第26話 ごめんな。

 日は落ち、雨はますますひどくなっていった。


 濡れた髪を顔に張り付かせながら、一年前に死体が捨てられたあの橋へと――竜野副部長が自殺したあの橋へと、曽根崎はたどり着く。


 足元に流れる川は雨によって増水し、ごうごうと濁流が荒れ狂っている。


 橋を半ばまで渡ると、そこには先客がいた。


 黒い傘を差して、泥色の川を眺めているようだ。


 曽根崎は少し離れた場所で立ち止まると、その人影に声をかけた。


「越塚部長」


 人影は――曽根崎の先輩である越塚は、感情の抜け落ちた顔でゆっくりと振り返る。


 そして曽根崎を視界に入れて、少しだけ目を見開いた。


 何故、と小さく唇が動く。


 曽根崎は彼を見据えたまま、目を薄く細めた。


「あんたも俺も、『死』に引きずられたんだ」


 抽象的な言葉だ。


 それでも越塚にはこれで通じるという確信があった。


「あんたは引きずられて、彷徨って、どうしようもなくなってここに来た。再び『死』に触れて、どこに向かえばいいのかを知ろうとした」


 『死』から逃れるために、『死』へと近づいてしまっている。


 副部長の『死』から逃れるために、彼女の死に場所へと近づいてしまった。


 自分もまた『死』に引きずられている今の曽根崎には、その気持ちがわかってしまっていた。


 越塚は表情を消し、「そうか」とだけ答えた。


 雨脚は弱まることはなく、風も吹き始める。


 たまに通り過ぎる車のヘッドライトが、曽根崎たちを舐めるように照らした。


「……何のためにここに?」


 ぽつりと越塚が問う。


 曽根崎は荒れ狂う川へと目を向けた。


「答え合わせをしに来た」


 その言葉を聞いて、ようやく越塚は人間らしい表情を見せた。


「答え合わせ? この事件の推理でもするつもりか?」


 嘲るように頬を歪める彼に、ふっと曽根崎も笑う。


「推理だなんて高尚なものじゃない。ただの可能性の羅列だ」


「へえ、なんの可能性だよ」


 ひきつったような笑顔のまま、越塚は川に向き直って欄干にもたれかかる。


 曽根崎はやけに凪いだ気分のまま、己が至った可能性を口に出した。


「越塚部長。あんたが竜野副部長の腕を切った犯人だ」


 返事はすぐに返ってこなかった。


 車がまた通り過ぎる。


 雨音と濁流の音しか聞こえない空間で、曽根崎はただ黙って立っていた。


「どうしてそう思ったんだ?」


 問い返してきた越塚の声は落ち着いていた。


 曽根崎はゆっくり一度まばたきをした。


「オカルトだ。あんたの机の上に置いてあったものは、大体軽く目を通してある。……もっとも、見ただけで記憶する気がなかったから気づくのが遅れたがな」


 ホラーものばかりが置かれた彼の机。


 呪い。魔法。黒魔術。


 墓から蘇るもの。生きた死体。腐らないもの。


 偽りの奇跡。民間信仰。呪物事典。


 雑然とした知識の中から、曽根崎は対象の一つを引っぱり出す。


「……『栄光の手』だろう」


 マニアックな雑誌にだけ載っていた黒魔術の記事だ。


 近代の降霊会にこのグロテスクな呪物が用いられたと書いてあった。


「本物の人間の腕を使って作られる、願いを叶えるマジックアイテム。適切な処置を施すことによって、そのタンパク質を蝋へと変えた特殊なミイラ。学校で発見されたあの腕は『栄光の手』だった。あんただけはそれに気づいていた」


 あの日の反応はそういうことだったのだろう。


 もっとも、あの瞬間は越塚自身もこんなことになるなんて思いもよらなかっただろうが。


「一年前の犯人がなぜ『栄光の手』を作ろうと思ったのかは知らん。今の俺たちには関係ない。肝心なのは、あの事件によってあんたが『栄光の手』というものを意識するようになったということだけだ」


 そうだ。意識してしまった。


 何かあったとき、咄嗟に思いつけるようになってしまったのだ。


「その直後、竜野副部長が自殺した」


 背を向ける越塚の体が一瞬震える。


「目の前で自殺したのか、それとも単なる第一発見者だったのかは聞かないでおくよ」


 どんな事情があったのかは知らない。


 そして、そこを暴く気も全くない。


 自分はそんなことをしたくてここに来たわけではないのだから。


「彼女の死体を目の前にしたあんたはそう――。他の言い方をすれば、錯乱して正気を失ったとも言えるかもな」


 曽根崎は責めることも同情を口にすることもせず、ただ確認するために淡々と指摘した。


「だから彼女の腕を切ったんだろう。衝動的に、『栄光の手』を作るために」


 その言葉を最後に、曽根崎は口をつぐむ。


 二人の間に沈黙が満ちる。


 否定の言葉はなかった。


 言い訳すらない。


 ……それが答えのようなものだった。


 長い長い沈黙のあと、越塚はゆっくりと顔を上げた。


「それを俺に言って、どうしようっていうんだ」


「同じ部活のよしみだからな。忠告、ってやつをすべきかと思ったんだよ」


 もっともその忠告は自分こそが聞くべきものだろうが。


 内心自嘲しながらも、曽根崎は越塚に強い視線を向けた。


「諦めろ越塚部長。呪いはない。奇跡は起こらない」


 ゆっくりと、自分に言い聞かせるように曽根崎は続ける。


「失ったものは、きっと帰ってこない」


 己の中の傷がさらに抉れる音がした気がした。


 でも、今この時に向き合っておかなければ、きっと取り返しがつかないことになる。


 曽根崎は苦しさを飲み下し、言葉を発した。


「俺たちは、『死』に引きずられているだけだ」


 一瞬の沈黙。


 その直後に曽根崎は胸倉をつかまれて、地面に押し倒されていた。


「お前にっ、何がわかるっ!」


 怒り狂った越塚が自分に馬乗りになっている。


 アスファルトに勢いよくぶつけた背中と頭が痛い。


 視界がぐらぐらと揺れる。


「あいつを取り戻したいと思ってなにが悪い! 取り戻して、いつもみたいにっ、ただ憎まれ口をたたき合いたいだけなのにっ! 気持ちが伝わるなんて高望みしないのに、なんで竜野ちゃんは帰ってこないんだよ!」


 越塚が何か叫びながら唾を飛ばしてくる。


 体に力が入らない。動けない。


 ただぼんやりと彼の顔を見上げる。


 胸倉を掴んでいた越塚の手が、衝動的に曽根崎の首へとかけられる。


「おっ、お前の腕を使えばっ、もう一回『栄光の手』を作ればっ」


 指に力が籠められる。


 動脈が圧迫され、顔に熱いようなしびれるような感覚が広がる。


 同時に気道にも指は食い込み、うまく息が吸えなくなって曽根崎は断続的にうめき声のようなものを喉の奥から発した。


 しびれが広がる。


 なかなか意識は飛ばない。


 ただ、苦しみが長続きするだけの時間。


 首を絞められて死ぬのはこんな感覚なのか。


 この橋で尋ねられたあの時、あいつに言わなくてよかった。


 六文銭。これは、本当にひどいものだぞ。


 圧迫に抵抗するような呼吸もできなくなり、ようやく意識を手放せる感覚がしてきたその時、遥か遠くから聞き覚えのある声がした気がした。


「つ、つづるちゃんを放せえええーーーーー!!」


 伸し掛かっていた越崎が、勢いよく誰かに突き飛ばされる。


 絞められていた首が解放され、急に血流が脳に流れ込む。


 潰されていた喉も正常に開かれて、曽根崎は体を丸めて必死に息をした。


「うえっ、げほ、かはっ……」


 生理的な涙で歪む視界に、越崎と取っ組み合って押さえ込もうとしている六文銭の姿が映る。


 あの頃とは違う顔で。


 あの頃とは違う体で。


 ……違う存在だ。


 やっぱり、違う。


 彼はアイツではない。


 なんで俺は認められないんだ。


 覚えていてほしかった。


 許されたかった。


 仕方ない。


 俺のせいだ。


 仕方ない。


 仕方ないんだ。


 違う。違う。


 目を閉じられない。


 直視する。


 あの『死のにおい』がする。


 どうして。


 昔の村正からあんな『におい』はしなかった。


 俺の知る村正はああじゃなかった。


 ああ、だめだ。


 剥がれている。


 乖離している。


 あれはやっぱり『村正』じゃない。


 『村正』はここにいない。


 じゃあ、俺の知ってる『村正』は、一体どこに行って――


「…………あ」


 突然、答えが降ってきた。


 そうか。この『におい』。


 どうして六文銭から『死のにおい』がするのか。


 生きていないからだ。『村正』はもうからだ。




 村正、お前はあの時死んだんだな。


 俺が、殺したんだな。




 ぐらり、と。


 地面に開いた大穴に体が吸い込まれるような感覚。


 そこからあふれてきた恐ろしいものに、体を絡め取られる感覚。


 傾いてはいけないものが、致命的に傾いてしまった気がした。




 ゆらりと立ち上がる。


 すぐそこには濁流がある。


 吸い込まれるように欄干の上に上る。


 ……魔が差したってこういうことを言うんだろうな。


 衝動的に動く体をよそに、頭のどこかが冷静に言っている。


 見下ろす。


 濁流が見える。


 『死』が、自分を吸い込もうとしている。


 振り返る。


 越塚を押さえ込む六文銭が目を見開いている。


 曽根崎はふっとほほ笑んだ。


「ごめんな、村正」


 体が傾く。欄干から足が離れる。


 悲鳴のように自分を呼ぶ声が、遠くで聞こえた。

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