第9話 同じ『におい』
ぱちりと目を開くと、曽根崎の視界には掃除不足ですすけた天井が広がっていた。
気分が悪くて胃のあたりを押さえながら、曽根崎は起き上がる。
……見覚えのある部屋だ。
飾り気のない傷だらけの床に、必要最低限だけ置かれた家具たち。だというのに、所長席にはごちゃごちゃと不要なものが積まれている。
ケチくさいあの女をそのまま表したかのような内装だ。
どうやら自分が夢食相談事務所のソファに寝かされていたようだと知り、それから意識を失う前にあった出来事を彼は思い出した。
転落死。山で。足を滑らせて。
鼻の奥に濃く残る『死のにおい』に、曽根崎は顔をしかめる。
……昔の六文銭のことを重ねて気絶したということか。腹立たしい。
そうやって口の中で呟きながら、無意識のうちに曽根崎の手は自分の首へと伸びていた。首元まで止められたシャツの下には、自殺未遂を繰り返したがゆえの縄の跡がある。
「おっ。起きたみたいだねえ」
ひょいっと顔を覗き込まれ、ただでさえ悪い機嫌がさらに急降下する。
えにし所長は、いつも通りのにまにました笑顔を曽根崎に向けていた。
「六文銭クンが君をここに運び込んだのさ」
聞いてもいないのに彼女は曽根崎に説明する。
「病院、嫌いなんだろう?」
曽根崎の眉間にぐっと深いしわが刻まれた。
どうしてこの女に自分の事情を話してしまったのかと過去の己を呪いたくなったが、今となってはあとの祭りというやつだ。
えにし所長は曽根崎の向かいのソファにストンと腰掛けた。
「で、どんな夢を見ていたんだい? 少なくとも、君がいつも見ていたいと思っている夢ではなかったようだが」
軽い調子で話を振られ、曽根崎の爪はさらに首元に食い込む。
「……何が言いたい」
「走馬灯ばかり見てると大切なものを取りこぼすぞって言ってるんだよ」
やれやれと芝居がかった仕草で言われた言葉に、曽根崎はぐっと奥歯を噛み締めた。
そんなこと、痛いほど理解している。
こんなものはただの逃避にすぎないことぐらい。
言い返せない苛立ちでえにし所長をにらみつけると、彼女はにやっと曽根崎に笑いかけてきた。
「年長者の言うことは聞くものだよ?」
よく言えば非常にミステリアス、悪く言えば致命的にうさん臭い笑みだ。
そんな彼女に言い負かされたのが悔しくて、曽根崎は目をそらしてぼそっと吐き捨てた。
「何歳年上なのか不明のくせに」
えにし所長はむむっとか言った後、ソファの前の机を乗り越えて曽根崎の頬をつかみ、ぐいぐいと引っ張った。
「そんな生意気言うのはこの口かな? ええ?」
「うぐぐ……」
思いのほか強い彼女の手から逃れようと身をよじっていると、入り口のドアがカチャンと開く音がした。
「あっ」
ビニール袋を下げて入ってきた能天気な顔と目が合う。慌てて顔を逸らそうとするよりも先に、六文銭はあほ面をさらにぱっと明るくさせると、ぱたぱたと曽根崎に駆け寄ってきた。
「つづるちゃん起きたんだね! よかったあ!」
「うるさい」
えにし所長に続いてへばりついてきそうになる六文銭を腕で押しとどめ、なんとか曽根崎は二人から距離を取る。
六文銭は拒絶されたことなど気にせず、ビニール袋からペットボトルを取り出した。
「はい、お水。ゆっくり飲んでねえ」
常温のそれを渋々受け取り、曽根崎はその内側についた水滴に視線を落とす。
湿った岩に腰掛けて落ちた彼女。
不注意。
どう見てもただの事故。
だが――
「つづるちゃん?」
「同じだ」
「え?」
石の裏に付着していた赤黒い色を思い出し、次に崖から落ちた死体を思い出す。
「あの時、落下した奥島理亜からは、野々木さやかの血痕と同じ『におい』がした」
曽根崎の言葉に六文銭は瞠目し、ちょっと考えこんだ。
「それって……さやかさんと理亜さんが同じ理由で死んだってこと?」
「ああ。落下死という死因ではなく、自殺か他殺かという判定条件でな」
その補足を聞き、六文銭はさらに考え込んだ。
「じゃあさやかさんも事故ってことだよね。どう見ても、目の前で足を滑らせただけの事故だったもん。……理亜さんが死んでそれがわかるなんて、なんかすごく悲しいけど」
眉尻を下げる六文銭に、苦々しい思いが少しだけ胸に落ちる。
「どうした。事故だとわかってうれしくないのか。呪いじゃなかったんだぞ」
「うう、そうだけど……人の死を喜ぶなんて俺したくないよ……」
六文銭はしゅんと縮こまる。
きっと呪いではないと安堵してしまった自分が嫌になっているのだろう。
曽根崎はそんな彼を鼻で笑った。
「繊細なことだな」
「うーだってえ……」
「もうこの一件に俺たちは無関係だ。さっさと忘れて日常に戻ればいいだろう」
曽根崎はしっしっと手を振った。六文銭は目を丸くする。
「え、無関係?」
「そうだ馬鹿。判定を求めてきた依頼人が死んだんだ。動く理由がどこにある。事件が向こうから歩いて来でもしないかぎり――」
バンと派手な音を立てて、事務所のドアが開いたのはその時だった。
「こんにちは、お邪魔するよ! 曽根崎くんの体調はどうかな?」
陽気な声で入ってきたのは、理亜の事故現場にいたあのジャーナリスト――池之平だった。
えにし所長はこっそり六文銭に「誰?」と尋ねている。
曽根崎は厄介ごとの気配に、大きく顔をしかめた。
「なぜここにいる」
「調べたのさ! インターネットでね!」
「インターネット?」
予想外の単語に、曽根崎はオウム返しに尋ねる。
池之平は最新式の折り畳みケータイを取り出した。
「君、自殺判定士としてその筋では有名だそうじゃないか。水臭いなあ、そう名乗ってくれればいいのに」
そうなのか、とえにし所長を見ると、ドヤ顔をしている。六文銭も「あははー」と苦笑いしている。
どうやら本当のことらしい。そして、仕掛け人もこの二人らしい。
池之平はぐっと曽根崎に身を乗り出してきた。
「ところで君たちに折り入って依頼したいことがあるんだが」
そう言う池之平の目はギラギラと欲望で光っていた。
えにし所長はそっと曽根崎に顔を寄せる。
「歩いて来ちゃったねえ、事件」
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