第2話 害虫バスター
雑居ビルの階段を上りきり、六文銭は夢食相談事務所のドアに手をかけた。
「所長、お疲れさまでー……」
「この虫め! 私が撃滅してくれる!」
「わひゃああ!」
言い終わらないうちにドアは勢いよく開かれ、六文銭はスプレーを吹き掛けられる。
とっさに曽根崎をかばうように動いていた六文銭はその直撃を受けてケホケホと咳をした。
「なんだ、六文銭クンか。紛らわしい」
「けほ、こほ、なにするんですか所長ぉ……」
「害虫駆除だよ。こういうのは徹底的にやらないといけないからね」
そう言いつつも、この相談事務所の主である夢食えにしは殺虫剤を手に周囲を警戒していた。
どうやら本当に大嫌いな虫が出たらしい。
「虫との戦争は先手必勝だからね。許してくれたまえ、六文銭クン」
「もー! 俺は大丈夫だけど、つづるちゃんが殺虫剤に負けたらどうするんですか!」
「おい」
ナチュラルに失礼なことを言う六文銭を曽根崎は睨み付ける。
今更になって曽根崎の存在に気づいたのか、えにし所長は殺虫剤を下ろして彼に歩み寄った。
「おや、仕事もないのに連れ出されているとは珍しいね」
「……虫干しだそうだ」
「虫だって!? どこだい!?」
「違いますよお、所長……」
殺気立つえにし所長に、六文銭はがっくりと肩を落とす。
「つづるちゃんがまた自殺未遂してたから見張りも兼ねて連れてきたんです」
「おやおやまたやったのかい。君も飽きないね」
下から見上げられる形になった曽根崎は、えにし所長の視線から目を逸らした。
「……死なないように努力はしてる」
「わかってるよ。いいこだね」
背伸びとともに頭を撫でられ、曽根崎の眉間にはますます深いしわが刻まれる。
「頭ではわかってるのにってやつだよね。こればっかりはどうしようもない」
そう言うえにし所長の目は、先ほどまでの暴走とは打って変わって、優しい光を湛えていた。
曽根崎の数年来の自殺衝動。
もうやってはいけないと分かってはいても、それは確かに彼の中に巣食っているのだろう。
俺、つづるちゃんのことちゃんと止められているのかなあ。
六文銭がしょんぼりとした気分になりながら二人を見ていると、えにし所長はふふんと小さく笑った。
「まあそれはそれとして、未遂をしたときはしっかりと六文銭クンのお叱りは受けなさーい!」
「いづっ」
デコピンを一発額に食らわせ、えにし所長は曽根崎から離れる。
曽根崎は叱られた子供のようにじとっとえにし所長をにらみつけた。
それを六文銭があわあわと見守っていると、えにし所長はくるっとダンスでもするかのように大袈裟に体を動かし、六文銭に向き直った。
「ところで仕事の召集はしていないはずだが、六文銭クンもどうしたんだい?」
「ええっと……」
六文銭は言いづらそうに目をそらす。えにし所長は意地悪い顔になった。
「んんー? 私に言えないようなことでもあるのかい?」
「そういうわけじゃないんですけど……改めて言うのちょっと恥ずかしくて……」
もごもごと口ごもる六文銭を傍目に、曽根崎は仕方なさそうに息を吐いた。
「こいつがお前の後を継いでグリーフケアのカウンセラーになりたいそうだ」
「つ、つづるちゃん!」
「へえ、六文銭クンが?」
えにし所長は目を丸くし、ぐるぐると六文銭の回りながら彼を観察し始めた。
「ふむふむ、君がねえ……」
「えっ、えっ?」
十分に彼を見て回った後、彼女は六文銭の正面で立ち止まり、低い位置から六文銭の目をまっすぐ覗き込んだ。
胡散臭い印象を受ける吊り目の奥に光る、どこか見定めるような色。
常ならざるその真剣な眼差しに、六文銭はうっと気圧される。
やがてえにし所長は目を細くしてぽつりと言った。
「……やめておいたほうがいいと思うけどねえ」
「え?」
うまく聞き取れず、六文銭は尋ね返したが、その時には既にえにし所長はいつものおちゃらけた調子に戻ってしまっていた。
「まあいいか。こういうのはやってみないとわからないからね。いいだろう! この私が手取り足取り腰取り相撲取り教えてあげようじゃないか!」
「す、相撲取り?」
「適当なことを言っているだけだ。気にするな」
曽根崎はぴしゃりとえにし所長のボケを切り捨てる。
一方、えにし所長は事務所の中へと軽い足取りで入っていった。
「そうと決まれば何から始めようかね。私のかっこいーい武勇伝とか聞くかい?」
「武勇伝……」
なんだか不穏な言葉のチョイスに、六文銭はえにし所長が依頼人に飛び蹴りをしているのを想像した。
割と失礼である。
「むむ、武勇伝はお気に召さないかい? まあ私のすごさを理解するにはやっぱりセラピストとしての知識がなくちゃあね」
やたらと偉そうにえにし所長は胸を張る。
曽根崎は付き合っていられないとでも言いたそうな顔で、さっさと応接室のソファに向かってしまった。
所長席の次に快適なその場所が、曽根崎の定位置なのである。
えにし所長は、ごちゃついている机の下にある、乱雑に書類やら本やらが詰め込まれた引き出しに手をかけた。
「待っていたまえ、確かこのあたりにサルでも分かるグリーフケアの教本が……」
その時、ピンポーンと入口のベルが鳴る音がした。
えにし所長は素早く殺虫剤を持ち、ドアに向かって身構える。
「虫かい!?」
まるで威嚇する小動物のようなちょっと間抜けな動きに、六文銭は仕方なさそうに笑った。
「お客さんですよ多分……。俺、出てきますね」
ドアベルを鳴らす虫なんていないと思うけどなあ、と思いながら六文銭は客人を迎え入れるべく入口の扉を開く。
はたしてそこにいたのは、六文銭のよく見知った顔であった。
「あれ、猫屋敷さん。いらっしゃいませ?」
スーツ姿の刑事、猫屋敷は六文銭と目が合うと、穏やかな笑みを向けてきた。
「こんにちは六文銭くん。先日は本当に大変だったね」
「あ……俺こそ捜査の邪魔しちゃってすみません……」
「いや、君たちのおかげで捜査が進展した部分もあるからね。だけど、ああいう暴走は控えてくれると嬉しいかな」
「うぐ……以後気をつけます……」
六文銭はしょも……と肩を落とす。
猫屋敷は苦笑した。
「うーん、君にしょんぼりされると叱りづらいな」
「えっ」
「こう言うと失礼かもしれないが、君を見ていると実家の犬を思い出すんだよ。ゴールデンレトリバーのコッペっていうんだけど」
「へえ! 可愛い名前ですね!」
「悪戯っ子だけど可愛くてね。あ、写真見るかい?」
「わあ見たいです!」
猫屋敷は嬉しそうな顔でケータイを取り出し、待ち受けの犬の写真を見せた。
おもちゃのボールをくわえてこちらに近づいてくる大型犬の写真だ。
「ふふ、すっごく嬉しそうな顔してますねえ」
「そうだろうそうだろう。すごく感情が顔に出る子でね……」
ドアを塞ぐような形でわちゃわちゃし始めた二人に、警戒した足取りでえにし所長が近づいてくる。
「何やっているんだいほらほら早く入りたまえ! 虫がどこにいるかわかったものじゃないよ!」
折りたたみケータイを覗き込んでいた二人を蹴るようにして引きずり込み、えにし所長はドアを閉めて大きく息を吐く。
「まったく君たちには危機感というものが足りないよ!」
「虫なんかで大袈裟な……」
殺気立つえにし所長をなんとか宥め、六文銭は猫屋敷に向き直る。
「ところで今日はどうしたんですか? スーツってことは非番じゃないですよね……?」
なんとなくトラブルの予感がして、六文銭は恐る恐る尋ねる。
猫屋敷は犬の写真を見せていたケータイを閉じると、こほんと咳払いをした。
「実は……夢食さんに、とある事件の被害者の遺族へのグリーフケアをお願いしたいんです」
「ほーう?」
どこか胡散臭いえにし所長の相槌とともに、三人は応接室へと向かっていく。
応接室のドアを開けると、読書をしていた曽根崎が迷惑そうな目で睨んできた。
「ほら猫屋敷クン座りたまえよ。六文銭クンはお茶をお持ちっ!」
自分専用の場所でもないのに嫌そうな顔をする曽根崎をソファの隅に追いやり、えにし所長はぼすっとソファに腰かける。
そんなやりとりに苦笑しながら、猫屋敷もその向かい側に座った。
やがて六文銭が運んできたお茶をぐいっと飲み干し、えにし所長は尋ねる。
「さて、どんな事件か聞こうじゃないか」
ふんぞりかえるえにし所長に、猫屋敷は神妙な顔で切り出した。
「警察では、今回のヤマを仮に『骨抜き事件』と呼んでいます」
「骨抜き?」
「はい。……かなりショッキングな内容なので、彼らには退席してもらったほうがいいかと思うのですが……」
「はっはっは! お気遣い無用だよ! この六文銭クンは恐れ多くもこの私の後を継いでセラピストになることを志していてね!」
「へえ、六文銭くんが」
感心する目を向けられ、ソファの後ろに立つ六文銭は照れた様子で苦笑いする。
「あはは……まあ一応……」
「目標があるのはいいことだよ。頑張ってね」
「まだ決めたわけじゃないんですが……なんとなくというか……」
ふにゃふにゃ笑いながら六文銭は頰を掻く。
えにし所長はちらりとそれを見た後、猫屋敷に向き直った。
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