第五章 答え合わせ

第25話 お前はアイツじゃない

 お前は本当に六文銭村正なのか。


 突拍子もないその問いに、六文銭はすぐには答えなかった。


 ぽつ、ぽつ、と雨粒が二人の間の道路を濡らしていく。


 曽根崎は混乱と恐怖で顔を歪める。


 否定してくれ。馬鹿馬鹿しいと言ってくれ。


 記憶違いのただの偶然なのだと、笑い飛ばしてくれ。


 しかしその視線を受けて、六文銭は――照れ臭そうにへにゃりと笑った。


「つづるちゃん俺さ、実は昔大きな事故にあってね、それより前のこと覚えてないんだよね」


 曽根崎は、自分の時が止まったかのような感覚に陥った。


 今、こいつは何と言った。


 覚えていない。大きな事故。まさか、それは。


「でもつづるちゃんってその前から友達なんだよね? だから、もう一回友達になれればいいなーって、それでずっと追いかけてたんだあ」


 能天気な声で六文銭は言う。


 まるで水の膜を通したかのように、彼の言っていることがひどく遠く感じる。


 彼の顔を直視してしまう。目をそらせない。


 ……『におい』がする。『死のにおい』だ。どうしてこいつからこの『におい』が。


 呼吸が浅くなっていく。『におい』が濃くなっていく。視界がぐらつく。


 覚えていない。記憶がない。


 たったそれだけの事実が、曽根崎の全身をうちのめす。


 『死』に触れたせいで不安定になっていた足下が、さらにぐらついて体がよろめく。


 ひび割れた地面からにじみ出た恐ろしいものが、こちらを捕まえようと這い回っている、気がする。


「事故……」


「うん。なんか、崖から落ちたんだって。覚えてないから実感はないんだけどさ」


 あははーと六文銭は苦笑いする。


 事故。転落して。目の前で。


 掴めなかった。捕まえられなかった。


 指が触れたあの瞬間、ちゃんと手を掴むことができていれば。


 置いていかないでと言われたあの瞬間、立ち止まって振り返ってさえいれば。


 あんな危険な場所に、誘いさえしなければ。


 罪悪感と後悔が恐怖とないまぜになって、曽根崎はうまく息が吸えなくなる。


「つづるちゃん?」


 不審に思った六文銭がこちらに歩み寄ってくる。


 あの頃と変わらないお人好しな顔でこちらに手を伸ばしてくる。


 手を。掴むことができなかった、あの手を。


 覚えていないくせに。アイツとは違うくせに。


 過去の『村正』と目の前の『六文銭』が音を立てて引き剥がされていき、曽根崎はひきつったように息をする。


 手がさらに近づき、目の前に迫り、彼が自分に触れようとしたその瞬間――曽根崎は六文銭の手を振り払っていた。


「お前はアイツじゃない!」


 パシッと軽い音がして、手は弾かれる。


 六文銭はびっくりした顔でこちらを見ている。


 曽根崎は、この場にもう一秒もいられなくなって、彼に背を向けて逃げ出した。






 どれだけ走ったのかはわからない。


 それほど運動が得意ではないこの足では、きっと大した距離は走っていないのだろう。


 だけど、六文銭は追いかけてこなかった。


 逃げ出す直前に見た彼の顔には、困惑ばかりがあった。


 当然だ。アイツには事故より前の記憶がなくて、俺のことなんて覚えていなくて、事故が俺のせいだということすら知らないのだから。


 息を切らせて立ち止まる。


 ちょうど左手にあったフェンスに掴まって、腰を折って、ぜえぜえと息をする。


 ぽつぽつとした雨粒は、徐々に小雨となって曽根崎の体を濡らしていく。


 俺はあいつを『村正』だと認めたくない。


 あいつは『六文銭』だ。この高校で出会っただけの、ただの『六文銭』だ。


 俺のことを知らずに生きてきた、ただの生きた人間だ。


 怖がる必要なんてどこにもない。


 あいつを見ることに、怯える必要なんて。


 能天気な六文銭の顔が脳裏にちらつく。


 その顔を見るたびに鼻をつくあの『におい』を、思い出す。


 でも――だったらなんで、あいつから『死のにおい』がするんだ。


 さらなる混乱で頭の中がぐちゃぐちゃになり、曽根崎はその場に膝をつきそうになる。


 彼の頭上に傘が差しだされたのはその時だった。


「また会ったね、少年」


 顔を上げるとそこにいたのは、こちらに傘を傾けた夢食えにしだった。


「そんなところにいたら濡れてしまうよ」


 おどけた様子もなく優しく笑う彼女に、曽根崎はあっけにとられたあと、ふらふらと体を起こす。


「ほら、せめて屋根のあるところに行こう。こっちだ」


 ゆっくりと歩く彼女の後ろを、曽根崎は憔悴した表情でついていく。


 彼女がやってきたのは、付近にあったバス停だった。


 バスを待つ人間は一人もいない。


「何があったか聞いても?」


 屋根があるというのに、傘を差したままえにしは尋ねる。


 ぱらぱらと頭上の屋根に雨粒が当たる音が聞こえる。


「何を言われても私は誰にも話さないよ」


 聞こえるのは彼女の声と通り過ぎる車の音だけだ。


 傘のおかげで彼女の顔は半分隠れていて、曽根崎は少しだけこの場にいるのが楽になった気がした。


「少し相槌を打つ壁だとでも思えばいい」


 傘の向こうでえにしは言う。


 その声にからかう色はどこにもなく、曽根崎は自然と口を開いていた。


 自分と六文銭村正が幼馴染であったこと。


 自分が連れていった裏山で、彼が落下して大けがを負ったこと。


 直後に自分は引っ越してしまって、彼と再会したのはこの高校に入ったときだということ。


 元気にしている彼を見てホッとしていたこと。


 事故のことを尋ねる勇気が出なかったこと。


 彼が、事故のせいで自分のことを覚えてすらいなかったこと。


 全てを語り終わり、曽根崎は目を伏せる。


「俺のせいなんだ」


 か細い声が出る。


 えにしは黙っている。


「俺があの場所に村正を誘わなければ」


 いつの間にか握っていたこぶしを解き、自分の手のひらを見る。


 無様なぐらい震えていた。


「俺がアイツから手を離さなければ」


 この手でつかめなかったあいつの指先の幻が、はっきりと目の前に浮かんでいる。


 いっそ泣いてしまいたいのに、なぜか涙が出てこない。


「今の六文銭が悪いわけじゃない。わかってる。わかってるんだよ」


 しゃがみこんでしまいたい思いを必死でこらえ、肩を震わせる。


 雨脚は次第に強くなっていった。


「そうかい」


 えにしは小さく、それだけを言った。


 慰めるわけでもなく、諭すわけでもなく、ただ曽根崎の話を聞いていた。


 軒下に湿気が満ち、行きかう車は皆ワイパーを動かし始める。


 永遠にも思える数分の沈黙のあと、えにしは傘を傾けて曽根崎に顔を見せた。


「そろそろ戻ったほうがいいよ。来た道がどっちかはわかるかい?」


 えにしは穏やかにそう尋ねる。


 曽根崎は言葉に詰まった。


「俺は……」


 戻る。どこに?


 わかっている。六文銭のところだ。


 何を言えばいい。


 謝る? 何を喋る?


 違う。戻るのはその前だ。


 学校で過ごしていた日常だ。


 くだらない日常を大切にしろと言われた。


 まとわりつかれて、憎まれ口をたたいて、普通にしゃべって、普通に生きて。


 戻れるというのか。本当に?


「俺、は……」


 足元がまたぐらつく。


 立て続けに目撃した『死』がフラッシュバックする。


 『死』が、非日常が、自分をまともな場所から引きはがす。


 『死』に引きずられる感覚。


 『死』に自ら近づいてしまう感覚。


 そうしてまで楽になりたいと、救いを求めたいと、思ってしまう感覚。


 ――曽根崎は、唐突に理解してしまった。


「……そうか」


 橋の上の死体。


 切り取られた腕。


 せっかく手に入れたそれを使って、公園でしようとしていたこと。


 まだ日も暮れていない公園で行おうとしていた行為。


 なぜ。


 見つかることに怯えることすらしていない。できていないのだ。


 あべこべの黒魔術。


 だけど遊びのためのものではない。


 まるでつたない技術で何かを作ろうとしているかのような。


 オカルト、奇跡、願い。


 未熟で、詰めが甘くて、おそらく衝動的。


「『死』に、引きずられたのか」


 理解してしまった。自分が、犯人と同じものが見えるところに来てしまったのだと自覚した。


 自然と曽根崎の足は動き出す。


 ふらつき、目的の場所を目指して歩き出す。


 己の同類がいるであろう場所、『死』が色濃く存在しているその場所へと。


「……行くのかい?」


 曽根崎の表情をちらりと確認したえにしは問いかける。


 彼がなんらかの結論に至ったということに、えにしも気づいたのだろう。


 そして、それがどんな種類のものであるのかも。


 曽根崎は一度、足を止めた。


「君の帰り道はそっちじゃないよ」


「ああ」


「君が暴く必要はないんだ」


「……わかってる」


 それでも、自分は行かなければいかないのだ。


 『死』から遠ざかるために、近づかなければならないのだ。


 それがどれだけ愚かなことかは、わかっているつもりだ。


 背後でえにしが小さく息を吐く音が聞こえた。


「私が止めても無駄だとは思うけれど、一応年長者として言っておくね」


 彼女の鋭い視線が背中に突き刺さる。


「やめておきなさい。――そこから先は、戻れない道だよ」


 何も答えず曽根崎は歩き出し、雨に濡れながらバス停から遠ざかる。


 彼は振り返らなかった。

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