第30話 置いてかないよ

 通気性の悪い部屋はあっという間に煙が充満する。


 服の裾を口に当てながら曽根崎は走り、なんとか部屋の外へと転がり出た。


 ごほごほとせき込みながら部屋から距離を取る。


 何かの薬品に引火したのだろう。


 数秒後、激しい炎が部屋のドアから噴き出してきた。


 曽根崎は茫然とそれを眺めた後、足元の板にも炎が迫っていることに気づき、出口へと走り始めた。


 来た時の狭い道はまずい。確実に煙にまかれてしまう。


 ここは天然の洞窟を改造したものだと金嶺は言っていた。


 ならばどこかにほかの出口があるはず。


 必死に足を動かす。息が上がる。


 六文銭に甘えきって、『生』から遠ざかり続けた体はたった数十秒走っただけで悲鳴を上げる。


 足をもつれさせ、壁に手をつき、なんとか再び走り出す。


 背後に熱が迫っている。


 どこで引っかけたのか、いつの間にかほどけていた髪が鬱陶しい。


 走り続ける。


 五分か、十分か、あるいはほんのわずかな間か。


 息が苦しい。なんとか呼吸をする。


 せっかく決別すると決めたんだ。


 一人で生きていくと、決めたんだ。


 角を曲がる。


 段差につまずく。


 派手に転倒する。


 咳き込みながら顔を上げる。


 そして、体を起こして背後を確認し――曽根崎は目を見開いた。


 『死』だ。


 『死』が火の海となって、一面に広がっている。


 決意で覆い隠したはずの罪悪感が、己への殺意となって体を縛り付ける。


 このままでは死ぬ。


 『死』に、引きずり込まれる。


 それもいいのかもしれない。自殺未遂を繰り返した己がこれ以上を望むなんて。


 違う。死にたいわけじゃない。生きているのが怖いだけなんだ。


 違う。死んでしまいたい。消えてしまいたい。


 違う。会いたいだけなんだ。『におい』から逃げたいだけなんだ。


 違う。現実を見なければいけないんだ。もう俺は、俺は。


 思考がぐるぐるとめぐり、そうしているうちにも『死』は着実に迫ってくる。


 呼吸が浅くなり、瞬きをする。


 目を開く。


 その時、曽根崎は炎の向こうに人影を見た。


「……村正」


 記憶の中の少年が立っている。


 手を伸ばせば届く位置にいる。


 曽根崎は呼吸をするのも忘れて少年を見る。


 今なら彼の手を掴める。


 今なら彼とともにいける。


 今、手を伸ばせば。


 自然と腕が持ち上がる。


 『村正』に伸ばした指先が、炎になめられる。


 曽根崎の顔が笑みの形に歪み、そして――


「……つづるちゃん!」


 聞き慣れた声。


 後ろから抱き込まれる体。


 きょとんとした顔で曽根崎が振り返ると、曽根崎が見つめていた先を六文銭がきつくにらみつけていた。


「お前なんかに、つづるちゃんはあげないんだからあ!」


 曽根崎はぽかんと大きく口を開ける。


 六文銭は、威嚇をするかのようにふーっふーっと息を荒げている。


 そんな彼の顔を見上げながら、曽根崎は小さく口を動かす。


「……なんで」


「行くよ、つづるちゃん!」


 返事も聞かず、六文銭は曽根崎を立ち上がらせると、彼の手を引いて走り出した。


 転びそうになりながら地面を蹴る。火の手を避けてさらに奥へ進んでいく。


 乱暴に掴まれた手は、痛いほどきつく握りしめられている。


 ぜえぜえとなんとか息をしながら、曽根崎は六文銭に尋ねた。


「お前っ、出口は、わかってるのかっ」


 返事は数秒の沈黙だった。


 聞こえなかったのかと思い、曽根崎はもう一度声をかけようと口を開く。


 それを遮るように、六文銭は叫んだ。


「わかんないよ!」


 見事な開き直りだった。


 立ち止まり、ごほごほと咳をした後に、曽根崎は六文銭をにらみつける。


「はあ!?」


 六文銭はびゃっと縮こまり、すぐに大声で答えた。


「だ、だって! 池之平さんが死んでたところの近くにこの洞窟があって! 入り口につづるちゃんの髪ひもが落ちてたからあ!」


 ほとんど泣きそうになりながら六文銭は叫ぶ。


「思わず入ってきちゃったんだよお!」


 曽根崎は頭痛をこらえるように眉間に手を当てると、六文銭をにらみつけた。


「この馬鹿! ちょっとは頭を使って動け!」


「うううー……」


 情けない声を出しながら縮こまる六文銭。


 そんなやりとりをしていると、不思議と気分が軽くなっていく。


 『死』から遠ざかっている。六文銭のおかげで。


 自分一人の力で戻ってきたわけではないことに複雑な思いを抱きながら、曽根崎は考え始める。


 自分がここで死ぬのはいい。だが、六文銭はだめだ。このお人好しな馬鹿をここで死なせるわけにはいかない。


 そもそも髪ひもが落ちていたからといって、迷うことを恐れずに洞窟に入ってくるこいつの神経が――


「待て」


 ふと気づき、曽根崎は声をかける。


「髪ひもが落ちていたと言ったな」


「え、うん。ほらこれ、俺がいつもつづるちゃんに結んでるやつでしょ?」


 ポケットから取り出されたそれは、六文銭の言うとおり、自分の髪ひものようだった。


 しかし妙だ。自分がこの場所に入ってきたのは、屋敷の地下からのはず。


 それなのに、どうしてほかの入り口に俺の髪ひもが?


 曽根崎はしっとりと濡れた髪ひもをにらみつけ、それから木にひっかかっていた池之平の死体を思い出した。


 もしかして。いや、ありえなくもない、か?


「つづるちゃん?」


 不思議そうな顔で名前を呼んでくる六文銭に、曽根崎は洞窟の壁に目を滑らせる。


「これは仮説だが……俺の落とした髪ひもがどこかの水流に乗って外に流されていったんじゃないか」


「え?」


「池之平の死体もおそらくそうだ。なりゆきから考えるにあいつはこの洞窟で殺されたはず。それが流された結果、妙なところに出て、木にひっかかったんだ」


 六文銭はちょっと考えた後、結論にたどり着いた。


「つまり、水のある場所を探せば外に出ることができるかもってこと?」


 曽根崎は神妙な顔でうなずく。


 見上げると、頭上に小さな亀裂がいくつかあり、そこから日の光が差し込んでいる。


 あれのおかげで明かりには困らないが、あんな高い場所に生身で上れるとは思えないし、そもそも亀裂が小さすぎる。


 ……だが、亀裂から光が差し込んでいるということは、地表が近いということだ。


「行くぞ、六文銭」


「うん!」


 元気よく返事をした六文銭に複雑な視線を向けながら、曽根崎は前へと進み始める。


 なんとかして、こいつだけでも脱出させなければ。


 曽根崎の推測通り、洞窟にはあちらこちらに小さな水流があるようだった。


 だが、なかなか大きな流れになっている場所にはたどり着かない。


 二人の足音と吐息以外には、水滴がしたたる音しか聞こえない洞窟の中。


 それでもわずかな水の痕跡をたどって二人は歩いていき、やがてとある場所で立ち止まった。


「池だ……」


 ぽつりと六文銭はつぶやく。


 二人の前にひろがっているのは、かなりの大きさがある池だった。


 その水面は動いているようではあったが、外に出る出口は見当たらない。


「これじゃ外に出られないね……」


「他を当たるぞ」


 曽根崎がきびすを返しかけたそのとき、六文銭は「あっ」と素っ頓狂な声を上げた。


「つづるちゃん、あれ!」


 言いながら奥にある壁へと六文銭はかけよっていく。


 そこにあった岩には隙間があり、そこから光が差し込んでいるようだった。


 たとえ子供であっても通り抜けられなさそうな大きさの裂け目であったが、向こう側を覗くには事足りる。


 六文銭は先にそこを覗きこみ、慌てて曽根崎の手を引いて彼にも向こう側を覗かせた。


 あちら側に広がっていたのは、出口らしき強い光と、こちら側と同じく水をたたえた池だった。


「……向こう側にも池がある?」


「きっと下でつながってるんだよ!」


 熱を持った口ぶりで六文銭は主張する。


「つづるちゃん! もぐってここから逃げよう!」


 元気を取り戻した六文銭はそうやって提案する。


 ほかに出口が見つからない以上、ここに賭けてみる価値はありそうだ。


 しかし、曽根崎はしぶい顔になった。


「どうしたの、つづるちゃん? 早く――」


「六文銭。お前一人で逃げろ」


「……え?」


 目をぱちくりさせながら、呆然と六文銭は聞き直す。


 曽根崎はそんな六文銭の顔をしっかりと見た。


「俺は泳げない。お前一人なら外に出られるかもしれないが、俺を連れていけば助かる可能性は低くなる」


「つづるちゃ……」


「向こう側とつながっているとしたら、このあたりだろう。よく見れば水流が早い。一人でも溺れるかもしれないんだ」


「でも……!」


「お前一人で逃げるんだ。俺を置いていけ」


 心からの言葉を六文銭に伝える。


「こんな俺から離れてまともに生きろ。今までのこと、すまなかった」


 六文銭は目を見開いたまま立ち尽くしている。


 本当に今更で、しかもこんな形になってしまったが、まっすぐに言葉にできただけよかった。


 自分はどうしようもなく偏屈で、伝えたいことはまともに伝えられずに、拒絶も、受け入れることも、できはしない。


 それでもここまで世話を焼いてくれた六文銭に無事に帰ってほしいのだ。


 六文銭は唇を震わせて俺を見た後、顔をぐしゃぐしゃにゆがめて叫んだ。


「嫌だ!!」


 悲痛な声が洞窟に響き渡る。


 ぐわんぐわんと反響したその声が消えたころ、曽根崎は子供を諭すように口を開いた。


「よく考えろ。一人なら助かるかもしれないんだ。共倒れになってどうする」


「嫌だ! 嫌だよ! つづるちゃんを置いてけぼりにするぐらいなら、俺もこっちに残る!」


 まるで駄々っ子のように六文銭は拒絶する。


 曽根崎は眉間にしわを寄せた。


「なぜだ。まさかまだ罪悪感があるんじゃないだろうな」


 六文銭は言い返さず、泣きそうにぐーっと顔をしかめる。


 曽根崎は多少のいらだちを込めて、分からず屋に向かって叫んだ。


「これ以上俺なんか気にするな! それは同情だ!」


「そうだよ!」


 大声で肯定され、きょとんと曽根崎は動きを止める。


 ぼろっと大粒の涙が、六文銭の目からこぼれた。


「同情だけど、そうなんだけど! それでも俺はつづるちゃんと一緒にいたいんだよ!」


 六文銭はしゃくり上げながら、曽根崎に向かって全力で叫んだ。



「だって俺は、つづるちゃんのことが大好きだからあ!!」



 六文銭の叫びが洞窟中に反響する。


 ガンッと叩きつけられた感情の奔流に、曽根崎は目を見開いて停止した。


 単純で、まっすぐで、誤解のしようもない。


 これでは、どんなにひねくれた俺でも理解できてしまう。受け取るしかなくなってしまう。


 乾いた笑いが漏れた。


 なんだそれは。これじゃあまるで愛の告白だぞ。


 困惑が徐々に咀嚼され、不思議と諦めの気持ちがしなしなと体の奥にしみこんでくる。


「お前は馬鹿だ」


「馬鹿でいいよ」


「ただのお荷物だぞ俺は」


「それでも一緒にいたいんだよ」


 迷わず六文銭は答える。


 そして、肩を落としている曽根崎に手を差し出した。


「一緒に生きてみようよ、つづるちゃん」


 曽根崎はその手を見つめ、六文銭の顔を見た。


 やはりあの『におい』がする。でも――


「これからもきっと自殺未遂をするぞ」


「じゃあその度に俺が助けるねえ」


 へにゃりと笑ったその間抜け顔に妙な敗北感を覚えながら、曽根崎はようやく六文銭の手に触れた。


「絶対に置いてかないよ、つづるちゃん」


 六文銭は力強くそれを握り返し、池へと向き直る。


「行くよ」


「……ああ」


 二人は顔を見合わせてタイミングを合わせると、同時に池の中へと飛び込んだ。


 池は思った以上に深く、曽根崎は一瞬パニックを起こして体を暴れさせてしまう。


 そんな曽根崎の手を六文銭は離さなかった。


 彼の体をしっかりと抱き寄せ、水流に乗って出口があるはずの場所へと泳いでいく。


 酸素不足で遠ざかっていく意識の中。ごぽりと息を吐き出した瞬間、曽根崎の前には見たことのある景色が広がっていた。


 鮮やかにきらめく山。


 揺れる木々。


 その中に立っている、かつての友人。


 記憶通り、明るく笑っている。


 思わず彼に手を伸ばしかけ――後ろでしっかりと自分を捕まえている存在を思い出して動きを止める。


 曽根崎は小さく笑った。


 きっとすぐには変われないのだろう。


 これからも俺は、何度だってここに来る。


 でも、今は。今だけは。


 曽根崎は彼を見て、穏やかに目を細めた。


「またな、村正」


 しっかりと掴まれているもう片側の手を強く意識し、そちらにしがみつく。


 最後に見た『村正』は、気のせいか優しく微笑んでいたように見えた。






 急にまばゆい光が目の前に広がり、曽根崎はげほごほと水を吐き出して息をする。


 隣では、こちらの手をつかんだままの六文銭が、同じく苦しそうに咳をしていた。


 ぐったりしながら頭を傾けると、どうやら自分たちはどこかの洞窟に溜まった水の岸辺に倒れ込んでいるようだった。


 左手をぐっと握りしめられ、曽根崎はそちらに目を向ける。


 六文銭はいつも通りへにゃりと笑っていた。


「生きてるねえ、つづるちゃん」


「ああ」


 曽根崎は六文銭の顔を見て、小さく微笑んだ。

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