第三章 グリーフケアの女
第14話 無条件の信頼
高校の理科準備室で死体の腕を見つけた数時間後。
駆けつけた警察たちのただなかに、曽根崎と六文銭は放置されていた。
なんでも第一発見者への事情聴取とかいうやつをしなければならないらしく、近くの教室に待機しているように言われたのだ。
当然のようにあたりは人払いがされており、教室には曽根崎と六文銭の二人しかいない。
何が起きているのか把握できていない生徒たちの、困惑のざわめきだけが遠くで響いている。
「人間の死体って……本当なの、つづるちゃん?」
「…………」
おそるおそる尋ねてきた六文銭の言葉に、曽根崎は答えなかった。
正確には、答える元気がなかったというのが正しい。
あの死体を見てから足下がぐらついているような感覚がある。
吐き気を催すほどの、あの悍ましい『におい』が鼻の奥から消えない。
間違いない。あれは『死のにおい』だ。
しかも、今まで嗅いだことがない類の、恐ろしい『におい』。
その正体がわからないまま、曽根崎は吐き気と戦っていた。
「つづるちゃん、顔色悪いよ? トイレ行く?」
「……いい。我慢できる」
顔を覗き込んでくる六文銭を手を振って遠ざける。
鼻の奥を奇妙な『におい』が刺激している。
曽根崎は六文銭と高校で再会した直後から、彼を直視するとなぜか『死のにおい』をほのかに感じるようになっていた。
彼は目の前でこうして生きているはずなのに。どうしてこんな『におい』がするんだ。
だから曽根崎はできるだけ六文銭と目を合わせたくなかった。……あの時の罪悪感で顔を直視していられないという面もあったが。
心配そうな顔のまま六文銭は座りなおす。
その時、教室のドアが軽くノックされ、スーツ姿の優男が入ってきた。ここに来られるということは、多分刑事なのだろう。
「こんにちは。君たちが第一発見者かな?」
「あ、はい。ええと」
「ああ、座ったままでいいよ。ちょっと待ってね」
立ち上がろうとする六文銭を手で制し、彼は曽根崎たちの近くに椅子を引っ張ってきた。
「刑事の猫屋敷っていいます。よろしくね」
「はい……」
沈んだ面持ちで六文銭は答える。
猫屋敷は穏やかにほほ笑んだ。
「時間を取らせちゃってごめんね。あんなものを見つけたばっかりに災難だったね」
まるで小さな子供に対するように慎重に、猫屋敷は二人に話しかけてくる。
死体を見てしまった学生に配慮しようとしているのだろう、と曽根崎は他人事のようにぼんやりと彼を見る。
自分も相当に参っているらしい。
思わぬところで人の死体を見るのが、こんなにきついものだとは思わなかった。
まるで、『死』というものに引っ張られて生気が抜き取られているかのようだ。
足下にあったはずの地面がぼろぼろとひび割れ、裂け目からにじみ出てくる何かに足を取られそうになる感覚。
恐ろしい何かがひたひたと足下を満たしていく感覚。
軽く頭を振って、曽根崎はそんな想像を振り払った。
六文銭はおどおどと視線を迷わせたあと、猫屋敷に勇気を出して尋ねた。
「あの、猫屋敷さん。あれって本当に人間の腕なんですか……?」
返事は少しの間の沈黙だった。
言い淀んでいるのだろう。真実を告げるべきか、と。
猫屋敷は数秒だけ黙ると、こちらの気持ちを逆立てないよう細心の注意を払いながら答えた。
「うん。間違いなく、人間の死体だそうだよ。鑑識の人が判別してたから」
びえええと悲鳴を上げて六文銭は縮こまる。
「思い出すの嫌だろうけど、見つけた時のこと教えてくれないかな?」
こちらと視線を合わせての問いかけに、六文銭は言葉をのどに引っ掛けながらもなんとか答えを返し始めた。
「ええと、先生の言いつけでつづるちゃんと一緒に理科準備室の掃除をしてたんです」
「つづるちゃんというのは彼のことかい?」
黙ったままの曽根崎に、猫屋敷は視線を向ける。
六文銭はうなずいた。
「はい……。それで、棚の奥に何かが引っかかってるのを見つけて、引っぱり出したら腕のミイラで、模型かなって思ったんですけど、その、それを見たつづるちゃんが『本物の人の死体だ』って……」
語尾をだんだん小さくしながら、六文銭は事情を語り終わる。
猫屋敷は曽根崎に体ごと向き直った。
「どうして君は本物の死体だと思ったんだい?」
曽根崎はすぐには答えなかった。
その代わりに引き絞った唇を何度か震わせて、すぐにまた閉じている。
「つづるちゃん?」
不思議そうな顔の六文銭に覗き込まれ、曽根崎は大きく顔をしかめると、二人から目をそらしたまま苦々しい顔で答えた。
「わかるからだ」
「え?」
「だから、わかるんだよ。死んでいるものを見ると、『死のにおい』がするんだ」
自分で言葉にしながら嘘のような事実だと痛感する。
予想通り、二人はきょとんとした目で曽根崎を見ていた。
曽根崎は派手に表情を歪める。
「だから言いたくなかったんだっ」
そうやって吐き捨てた曽根崎を前に、二人は数秒沈黙する。
きっとあきれられている。嘘をつくなと馬鹿にされるに決まっている。
自分だって信じたくない。だけどこれは事実なのだ。きっと、誰も信じてくれないだろうけど。
どこか投げやりな気分になりながら、曽根崎は唇をとがらせる。
猫屋敷は小さくこほんと咳払いをして、すぐにその気まずい静けさを破った。
「今はそういうことにしようか。多分、君たちはこの事件に無関係だろうしね」
唐突に告げられたその言葉に、目をぱちくりとさせて曽根崎たちは猫屋敷を見る。
猫屋敷はしっかりこちらを見て、改めて確認してきた。
「君たちは高校一年生だよね? 中学はどこかな?」
質問の意図がつかめないまま、六文銭は近所の中学校を、曽根崎は県外の中学校の名前を素直に答える。
猫屋敷は曽根崎だけに加えて尋ねた。
「君は最近このあたりに引っ越してきたのかな?」
「……高校に上がるときに」
俯いてぼそぼそと曽根崎が答えるのを聞き届けると、猫屋敷は穏やかにほほ笑んだ。
「うん、わかったよ。教えてくれてありがとう」
ぽんっと頭の上に手を置かれ、曽根崎は迷惑そうに顔を上げる。
猫屋敷は立ち上がったところだった。
「もう帰って大丈夫だよ。引き留めちゃってごめんね」
その言葉通り、猫屋敷は二人を捜査線の外側まで送ってくれた。
野次馬がいない道に通されたのは、きっと配慮してくれたのだと思う。
常識的な大人だな、と場違いな感想を抱きながら、曽根崎は六文銭と帰途についていた。
二人の家は同じ方向で、自然と途中までは一緒に歩くことになる。
何を喋ることもなく、二人はとぼとぼと帰り道を進んでいく。
もうすぐ日が暮れるというのに気温はまだ蒸し暑く、アスファルトに落ちた二人の影を揺らしている。
いくつめかの十字路を通りすぎ、周囲の家に明かりが灯りはじめた頃、六文銭は唐突に顔を上げた。
「信じるよ」
曽根崎はきょとんと六文銭を見る。
六文銭は真剣な眼差しを曽根崎に向けていた。
「『死のにおい』がわかるってこと」
「……え」
「つづるちゃんはこういう時に嘘つかないもん」
真っ正面から、六文銭は曽根崎に宣言する。
チクリと、心の奥底が痛んだ気がした。
昔からこいつはそうだ。俺よりずっといろいろなことができるくせに、俺のことを構い続けて、無条件に俺の言葉を信じて。
だから俺はうらやましくなって、あの時――
崖から落ちた幼い頃の六文銭の姿が脳裏にちらつく。
恨んでいるはずだ。怒っているはずだ。そう思いながら生きてきた。
でも、再会したこいつは、あの事故のことを責めてこない。脳天気に笑顔ばかりを向けてくる。
いっそあれはお前のせいだと詰ってくれればいいのに。そうしたら、今よりはこいつの顔を直視したくなるかもしれないのに。
曽根崎はそんな内心を悟らせまいと、顔をそらした。
「……ありがとう」
ぼそりと言い、曽根崎は沈黙する。
六文銭はちょっとだけほっとした顔をした。
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