再び、なんの味気もない毎日が戻ってきた。もう幾度となく繰り返してきたはずなのに、あの日の体験が強烈に脳裏に焼き付いているせいで、前にも増して無味乾燥なものに感じられた。毎日目覚めるたびに、枕元に紀子が立っていないか期待している自分がいた。

 数日(僕の感覚上の話だ)経ったある日、紀子が現れた。この日は枕元にではなく、普通に部屋のドアから入ってきた。

 「夏っぽいところ、行く?」

 もちろんだ。

 紀子が僕を連れて来たのは、今まさに見頃を迎えているヒマワリ畑だった。そこは満開のヒマワリが視界の半分を埋め尽くしていて、もう半分は底なしに青い空だった。

 僕の背丈くらいのヒマワリとヒマワリの間を縫うように迷路みたいな小径が作られていて、僕たちはそれをどんどん進んでいった。

 「遅いよ」

 紀子が時々振り返りながら、少し早足で僕の前を歩いている。その顔には、ここに咲き誇るヒマワリと同じ大輪の笑顔が漏れ出ていた。

 「こういうところ来るの、紀子も初めてなの?」

 僕はふと思ったことを口にする。

 「なんで?」

 「すごく楽しそうだからさ」

 一瞬、紀子は目を丸くして立ち止まる。

 「ヒマワリくらい見たことあるわよ」

 そう言いながら僕に向き直って、

 「それともなに? 私が楽しそうにしてたらだめなの?」

眉を吊り上げつつも笑顔を浮かべるという複雑な表情(怒り笑いというべきかもしれない)を浮かべた。嬉しそうにヒマワリの間を駆け回る彼女は、年相応に可愛らしく見る――セーラー服を着ているから、学生だと仮定しての話だけど。そんな紀子を見ていると、なぜか僕まで浮足立つ気持ちだった。

 「まあ確かに、私が見てみたかったってのもあるけどね」

 紀子は再び歩き出しながら、独り言のように呟く。

 「じゃあウィンウィンってことだ」

 「そういうこと」

 得意気に笑う紀子。

それからしばらくは、肩を並べて歩いていった。小径はヒマワリの間を縫って、丘のようになっている場所につながっていた。そこはちょうど今歩いてきた場所を見晴らせるようになっていて、上から見たヒマワリ畑は黄色と緑の折り紙をちぎって敷き詰めたみたいに見えた。

 「君は普段こういうところに来たりしないの?」

 僕はなんとなしに紀子に問いかけた。彼女だって年頃の少女だし、家族とか友達、あるいは(もしいるのなら)彼氏とかと出かけることだってあるだろう。

 「うーん……。こういうのはあんまりないかな。来るのは初めてかも。あなたみたいなのは珍しいから……」

 紀子は被っている麦わら帽子の位置を両手で直しながら、少し考えながら言葉をつないだ。すぐに思い出したかのように声のトーンを改めて、

 「この前もそうだけど、どう? 悪くないでしょ、私のセンスは」

 僕にそう訊いた。

 「うん、すごくいいよ」

 眼下のヒマワリを眺めながらそう答える。だから三つ目も君に任せるよ、と僕は紀子に言った。なんなら、君の見たいものでいい。僕は夏そのものより、誰かと一緒に過ごす夏が必要だったのかもしれないと、なんとなくそう思い始めていた。だから、紀子の行きたいところに一緒に行くのが一番いい。

 「わかった」

 紀子はヒマワリ畑に目を落としたまま、小さく答えた。

 「……次が最期か」

 

 次に紀子が姿を見せるまで、どれくらいの日が経ったかわからない。寝て起きるだけを繰り返すだけの日々は、意識がないも同然だ。それに、焼き付けられた鮮やかな景色に比べて、この部屋の色彩のなさと言ったら。モノクロの世界そのものだ。

 唯一の救いといえば、あの日の最後に紀子が置いていった、数本の小さなヒマワリが挿された花瓶だった。それはベッドの足元の方に置いてあるスツールの上に置いてある。

 ――あなたの部屋、何もなさすぎて不安になる――そう言って彼女が置いていったのだ。灰色に近い無色の部屋の中で唯一、そのヒマワリが小さな太陽のような輝きを放っていた。

 一週間か十日くらい経っただろうか。やっと紀子が現れた。今度は前よりも丁寧に、部屋のドアをノックしてから入ってきた。服装は相変わらず、麦わら帽子にセーラー服。

 「今日で最期だけど」

 まっすぐ僕を見つめたまま、紀子が言う。

 「思い残すことはない?」

 僕に思い残すことなんか最初からない。君が夏空の下に僕をここから連れ出してくれただけで十分すぎるくらいなのだから。

 「じゃあ、行きましょ」

 紀子が僕の手を取る。次の瞬間、気づけば夕闇の雑踏の中だ。賑やかな人混みの真ん中に僕らは立っていた。どうやら、大きな川にかかる橋の上らしい。浴衣を着ている人、綿あめを片手に駆け回る子供、色んな人が居てまるでお祭りみたいだ。夏祭りの会場なのだろうか?

 「今回は夜なんだね」

 皆、歩道の欄干にもたれかかって空を見上げながら、何かを待っている。

 「もうすぐ始まるから、私たちも場所を見つけないと」

 紀子が少し焦った様子であたりを見渡している。橋を少し歩くと、歩道の張り出した部分にちょうど二人分のスペースがあったので、そこに身体を押し込んだ。

 「もうすぐよ」

 神妙な顔で紀子は空を見上げている。刹那、乾いた破裂音と口笛のような音があたりに響き渡る。短い間を置いて、赤や緑の光が夜空を覆い尽くし、炸裂の轟音が鼓膜を震わせた。周囲の歓声と共に、僕はやっと理解した。ここは花火大会の会場だ。

 休む間もなく、色とりどりの光の花弁が空に打ち上がっていく。その度に炸裂音が空気を震わせ、光彩が瞬いては、地上へと降り注ぐように消えていった。

 食い入るように紀子はそれを眺めていた。その顔を、花火の光が照らしていく。不思議なもので、ヒマワリ畑で見たときとは違った少し大人びた表情を僕は見出す。紀子は何を思っているのだろうか。

 僕たちは一言も言葉を交わさないまま、一時間ほどの打ち上げの間、夕闇を彩る大輪の花を見上げていた。

 花火を見終わった人々が列をなして帰路につく中で、紀子がポツリと口を開く。

 「まだ、いい?」

 僕が頷くと、ちょっとまってて、と言って紀子はどこかへ走っていく。数分して、何かを手にして彼女は戻ってきた。

 「もう少しだけ、続きを」

 紀子が買ってきたのは線香花火だった。橋から河川敷に移動した僕たちは、すっかり人気のなくなった川辺の砂利の上で小さな花火大会を始めた。

 パチパチと小さな音を立てながらはぜる線香花火を、僕と紀子はさっきと変わらず黙って見つめていた。僕は下手くそですぐ火球を落としてしまったけど、紀子はやたらと上手かった。

 だんだんと小さくなりながら燃え尽きていこうとする線香花火はどこか儚げで、夏の終わりを予感させるような感じがした。これで最後なのだ。心なしか、彼女も浮かばれない顔をしているように見える。

燃え尽きて小さな煙をあとに残したこよりを手に、意識していないと聞き取れないような小声で紀子が口を開いた。

 「ごめんね」

 なにが、と言おうとしたとき、僕は周囲が一変していることに気づいた。

 さっきまで夜闇に包まれたはずの河川敷は、いつの間にか黄金色の夕陽に包まれていた。足下の砂利も、丁寧に刈り込まれた芝生になっている。幅広の川面が夕日を受けてきらきらときらめき、対岸の遠くには巨大な摩天楼群が天に向かってそびえている。

 聞こえてくるのは自分の息遣いだけだった。

 「ここは一体……」

 僕は慌てて周囲を見渡す。僕のほかには、紀子の姿があるだけだ。誰の気配もない。

 「ここはあなたの終着点」

 紀子が小さく言う。

 「終着点って、終わったらまた部屋に戻るんじゃないのか」

 僕が問いただしても、彼女は目を伏せてそむけるだけで何も答えない。

 「どういうことだ、終着点って……」

 呆然として僕は立ち尽くす。やがて、彼女がまた口を開く。

 「三つの願いを叶えたら、それで終わり。だからここに来たの。それが私の仕事」

 紀子、君は一体何者だ? 僕には分からない。いや、分かりたくない。だけど、僕の思いとは裏腹に、紀子は言葉を続けた。

 「分かりやすく言えばね、私は死神なの。あの日、死にたいと思っていたあなたの意識が私を呼んだのよ」

 感情を殺したかのように淡々と、彼女は事実だけを述べていく。

 「願いは実現したでしょ?」

 言い終わると、彼女は微笑んだ。僕はひどく狼狽した。確かに、僕は死んでもいいと思っていた。でもそれはあの日までだ。紀子が見せてくれた景色が、紀子が僕の思いを変えたのだ。僕は夏が、誰かと過ごす夏がこれほどまで楽しいものだと知ることができたのに。そして、それを教えてくれたのは他でもない、紀子だ。それなのに、死神? 紀子、君が?

 「もう、僕にはどうしようもできないのか」

 必死に言葉を絞り出して、紀子に投げかける。ほとんど懇願だったと言ってもいい。

 「もう長くないことは自分でも分かっていたんじゃないの? 自分であの部屋から出ることができないことも。だからこんなお願いをしたんでしょ。私はそれを叶えた。それだけよ」

 冷酷に言い放つ紀子。僕は強烈な目眩を覚えた。自分のこと――あの部屋のこと――そして紀子のこと。ありとあらゆることが脳内を高速で駆け巡る。膝を打ち砕かれたような衝撃が走って、何かに掴まらないと立っていられないような気分だ。

 「この川を渡ったら本当の終わり。だけど――」

 そこで紀子は言葉を濁した。麦わら帽子を掴んで、目元まで引き下げる。

 「こんなお願いは初めてだった。普段は最後に誰かに合わせろとか、あるいは恨みを晴らしてくれとか、そんなのばっかり。だけど、あなたは違った。だって、私も楽しかったから」

 声が少し震えていたのは、僕の気のせいだろうか。

 「あなたと過ごした夏は、私にとっても忘れられないものになったの。仕事だから切り離さないといけないって思っていたけど、それでもやっぱり楽しくて」

 言葉を切ると、紀子が僕の目を見つめた。

 「だからね、あなたは死んじゃだめなのよ。来年の夏まで生きて、また夏を探しに行こう。そのときは、今度はあなたが私を連れて行ってよ」

 紀子はそう言って、にっこりと笑った。夏の太陽とか大輪のヒマワリとか、あるいは夜空に輝く花火みたいな、あの笑顔で。

 「君は、それでいいのか」

 僕にとってはありがたいけど、これは彼女の仕事であり、同時に僕の運命でもあったはずだ。

 「いいの。それとも、あなたは楽しくなかった?」

 「僕も楽しかったよ。とても。生きててよかったと思えたのはこれが初めてだ」

 「よかった。でも、生きるのはこれからの話ね。それはあなた次第」

 紀子はそう言いながら、僕の手を取る。

 「また会いましょ。私もそろそろ行かないと、仕事をサボってたのがバレちゃうからね」

 はにかむ紀子の気配が、急に遠くなっていく。まだ話したいことはたくさんあるけど、今ここに僕が長居するわけにもいかないのだろう。僕の手を握る紀子の手の感触が薄れていくと同時に、視界も暗くなっていく。

 「ありがとう」

紀子の気配が完全に消える瞬間、僕はそんな声を聞いた。あるいは、僕が言ったのかもしれない。だとしたら、彼女に届いただろうか?


 次に意識を取り戻したのは、見慣れた元の部屋だった。目を開けてベッドの上で上体を起こすと、僕の白く痩せ細った腕が視界に入る。その腕には幾本もの管が刺さっていて、ベッド脇に吊るされたパックへとつながっている。ベッド脇のモニターには周期的な波形が表示されていて、機械から時折発せられる電子音が部屋に小さく響く。僕の部屋は病室だった。

難病に冒されてからというもの、僕はずっとこうやって生きてきた。生きてきたというより、生かされているといったほうが正しいかもしれない。この状態で僕にできることといえば、ベッドの上で上体を起こすことくらいだ。

 僕が起き上がったのを知ってか、看護師が慌ただしく駆け込んできた。検診があるとかで再びすぐベッドに寝かされた僕は、いろんな医療機器のお世話になる羽目になった。

 「随分長い間意識を失ってたんですよ」

 看護師によると、僕は夏になる前に急に容態が悪化して昏睡状態になっていたらしい。意識を取り戻したのは奇跡だと僕に語りかける看護師の話を他人事のように聞き流しながら、僕は紀子のことを考えていた。あれは全部、僕が見た夢とか妄想だったのだろうか?

 一日中各種検査にかけられて実験動物みたいな気分を味わったあと、再び部屋に運び込まれた僕の目に留まったのは、部屋の隅に置かれたスツールだった。その上にあるのは、小さなヒマワリの挿してある花瓶――紀子がいた証拠だ。僕はこれ以上ないほど安堵した。夢でも妄想でもなかったのだ。

 日の終りに、担当医師がやってきた。白衣に身を包んだ、いかにもといった見た目の初老の男だ。今後の治療方針とかを話に来たのだろう。今までは、どうせよくなることはないと諦めていたから興味もなく聞き流していた話だ。でも、今は違う。その姿を見るなり、僕は開口一番に言った。

 「先生、僕はましに――いや、よくなりますか。来年の夏、夏祭りに行けるくらいに」

 医師は面食らったようで、少しの間僕の顔をじっと見つめた後、

 「それは分からない。だけど、あなたが少しでもそういう気持ちを持つなら、私達はその手助けをすることはできるよ」

少しの苦笑いを顔に浮かべてそう言った。


 そうは言ったものの、十数年かかっても治らなかったものがすぐによくなるとは僕もさすがに思ってはいない。だけど、僕の精神状態は上向きだった。薬の副作用は辛いけど、次の夏にもう一度紀子に会うためなら、なんだって乗り越えられそうな気分だ。

 そのためにもう一つ、僕はベッドの位置を窓際に変えてもらった。これまではどこにも行けないことに嫌気が差して、窓から離れた位置にベッドを置いてカーテンも閉めっぱなしにしていた。どうせ空しか見えないと思っていたけど、その気になれば意外と色んなものが見えるものだ。

 今はちょうど病院の中庭にあるイチョウの木が真っ黄色に色づいているのが見えていた。ヒマワリの黄色とはまた違った、秋の色とでも言うべき黄色だった。春には桜が見られるかもしれない。紀子も仕事に追われながら、どこかで季節を感じているのだろうか。僕と同じように、再び夏がくるのを待ちながら。

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君の夏を教えて 長峰 @takayame

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