決してない。ただ、側面にそう書かれていたからそう呼んだだけである。


「なんだこれ」


 これが正直な感想だった。自分が使えないのはもちろんなのだが、一番の問題はこれを欲しがる動物がいないという点なのだ。しかし、この考えは扉の向こうから聞こえた大きな音を聞いて、改める事にした。気が付いたのだ、これを欲しがる動物が地球上に一種類だけいることに。


 扉を開けると、浜には小型のボートが座礁しており、東洋風の口髭を生やした男がこちらを見ていた。目の前の人間は、モーターを指さして耳にしたことも無い言語で話かけてきたが、それが通じていないのを理解すると少し悩んだ様子を見せた。なので私は、拙い英語で話しかけてみる事にした。彼も英語を話す事が出来たのは幸いだった。彼はどうやら釣りをしていたが、モーターの故障でここに流れ着いたらしい。


「少し待っていて」


 と言って私は、拠点に置かれていたモーターを持ってくると、男は手をあげて喜んでいた。町工場で毎日機械を弄っていた事もあって、ボートのモーターの取り換えもしてあげた。もし、お返しがもらえると知らなければ、ここまですることは無かっただろうと思う。


 無事に取り付けも終わり、問題なく作動することが確認できたので私は男に尋ねてみた。


「お礼にその釣り竿と、クーラーボックスをくれないか」


 すると男は一瞬不思議そうな顔をしたが、快く渡してくれた。クーラーボックスの中には今朝釣ったばかりであろう大きな鯛と、氷でキンキンに冷えた缶ビールが入っていた。私がお礼を言うと彼はエンジンを起動して笑顔で去って行った。次はどんなものと交換できるのだろうか、と考えながら拠点に戻り消えていた火を着けなおした。


 火は不思議なもので心を落ち着かせてくれる。いや、私としては落ち着かずに、頭を整理しない方が幸せだったかもしれない。私は急いでドアを開けて、男の乗ったモーターボートに向かって手を振り大声で叫んだ。


「おーい!俺を日本まで乗せて帰ってくれー!!」


 声に気が付いた男は、ひたすら笑顔で私に手を振り返してくれるだけだった。


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無神島 マッティー @dragonmatty

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