第28話 地下室に彼女は眠る

 降りしきる雨の日。


 欄干から離れた曽根崎の体は、宙に投げ出され、濁流めがけて落下を始めた。


 水面まではあと数メートル。数秒にも満たない落下時間。


 さかさまになる景色をぼんやりと眺めながら、最後のまばたきをしたその瞬間、曽根崎の目の前に見覚えのある景色が広がった。


 風でざわざわと揺れる木々。まぶしいほどの夏の陽光。


 濡れた土と水のにおい。小さな足跡。


 知っている。懐かしい。ここは。


 ――つづるちゃん!


 いつの間にか目の前に、一人の幼い少年がいた。


 記憶の中の笑顔で、記憶の中の姿で、こちらに手を差し伸べている。


 曽根崎は顔を歪めた。


「……なんだお前、こんなところにいたんだな」


 彼はそのまま泣きそうな笑顔でその手を取ろうとし――その瞬間、誰かが曽根崎の手を無理やり掴み取った。


 穏やかな空間から痛みの中に引き戻され、曽根崎は胸にたまった苦しさに悶える。


「げほ、ごはっ、ぐ……」


 何度もえずいて水を吐き出し、薄く目を開く。


 雨粒を落とし続ける暗い空が目に入った。


 生きている? なんで?


 誰かが自分にしがみついている。


 視線を動かす。


 びしょぬれになった六文銭だ。


「どうして……」


 か細い声でそれだけを問う。


 六文銭は濁った水のせいでひどいありさまになった顔を、涙でさらにぐちゃぐちゃにしながら自分に抱き着いてきた。


「えにしさんがっ、つづるちゃんが多分っ、橋に向かったって教えてくれてっ……!」


 痛いほど抱きしめられ、もう一度呼吸が止まりそうになる。


 それを言おうとしても喉がうまく動かない。


「俺になら引き戻せるってっ、そう言うからあ……!」


 ……そういうことを聞いているんじゃないんだがなあ。


 そんな場合ではないのになんだかあきれが先にきてしまう。


 ぼんやりした思考でされるがままになっていると、六文銭はほとんど縋るような勢いで、さらにきつくこちらを抱きしめてきた。


「おっ、俺を、置いてかないでよお……!」


 そう言って、六文銭は泣きじゃくる。


 曽根崎は少しの間ほうけた後、恐る恐る彼の腕に手を添えた。


 そっと爪を立てて縋り返した彼からは、やっぱりほのかな『死のにおい』がした。







 六文銭を置き去りにして屋敷に戻った曽根崎を迎えたのは、朝食を並べ終わった金嶺だった。


「あれ、おひとりですか? お連れの方は?」



 ぶっきらぼうに答える曽根崎に苦笑しながら、金嶺は来客用の椅子を示す。


「先に朝食にしてしまいましょう。大したものがなくて申し訳ありませんが」


 そう言って自分も席につこうとした金嶺だったが、曽根崎がその場を動こうとしないことに気づいて立ち止まった。


「曽根崎くん?」


 不思議そうに金嶺は尋ねる。


 曽根崎はそんな彼をじっと見た後、ふと彼の手元に視線を向けた。


「いや、いいデザインの婚約指輪だと思ってな」


 曽根崎が見ているのは、金嶺が左の薬指に嵌めている銀色の指輪だった。


 突然の話題に驚きながらも、金嶺は嬉しそうに破顔する。


「そうですか? ありがとうございます」


「女物だろう、それは」


 遮るように曽根崎は言う。


 二人の間の空気が剣呑なものになっていく。


「それがどうかしましたか?」


 あくまでその雰囲気に気づいていないふりをして、金嶺は穏やかに尋ねる。


 曽根崎は『眠り姫』の写真を取り出した。


「それはお前の妻のものだ」


 持ち上げられた曽根崎の指先が『眠り姫』の手元を指す。


「この『眠り姫』が、指にしている指輪だ」


 金嶺は動きを止める。曽根崎はそんな彼をにらみつける。


 刺すような沈黙。


 ぶつかる視線。


 呼吸音。


 先に表情を変えたのは金嶺だった。


 それまでの丁寧で控えめな雰囲気は掻き消え、その目には尋常ならざる感情の光が宿る。


 化けの皮がはがれたか。


 内心毒づく曽根崎に、金嶺はにこりとほほ笑みかけた。


「ついておいで、曽根崎くん。僕の妻を紹介するよ」






 屋敷の中の一室にその隠し扉はあった。


 偽装された床を開き、姿を現した階段を曽根崎たちは下っていく。


 金嶺の手には火のついたランタンがあり、照明のない階段ではそれだけが光源だった。


 階段をたっぷり三階分ほど下った場所。


 突き当たりに存在していた木製の扉を開くと、その先に広がっていたのは天然の洞窟だった。


「こんな辺鄙なところに別荘がある理由がこれでね。祖父はこの地下室を作るためにここに家を建てたのさ」


 自慢げにそう言う金嶺の後ろを曽根崎は無言でついていく。


 洞窟は足元と壁が木の板によって補強されており、歩くたびにそれは音を立てて揺れた。


 金嶺の声が反響しているということは、かなりの広さがあるな。


 天井からしずくが落ちるのを聞きながら、曽根崎は慎重に視線を巡らせながら歩いて行く。


 金嶺は迷いのない足取りで洞窟を進み、やがて小さな鉄の扉の前で立ち止まった。


 近くの壁にかけられた古めかしい鍵で扉を開き、その内側へと曽根崎を招き入れる。


 低い気温。よどんだ空気。


 放置されている鎖を何本もまたぎ、鉄格子に仕切られたさらに向こう。


 たどりついたのは異様な雰囲気が漂う小部屋だった。


 大きな宝石が輝く指輪。揺らめくランタンの光を反射するネックレス。液体の残ったフラスコ。艶やかな珠がふんだんにあしらわれた髪留め。使い終わって転がる無数の注射器。薬品の棚。


 机の上に並べられた実験器具と、豪華絢爛な装飾品の数々。


 悪趣味な研究室のようでもあり、甘やかされた姫の部屋のようでもある。


 先ほど見た鉄格子を思うに、その姫に自由はなかったようだが。


 そんな部屋の壁際に、何かが腰掛けている。


 金嶺が近づいても、同じ姿勢のまま動かない人型の何か。


 ……蝋人形だ。


「僕の妻だよ。美しいだろう?」


 自慢の家族を紹介するような自然さで、金嶺は彼女を示す。


「まだ話すことはできないのだけど、人を呪うぐらいだもんね。きっとそのうち話せるようになるさ」


 蝋人形の顔立ちは『眠り姫』のものと一致していた。


 間違いない。この蝋人形が、呪いの写真の被写体だ。


 だが同時にこれが自殺した死体だということもはっきりしている。


 間違えようがない。彼女からは自殺体の放つ『死のにおい』がする。


「そうしたら次は微笑みかけてもらうんだ。一緒に歩いて、一緒に喋って、僕たちは添い遂げるんだよ」


 恍惚とした顔で一人で盛り上がる金嶺に、曽根崎はふっと笑った。


「偶然もここまで来るとお笑い草だな」


「……は?」


 虚を突かれた金嶺は話を止める。


 曽根崎は部屋を見まわした。


「ここは寒いな。じめじめしていて、換気もできていない。あれを作るのにまさに適切だ」


 金嶺の祖父が最初からそのつもりだったのかはわからないが、もしそうならこの軽井沢の気候を知ってここを選んだのだろう。


「何が言いたい」


 唸るように言う金嶺に、曽根崎は冷たい視線を向けた。


「低温多湿な環境下において適切な処置を施すことにより、タンパク質がに置き換わった朽ちないミイラ」


 自身も偶発的に知った情報を曽根崎は羅列する。


「オカルト。エンバーミング。希望の手。聖なる奇跡。最も美しい永久死体」


 曽根崎は指を持ち上げ、すっと彼女を指さした。


「――その女は、『屍蝋』だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る