君の夏を教えて

長峰

 今年も夏が来たようだ。来たようだ、というのは、僕にはそれを肌で感じることができないからだ。夏といえば、焼き付けるような日差しだとかうだるような暑さだとか、あるいは蝉の大合唱だとか、そういったイメージが一般的なのだろう。

 だけど、僕の部屋はエアコンによって年中一定の気温に保たれているし、僕のいる場所からは窓の外をうかがうことはできない。空しか見えない窓というのもなかなか鬱陶しいもので、最近ではカーテンもずっと閉めっぱなしだ。

 要するに、僕と外界とを繋いでいるはずの感覚的な情報は、一切がシャットアウトされているのだ。ベッドのサイドテーブルにおいてあるデジタル時計に刻まれる数字だけで、今日が何月何日何時何分なのかを認識している。そして、それの日付を示す部分には、無機質な八の数字がちょうど表示されていた。八月――世間的には、夏にあたる月だろう。

 僕は引きこもりだ。この状態を、引きこもり、と形容するのが本当に正しいのかは分からないけど、引きこもりか引きこもりじゃないかで言えば間違いなく引きこもりだから、ここではそういうことにしておく。ここ十年近くはそうしているだろうか。部屋から出ることはできないし、出たいという気持ちも既に失われつつあった。極度に無彩色のこの部屋で朝目覚め、夜眠る、ただそれだけの生活を繰り返し続けていた。

 生きている、という実感もあまりない。何者かに生かされている、というほうが僕には馴染む。時折朝起きると、目覚めてしまったという強烈な虚無感に苛まれている。

 時折、死にたいとすら思うようになった。こんな無味乾燥で灰色の人生なんてさっさと終わってしまったらいい。けど、自分でそうしようという勇気もなくて、結局はただ毎日過ぎ去るに身を任せている。もし、何かそういう類の存在が僕のもとに現れて「今日お前の命をいただく」なんて言ってくれたら、僕は喜んでそれに従っただろう。だけど、そんなことは起こるはずもなく、僕は今日も眠りにつく。明日が来なければいいのにな、なんて思いながら。


 もう何百回と聞いたであろう電子音が僕を眠りから引き剥がした。目が覚めても、しばらくベッドから身体を起こす気にもならなかった。アラームを止めて、少しずり下がったシーツを引っ張り上げ、頭の上から被る。この殺風景な部屋と現実に目を背ける、些細な抵抗だ――そうしても何も変わらないとは分かっていても。

 数分ほどそうしているうち、ふと、ここにいるはずのない誰かの気配を枕元に感じた。確かめようと思い寝返りを打ってベッドの反対側を見ると、紺色のプリーツスカートが目に入る。人だ。この部屋に? ベッドに寝転がったまま、僕はそのまま視線を持ち上げる。

 「や」

 女の子がそこにいた。ところどころがはねた黒いロングの髪で、半袖のセーラー服に身を纏った少女。その頭には少し大きめの麦わら帽子が乗っかっていて、ワインみたいな赤色(僕はワインを飲んだことはないけど)の瞳が、悪戯っぽい笑顔をたたえて僕を見下ろしている。

 僕は慌ててベッドから上体を起こした。この部屋に訪問者があるのは稀だ。それにそもそも、部屋の鍵はかかっているはずだ。どうやって入ったんだ? というか、君は誰だ。

 「誰って、呼ばれたから来たんだよ。あなたが呼んだんじゃないの?」

 少女は心外だと言わんばかりにきょとんとした表情になる。僕は女の子が部屋に来るようなサービスを頼んだ覚えはないし、今まで使ったこともないが。

 「そういうことじゃないんだから」

 頬を膨らませて、少しむっとした様子の少女。

 「とにかく、なにかしてほしいことがあるんじゃないの だから来たんだけど」

 なんのことだ。やっぱりそういうサービスなんじゃないのか。

 「だから違うって言ってるでしょ。ほら、なにかないの?」

 少女は腕を腰に当てて僕に迫る。僕は戸惑った。あまりにも突然のことでさっぱり分からないし、ついていけない。気持ちを落ち着かせるために、僕はありきたりな質問を少女に投げかけた。

 「君は誰なんだ? どこから来た? 名前は?」

 間髪を入れず少女が答える。

 「誰かとか、どこからとか、そんなのは分かりきってるから今更答える必要はないでしょ」

 分かってないが。

 「でも名前は……そうだなあ、うーん」

 少女は少し悩んだ後、

 「紀子のりこ、ってことにしとくね」

 ことにしておく、というのはどういうことだ。自分の名前じゃないのか。

 「別に名前とかどうでもいいのよ。それとも名字が気になるの? んじゃあ……鈴木すずき。鈴木紀子ってことで。これで満足?」

 紀子と名乗った少女は一方的にそう言って口を閉ざすと、僕を再び見つめた。どうやら僕の番らしい。

 「なにかない、ってのはどういうことだ?」

 「今更いちから説明しなきゃだめ? あなたが今実現したいことを言ってくれるだけでいいだけよ……あ、ただし三つまでね」

 突然そんなことを言われて、即座に思い浮かぶ人間が果たしてどれくらいいるだろうか。そもそも、未だにこの状況すら飲み込めていないのに。

 「呼んだからには、言ってくれるまで帰らないからね。そうじゃなきゃ私も困るから」

 紀子は僕のベッドの足元に腰掛けている。ここで僕が何か彼女に言わないといけないらしい。だけど、僕は何も思いつかなかった。毎日代わり映えのしなさすぎる生活に慣れ過ぎて、あらゆる欲にまつわる感情が麻痺していたのかもしれない。願いとか希望とかと名前のつくものは、とうに心の底で錆びついていた。数十秒(もしかしたら数分だったかもしれない)ほど逡巡していると、不意にサイドテーブルのデジタル時計が目に入った。そうだ。

 「僕に夏を見せてほしい」

 思いつきの勢いで、僕はそう答えた。紀子は目を丸くして、

 「それだけ?」

 と、さきほどから幾分トーンダウンした声で聞き返した。そうだ、それだけだ。

 「三つとも?」

 「あとの二つはその後考える」

 「夏って、どんなのがいいの?」

 「それは君に任せるよ」

 分かった、と紀子は少し戸惑いながら言うと

 「じゃあ明日また来るね」

 それだけ言い残して部屋から去っていった。

 なんだこれは。夢か。夢だとしたら、一体僕の深層心理はどうなっているのだろう。フロイトだったらどんな夢判断を下すのだろうか。

 再びデジタル時計を見た。いつもと変わらず、時を正確に刻んでいた。


 翌日、アラームが鳴って僕が目覚める頃には、枕元に紀子がいた。昨日と変わらない、セーラー服に麦わら帽子という出で立ちだ。どうやら夢ではなかったらしい。でも枕元に立つのはびっくりするからやめてほしい。

 「なによその言い草」

 紀子は鼻で笑うと、

 「そんなことより、夏が見たかったんでしょ? 行くよ」

 そう言って僕の腕を掴んだ。僕の準備などお構いなしのようだ。

 「時間は有限でしょ、あなたにとっては」

 ただ繰り返しだけの単調な毎日を送る僕には無限みたいなものだ。ふと、僕はここから連れ出してくれる誰かを必要としていたのかもしれない、なんて考えが脳裏をよぎった。それが紀子なのだろうか? その考えは紀子の声で遮られた。

 「ちょっとだけ目を瞑ってて」

 言われたとおりに目を閉じると、僕が感じるのは左手を掴む紀子のひんやりとした手の感触だけになる。一瞬か、あるいは数秒もしないうちに再び紀子が口を開く。

 「もう大丈夫」

 僕は目を開ける。と同時に飛び込んできたのは閃光と耳をつんざくような大音響――というのは僕があまりにも静かで薄暗い部屋に長く居すぎたことによる錯覚で、それは頭上から照りつける太陽と、この季節特有の昆虫の鳴き声だ。

 河川敷の堤防の上に僕と紀子は立っていた。堤防の下には穏やかな透き通った水面が、幅広の川の流れを形作っている。僕たちの立っている堤防を挟んで反対側には青々とした田園地帯が広がって、ときおり吹き抜ける風が青々と茂るその表面を撫でつけていた。そのさらに向こうに連なる山々の峰の向こうから、乗り出して顔を覗かせるように巨大な入道雲が立ち上っていた。

 ぎらぎらと輝く太陽、蝉の大合唱、川のせせらぎ、土の香り。五感すべてが、突如広がった世界のすべてを全力で感じ取ろうとしている。吹き出す汗すら心地よかった。

 あの部屋と一緒に僕が閉じ込めた、いろんな感情が塊になって一気に解き放たれたような気がした。それは、十年近くあの部屋で過ごしていている間に錆びついてしまった、全ての感情だった。僕はしばらく立ち尽くして、駆け抜ける一瞬の風に身を委ねた。

 「あなたが望む夏かどうかは分からないけど」

 麦わら帽子の端に触れながら、少し自信なさげに紀子が言う。ずっとあの部屋で過ごしていた僕にとって、望む夏の姿なんてものはない。なんだっていいのだ、夏を感じることができれば。そして、これは夏だ。まごうことなき夏だ。

 汗ばむ額を拭って僕は川面まで下りていくと、そのままおもむろに足を踏み入れた。長いことまともに運動していなかったせいか、膝下くらいまでの深さの流れに、一瞬、足を取られそうになる。感じる水の冷たさや足裏に伝わる砂利の感触は、初めてのはずなのにどこか懐かしさすらあって、そのうえとても心地よかった。流れに足を浸けたままの姿勢で、しばらくの間、せせらぎの音だとか蝉の鳴き声だとかに耳を傾けたり、あるいは草木の間を駆け抜けてきた風が頬を撫でるのを感じたりしていた。どれも、あの部屋では感じることのできないものだ。

 そんな僕の様子を、川辺から紀子が少し呆れたような顔で見ている。

 「君も来なよ」

 僕が呼びかける。

 「私は連れてくるだけだから」

 最初はそう言って首を振った紀子だったけど、僕が涼んでいる様子を眺めているうちに興味が湧いたらしい。堤防を下ると川べりで靴を脱いで、熱湯風呂に入るみたいにそろりと水に足を浸けた。

 少しの間、紀子は僕から離れたところでぱしゃぱしゃと足で水を蹴り上げていたりしていたけど、しばらくすると僕の方に近づいてきた。

 「あんな大きい入道雲、初めて見たよ」

 「どっちかというと、かなとこ雲って言うんじゃないの? 私もよく知らないけど」

 しばらくの間、川で僕たちは他愛もない雑談に花を咲かせた。こうやって人と話すのも、もうかなり長い間してなかった気がして、僕は楽しかった。

 「こんなので満足?」

 唐突に、紀子が僕に訊ねた。満足すぎるくらいだ。僕がそう返すと、

 「よかった」

 そう言って、紀子は頭上の太陽に負けないくらいの笑顔を顔に浮かべた。

 「あなたの夏のイメージに合いそうなところを探すの、けっこう大変だったんだよ」

 笑う紀子は案外可愛くて、そう考えると、麦わら帽子とか半袖のセーラー服も、あの部屋で見たときよりはよっぽど自然に見えた。

 「そろそろ時間ね、戻らなきゃ」

 紀子がそう言うので、僕は川面から離れる。

 「もっとあっちの方まで行きたいけど、無理かな」

 名残惜しさあまりに、ダメ元で紀子に尋ねてみたけど、彼女の返事はつれないものだった。

 「あんまり長くいると持たないからね」

 紀子が再び僕の腕を掴む。再びあの何もない部屋に戻らないといけないのか。

 「そこがあなたの本来の居場所だもの」

 言い終わるやいなや、視界が暗転し(そう錯覚しただけかもしれない)、気がつくと僕はいつもの部屋に戻っていた。さっきまでの場所とは違う、静かで、薄暗い部屋。頭上を照らすのは蛍光灯で、聞こえるのは換気扇の低い唸りだけだ。

 「あとの二つ、考えた?」

 僕に背を向けて窓の外を見ながら、紀子がそっけなく言う。僕の答えは決まっていた。

 「君が思う夏を見せてほしい」

 授業中に分からない問題を指名された生徒みたいに面食らった様子で戸惑っていた紀子は、しばらくの沈黙を経て

 「……分かったけど、あまり期待しないでね」

 困り笑いを浮かべながらそう答えた。

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