第19話 死へと近づく行為
事件から数日経っていることもあって、橋の周囲に警察関係者が立っていることはなかった。
むしろ現場が橋の上の道路であることもあって、竜野副部長が倒れていた場所は普段通り通行できるようにすらなっている。
車道には車が行き交い、橋の下には穏やかに川が流れている。
あきれかえるほどに日常だ。事情を知らなければ、数日前にここで死体が見つかっただなんて思いも寄らないだろう。
曽根崎たちは、ちょうど彼女が倒れていた場所で立ち止まると、足下のアスファルトを見下ろした。
「やっぱり手がかりなんて残ってないよね」
「警察がいないんだ。手がかりなんてすでに根こそぎ持っていっただろう」
「それもそっか」
まるで足下が不安定であるかのような落ち着かない感覚のまま、曽根崎たちは話し始める。
「俺たちが先輩を見つけたのは、日が暮れて少し経ったくらいだったよね」
「ああ。俺たちが公園に向かう前には、竜野副部長はここで死んでいなかった」
「じゃあ先輩が橋の梁で首を吊ったのはその間ってことになるよね」
「正確には日が暮れてから俺たちが橋にやってくるまでだろうな」
二人のすぐ横を乗用車が通り過ぎていく。
「ここは車の往来がないわけじゃないんだ。日が出ているうちに首つりなんてしたら、その時点で即通報だ」
首つりどころか、首つり用の縄をかけている時点で通報必至だろう。
「つまり、もし誰かが自殺した先輩の腕を切り落としたのだとしたら、先輩がここで死んでからそんなに猶予はなかったってことかあ」
「おそらく腕が切られたのは自殺の後だろうな。片腕を切られた人間が橋の梁に上って、縄をかけて、首を吊るなんて至難の業だ」
そんなことができるのはフィクションの登場人物だけだろう。もっともフィクションの登場人物だってそんな迂遠なことをするとは思えないが。
「とすると、犯人は計画的に自殺した副部長の腕を切り落としたことになる」
「都合よく腕を切る道具なんて近くにあるはずないもんね」
「ああ」
腕を切ることができるもの。
刃物? いや、ナイフ程度では骨まで切断するのは無理だろう。
もっと大がかりな、おおよそ人間に向けることが想定されていないようなものでなければ――
きれいさっぱり事件の痕跡が消え去った周囲をぼんやり見ながら、ふと曽根崎は口を動かす。
「……工事」
「え?」
曽根崎は数日前にはそれがあったはずの場所を指さす。
「たしか、このあたりに工事の準備がされていなかったか」
「あ、そういえば……」
六文銭も少し考えて、それに思い至った顔をする。
「もしかして、犯人はここにあった工具で竜野先輩の腕を切ったってこと?」
「可能性はあるだろうな」
「……ここに工具がないってことは、きっともう警察もその可能性を探ってるってことだよね」
「だろうな」
当然のことだが、素人の自分たちなんかよりずっと早く捜査は進んでいるはずだ。
曽根崎に肯定され、六文銭は目を伏せた。
「きっと俺たちにできることなんてないんだよね」
「……ああ」
無意味なのだ。こんな行為なんて。
どこまでいってもこんなものはただのごっこ遊びの自己満足で、たとえ答えを手に入れたとしても自分たちにはどう対処することもできない。
むなしさに襲われて曽根崎は息を吐く。
その感傷をなかったことにするように、そもそもの疑問を六文銭は口にした。
「でも、腕なんて何に使うんだろうね」
腕のない死体。
学校で見つかった腕のミイラ。
どうして、そしてどうやってあのミイラは作られたのか。
おそらく犯人の目的は再びあの腕のミイラを作ることだろう。
でも、どうして?
ううんと考え込み、曽根崎はふと頭の片隅で引っ掛かっていたものを探り当てた。
「……そういえば、越塚部長が腕について何か気づいたようなことを言っていなかったか?」
「あっ」
学校で腕を見つけた日。
腕の特徴を告げた時。
帰り道で会った越塚は、たしかにそんなことを言っていたはずだ。
六文銭は顎に手を置いて考え始める。
「部長さんって、オカルトが好きなんだよね? つまりえっと……最初に見つかったあの腕はオカルトグッズだったってこと?」
「そればかりはアイツに聞かないとわからないな……」
曽根崎は乱読家ではあるが、それゆえに得ている知識が歯抜けになっている自覚はある。
下手に考えるより、詳しい奴に聞くのが一番だろう。
「これをやったのって、一年前の犯人だよね、きっと」
「ああ。副部長の腕で何をしようとしているのかはわからんがな」
六文銭は、首縄がぶら下がっていた橋の梁を見上げた。つられて曽根崎もそちらに視線を向ける。
「先輩、苦しかったかな」
まるで自分のことのように、六文銭は痛いのをこらえているような顔になる。
首吊り自殺の死因は脛椎損傷だ。
勢いよく吊れば、恐らく一瞬で意識は飛ぶだろう。
でも、徐々に縄へと体重を預けていったら?
首を通る動脈が圧迫され、呼吸が狭まり、自殺者は何を感じるのか?
首吊りゲームという快感を求める遊びがそういえばあるらしい。
それなら、彼女は快楽のまま逝くことができたのか?
曽根崎はその考えを口にしようとし――やめた。
わざわざ六文銭に聞かせるようなことでもないだろう。知ったところで、自傷行為にしかならないのだから。
その時、聞き覚えのある女性の声が二人の背後から響いた。
「おや、妙なところで会ったね、少年たち」
ばっと振り向くとそこにいたのは、予想通りうさんくさい雰囲気をまとった、夢食えにしだった。
「え? えにしさん、どうしてここに?」
「ふふん、言っただろう。私はグリーフケアのセラピストだよ? 君たちの先輩の越塚くんのご家族に呼ばれたのさ」
思わぬ名前を出され、二人は仲良くきょとんとする。
「あの子、自殺した竜野ちゃんが好きだったみたいでね。かなりショックを受けてるみたいだからって、既知の刑事が彼の家族に私を紹介したんだよ」
そうなのか、と二人は考え、数秒後に納得する。
たしかにあの先輩たちはいつも一緒にいた。付き合っていたのかどうかは知らないが、越塚が彼女のことを好きだったというのは納得できる話だ。
それは、辛いだろうな。
かたわらの六文銭に引きずられるように、曽根崎もそんなことを考え始める。
一気に暗い顔になった二人を前にして、えにしは軽く息をはいた。
「竜野ちゃんの死が気になるのかい?」
曽根崎たちは、気まずい顔で彼女から目をそらした。
彼女から言われたことを完全に無視した行動をしているのだから当然だ。
えにしは再びため息をつく。
「少年たち、二度目の忠告だよ。……引きずられるな」
低い声でえにしは言う。
曽根崎たちはびくりと肩を震わせた。
「他人の死は他人のものだ。自分のものじゃない」
ゆっくりと、だけど重々しく告げるえにしの言葉に、二人は彼女の目を見ることができなかった。
「今度こそ、戻ってこられなくなるよ」
曽根崎の唇がぴくりと震える。
言い返したかったのかもしれない。何を言い返すべきなのかは、自分でもわからなかったが。
睨み付けられたままの恐ろしい沈黙のあと、えにしはあきれた様子で二人から一歩距離を取った。
「まあいいさ。それで気が済むのなら、いくらでも探偵ごっこをするといい」
急に突き放され、曽根崎たちは途方に暮れた思いでえにしを見る。
えにしは相変わらず険しい顔をしていた。
「でも深入りするものじゃないよ。死はいつだって、新たな死を呼ぶのだからね」
去っていくえにしを見送りしばらく棒立ちになったあと、六文銭は口を開いた。
「越塚先輩の家、ここから近かったはずだよね」
六文銭は力なく笑う。
「行ってみよ、つづるちゃん」
まだ続けるつもりなのか。
そう言いかけて、曽根崎は言葉を飲み込んだ。
俺もそうしたいと思っているのだから、同類だ。
六文銭につれられて、曽根崎は越塚の家へと向かっていく。
明るかったはずの空はいつのまにかどんよりと曇り、今にも落ちてきそうなほど低く見える。
「降りそうだね、雨」
「夕方ぐらいから降るらしいぞ」
ぽつぽつと会話しながら二人の足は、公園へとさしかかる。
この広い公園を突っ切ったすぐ近くに、部長の家はあるはずだ。
ほとんど人がいない公園を二人はとぼとぼ歩いていく。
六文銭は、地面を見つめたまま切り出した。
「ねえ、つづるちゃん」
「なんだ」
「俺たち、日常に戻れるのかな」
日常に戻る。
曽根崎はいっそ笑ってしまいそうになったのを喉で食い止めた。
今俺たちがしているのは、自分で自分を日常から遠ざける行為だ。それなのに、そんな心配をするなんて愚かでしかない。
えにしの忠告を無視して、自分から『死』に近づいて。
そこまでして、自分の目の前に現れた『死』から遠ざかろうとしている。
馬鹿げている。理屈ではそう理解しているのに感情が追いつかず、曽根崎は六文銭に何も答えられないまま小さく笑った。
――その時、公園の奥まった場所から、耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。
ばっと顔を上げて、曽根崎たちはそちらを見る。
人の悲鳴ではなかった。もっと甲高い、動物の悲鳴だ。
「今の、猫?」
何が起こったのか理解していない顔で、六文銭はつぶやく。
尋常な鳴き声ではなかった。猫同士の喧嘩だとしても、あそこまでの悲鳴は出ないだろう。
何かろくでもないことが起きている。
関わるべきではない、何かが。
しかし、傍らの六文銭は公園の奥――人気(ひとけ)がないその木々の区画をじっと凝視すると、まるで吸い寄せられるように走り出してしまった。
「おい、六文銭!」
制止の声も聞かず、六文銭の姿は遠ざかっていく。
曽根崎は慌ててその後ろを追いかけはじめた。
しかし仮にも運動部である六文銭に、運動音痴の曽根崎が易々と追いつけるはずもない。
結局、曽根崎が追いついたのは、六文銭が立ち止まってからだった。
「けほっ、待て、六文銭、ごほ」
ぜえぜえと息を切らしながら、曽根崎は六文銭のもとにたどりつく。彼は少し開けた場所で棒立ちになっているようだった。
一体そんなところで何をしているのか、と曽根崎は改めて彼の立つほうを見て――慌てて鼻と口を覆ってうずくまった。
おぞましく渦巻く『死のにおい』。
明確に悪意を感じるその光景に、曽根崎は目をそらせなくなってしまった。
「なんだ、これは……」
地面に描かれた円に、何匹もの猫の死体が並べられている。
ただ殺されただけではない。何者かに食い破られるのを模したかのように、腹から臓物が引きずり出されている。
円の内側には複雑な文様があり、理解不能な文字列がそれに添えられている。
周囲の木々には、貼り付けられたあらゆる宗派がごちゃまぜにされた呪いの紙。
漂ってくる『死のにおい』ではない血と汚物の悪臭。
あらゆるものに侮辱的で、悪趣味で、醜悪なカルト儀式。
黒魔術。そんな単語が脳裏に浮かんだ。
「つづるちゃん」
円の中心に立っていた六文銭がゆっくりと振り向く。
その手には、何か筒状のものが抱えられていた。
「これがさ、真ん中に置いてあって」
青白い肌。細い指。ぎざぎざの爪先。不自然に日焼けしていない手首。その内側につけられた無数の切り傷。
どう見ても自殺未遂を繰り返していた女性の腕だ。
そしておそらく、その持ち主は――
六文銭は、場違いなほど穏やかに笑った。
「警察、呼ばなきゃね」
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