第二章 自殺マニア

第8話 理科室の腕

『――エンバーミングだ』


 誰かの台詞が目に入り、それを読み飛ばして指先で適当にページをめくる。


 ぱらぱらとページは進み、ラスト十数ページで止まる。


『殺意のない殺人は成立するんですか』


 スーツ姿の大柄の男が言っている。文脈を読むに、どうやら刑事らしい。


『成立するよ』


 だらしない恰好をした探偵が軽々しく言う。そしてもったいぶって言葉を続けようとした。


『ただし――』



「曽根崎ー。そーねーざーきー」


 不満そうな声が降ってきて、曽根崎は手を止める。


 文字を追いながらなんとなく聞き流していた運動部の掛け声が、窓を隔てた向こう側からはっきり聞こえてくる。


 顔を上げると、学ラン姿の男がこちらを覗き込んできていた。高校一年生である曽根崎の先輩にあたる、三年の越塚こしづかだ。


「そこは、俺の席。お前の席はあっちだって言ってるだろ」


 越塚は曽根崎が座る窓際のクッション席を指さした後、入り口近くの木製の椅子を指す。


 曽根崎は一度まばたきをすると、今しがたまで読んでいた本へと目を戻した。


「俺がどこで本を読もうと勝手だろう」


「勝手じゃないって。一応こっちが先輩で、この図書部の部長だぞ!」


 部室の中で一番快適な場所に陣取りながら、曽根崎はフンと鼻を鳴らした。


 傲岸不遜な顔で席を占領する彼に、部長の越塚は大きくため息をつく。何を言っても曽根崎が反省するはずもないと彼とて分かっているのだ。


 そう認識しているのならそちらが折れればいいものを、と思いながら、曽根崎は読んでいたページを飛ばして適当にめくる。


 越塚は大きくため息をつくと、曽根崎が読む本へと目をやる。越塚がこの席の机に放置していた本のうちの一冊だ。そして、彼が開いているのはその本のかなり後ろのほうのページだった。


「というかお前、読むの速いな? 前に読んだことあるやつだったのか?」


「いや、初見だ」


「え?」


「途中から読んだ」


「え?」


「適当にめくって指が止まったところから読んだ」


「はぁ!? なんでミステリーを途中から読むんだよ!」


「なんだったらミステリーだということもさっき知った」


 曽根崎はパタンと本を閉じると、机へと本を放った。


 黒い背景に赤黒いバラと指輪が描かれた表紙。タイトルは『美死の恋』だ。


「信じられねえ十年前だけどベストセラーだぞ? 金嶺純かなみねじゅんだよ、金嶺純。ミステリー作家の。有名だぞ?」


「そうか、興味がないな」


 次に読むものを探して、曽根崎の目は部長の机の上を走っていく。


 呪い。魔法。黒魔術。


 墓から蘇るもの。生きた死体。腐らないもの。


 偽りの奇跡。民間信仰。呪物事典。


 同じような趣味の本の山の中から、曽根崎は文庫本を手に取る。


 ぱらぱらとめくる限り、グロテスクな単語がいくつも目に飛び込んできた。


「ホラーものの中に紛れているからてっきりその類かと思ったが」


「俺だってたまには別のジャンル読みますぅー」


 曽根崎の手から文庫本をひょいっと取り上げ、越塚は唇を尖らせる。


「お前が雑食なだけだって。こだわりとかないの、お前には?」


「別に。目についたから読んだだけだ。読めるのなら極論何でもいい」


「乱読家にもほどがあるよお前……」


 クッションつきの椅子にふんぞり返ったまま、懲りずに曽根崎は机に手を伸ばす。


「フン、週刊誌まであるのか。研究熱心だな」


「あーもー、曽根崎ー!」


 指で押すようにしてぱらりとめくると、付箋がつけられた場所で雑誌のページは止まった。


 そこに載っていた内容に、曽根崎は眉をひそめた。


「殺人事件……」


 一年前、女性の絞殺死体が川に遺棄されていたという記事。


 被害者の身元ははっきりしており、犯人はいまだ不明。


 だが、雑誌の発行日は二週間前だ。単なる殺人事件なら一年も経った今、週刊誌の記事になどならない。わざわざ記事にするほどのネタもないはずだ。


「ここの近くじゃないか、物騒なことだな」


「ほんとにな。死体から腕を切り取るなんて、誰がそんなことしたんだろうな……」


 越塚の言葉に、曽根崎は記事の内容へと目を通す。




 ――絞殺された被害者は、死体を損壊された後に川へと遺棄されたとみられる。


 ――この記事では犯罪心理に詳しいAさんとともに犯人像を追っていく。




 概要はこんなものだ。


 残りはAさんとやらが、偉そうに犯人について分析している俗な記事が続いている。


 うんざりしてきた曽根崎は目の間をぎゅっと揉んだ。


「この辺りに越してきたばかりだから知らなかったな」


「あー曽根崎んち、転勤族ってやつだっけ」


 言いながら越塚は週刊誌をひょいっと取り上げ、にんまり笑った。


「まあ俺は結構ワクワクしてるけど?」


「……悪趣味は身を亡ぼすぞ」


「ひひ、気を付けるよ」


 曽根崎はおちゃらけた笑みを浮かべる越塚に不快な目を向ける。


 その時、本棚のそばに座っていた女子が二人に声をかけた。大きな眼鏡をかけて手首に黒いリストバンドを巻いた、副部長の竜野たつのだ。


「読書中はお静かに」


「あっ、竜野ちゃんごめんなさーい……」


「部長はただでさえ悪趣味なんですから、もう少し控えめに生きてみたらどうですか?」


「竜野ちゃんまで悪趣味って言う!?」


「うるさいです」


「うぐっ、ごめんなさい……」


 一気にしおらしくなった越塚を、曽根崎は鼻で笑う。


「まるで夫婦漫才だな」


「誰が夫婦ですか誰が」


「えっ、俺は夫婦でも別にいいけどぉ?」


「は?」


「本気で威圧しないでよ傷つくなぁ……」


 ショックを受けた顔で、越塚はがっくりと肩を落とす。


 その時、窓の外から底抜けに明るい声が響いてきた。


「つづるちゃーん!」


 二階であるこの部室の下。武道場へと続く渡り廊下で、部活終わりの六文銭村正が笑顔で手を振っていた。


 うげっと派手に顔をしかめ、曽根崎はカーテンを閉める。


「曽根崎、お前の奥さんが呼んでるぞー」


 越塚の言葉を無視し、今までのかたくなさが嘘だったかのように曽根崎は立ち上がると、散らかしていた荷物をカバンに詰め始めた。


「帰る」


「ツンデレだなあ」


「違う。どつくぞ」


 カバンを持ち上げ、すれ違いざまに曽根崎は越塚の肩を殴る。


「もうどついてんじゃん!」


「うるさい」


 殴った自分の拳のほうが痛い、と思いながら曽根崎は部室のドアに向かう。


 しかし、曽根崎が触れるより先に、ドアはがらりと向こう側から開いた。


「あっ」


「うぐ」


 自分より少しだけ身長があり、そこそこ筋肉がついている青年――六文銭は、曽根崎を見た途端、へにゃっと笑った。


「つづるちゃん、今日は部活来てたんだねえ」


「うぐ……」


 ほのかにあの『におい』がして、一歩後ずさる。


 こいつの顔を見たくない。視線を直視していたくない。


 なんでこいつは、そんな表情で俺を見られるんだ。


 そのまま目をそらして逃げようとする曽根崎の手を、六文銭は捕まえた。


「これからうちの部室おいでよ。この前つづるちゃんが貸してくれた本返したいんだあ」


 その気になれば振りほどける程度の力加減で、六文銭は彼の手首をつかむ。


 曽根崎はそんな六文銭のことを顔をしかめて拒絶した。


「くさいから嫌だ」


「ひどいよ、つづるちゃん……確かに剣道部は汗臭いかもしれないけどお……」


 ぺそ、と肩を落とした六文銭の横をすり抜け、曽根崎は帰途を急ぎ始める。


 当然といった顔で六文銭はそれを追いかけてきた。


「つづるちゃん、待ってよお」


「待たん」


「一緒に帰るって約束じゃん」


「約束してない」


「えー! お昼に一緒に帰ろって言ったら、いいよって言ってたのに!」


「面倒だから生返事してただけだ」


「ひどい!」


 図体の割に子供っぽい仕草で六文銭は憤慨する。


 いい加減鬱陶しくなってきた曽根崎は、立ち止まって六文銭に向き直った。


「お前、なんで、そんなに俺に絡むんだ」


「え? なんでって、うーん……」


 六文銭はちょっと考えた後、ふにゃふにゃ笑った。


「俺がつづるちゃんと一緒にいたいだけだよお」


 そのアホ面をちらりと見て、曽根崎は苦々しく目を逸らした。


「……最初俺のこと思い出せなかったくせに」


「え?」


 思わず恨み言のような言葉が出てしまい、自分が嫌になる。


 そんな拗ねたことを言う資格なんて自分にはないはずなのに。


 曽根崎はさらにむすっと唇をとがらせた後、六文銭を振り切ろうと早足で歩き出す。


「なんでもない! 帰る!」


「えっ、待ってよお」


 二人の歩くスピードはどんどん速くなり、ほとんど走るような姿勢になっていく。


「今日帰ったらパウンドケーキ焼くんだあ。つづるちゃんは何味がいい?」


「よこす前提で言うな!」


「あっ、パウンドケーキはちょっと胃に重かった? じゃあクッキーにするねえ」


「しなくていい!」


「つづるちゃん細いんだからもっと食べないとダメだよお。明日は俺のお弁当のおかず分けてあげるねえ」


「要らん!」


 ぎゃーぎゃー言い合いながら角を曲がったその時、ドンッと二人の体は誰かにぶつかった。


 顔を上げた二人の視界に入ったのは、ルール違反に厳しいことで有名な理科教師だった。


 曽根崎と六文銭の顔色がサッと青くなる。


「あ、先生ごめんなさー……」


「なんだ、二人ともそんなに元気なのか」


 理科担当だというのに筋骨隆々なその教師は、二人の肩にポンっと手を置いた。


「だったら帰る前に少し頼みたいことがあるんだが」






 図書部の部室と剣道部の部室のちょうど中間地点。そこに理科準備室は存在している。


 六文銭に剣道部の部室に引きずられていくと、曽根崎は自然とその前を通らなければいけない。だからついていくのをゴネていたというのに、これでは元も子もない。


 ぶつぶつ不満を言いながら、曽根崎は命じられた理科準備室の整理を行っていた。


 机を挟んだ向こう側で段ボールを動かす六文銭が苦笑いする。


「つづるちゃん不機嫌だねえ」


「くさいからここは嫌なんだっ」


 そう言うと曽根崎は、ひどい『におい』がする棚を睨みつけた。棚にはホルマリン漬けの生き物の死体が並んでいる。


 『死のにおい』。


 死んだものを視認すると、鼻の奥に襲いかかってくる幻覚臭。


 いつの頃からか、曽根崎はその『死のにおい』を感じ取れた。


 少なくとも小学校に上がる前はこうではなかったはずだ。そう、ちょうどあの事故で大怪我を負った六文銭と離ればなれになったあたりから、この能力の記憶は存在する。


 最初にはっきりとそれに自覚したのは、曽祖父の葬式だ。親につれていかれた葬式場で遺体と対面させられ、八歳の曽根崎はその『死のにおい』にあてられて気を失った。


 それ以降、曽根崎はできる限り『死』には近づかないように生きてきた。


 家の外は『死のにおい』であふれている。


 道端に転がる小動物の死骸。誰かに踏まれてこと切れている虫。毎日のように『死のにおい』がする病院。動物の死体を陳列したスーパーマーケット。


 時に甘ったるく、時に苦く、時には汚泥のようなにおいで、『死』は曽根崎に襲い掛かってくる。


 曽根崎が外に出たがらない子供になるのも仕方がないことだった。


 調理をすれば多少マシだが、食卓に上る肉ですらうっすらと『死のにおい』がしてすすんで食べる気はしない。


 それでも倒れてしまっては病院に連れていかれるので、なんとか栄養は取るようにした。


 自室にはテレビは置かず、ましてやパソコンなどあるはずもなく。


 写真や画面越しでも『死のにおい』はしてくるのだから、できるだけ文字だけを追うように。


 視界に入りさえしなければ、はっきりと感じることもない。目を背けて避けていれば、なんとか人間として生きていける。


 だがここは理科準備室。授業に使われる標本――すなわち保管された死体だらけだ。動き回れば嫌でも死体が目に入る。


「つづるちゃん、顔色悪いよ?」


「うるさい」


 無駄に会話をするのも嫌で、曽根崎は手を動かす。


「さっさと終わらせるぞ」


 そんな曽根崎を六文銭は心配そうな目で見ていたが、それ以上彼が返事をする気がないのを察すると、自分の手元へと視線を落とした。


 六文銭は段ボールから取り出したものを持ち上げ、棚の中へと収めようとする。


 その時、彼は棚の奥に何かが詰められているのを発見した。


「ん? んんんー?」


 かなり乱暴に詰められたそれの先端を六文銭はつまみ、棚から引っ張り出す。


 そして、全貌をあらわにした奇妙なものに、首を傾げた。


「これ何かな、つづるちゃん?」


 布でくるまれたそれは、肘の下あたりで切り取られた一本の腕だった。


 表面はからからに渇いてしなびており、一見すると古い枝のようにも見える。


 だけどそれが腕だと証明するように腕の先端には指と爪があり、その指にははっきりと跡が残るほどきつく指輪が一つはまっていた。


「サルの手じゃないよね……毛もないし、人体模型かなあ」


 趣味悪いなあと六文銭は呟く。


 曽根崎は嫌々ながら顔を上げ――それを視認した瞬間、ドブ川のような悍ましいにおいに彼は襲われた。


 初めて祖父の死体を見た時と同じような寒気が背筋に走り、だけど全く違うにおいに曽根崎はとっさに口を覆う。


 においは激しい頭痛と吐き気へと変わり、六文銭の持つものから目を逸らせないまま曽根崎は思わず叫んだ。


「それに触るなっ!!」


 聞いたことがないほどの彼の大声に、六文銭はびくっと肩を震わせる。


「つづるちゃん……?」


 思わず取り落としそうになった腕をつかみながら、六文銭は曽根崎を見る。


「六文銭。それは、」


 曽根崎は吐き気をこらえ、なんとか言葉を発した。


「――本物の、人の死体だ」


「……えっ」


 数秒遅れて、六文銭の情けない悲鳴が校舎中に響き渡った。

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