最終話 桜木玲と俺たちの戦いはこれからだ!

 ……ハッ!

 俺は跳ね起きるようにして、ベッドから飛び出した。

 怖い夢を視た……ような気がする。

「……何だったんだ、一体」

 くらくらと視界が歪んでいるような……頭も痛い。

「熱いな……なんでだ?」

 真夏というわけでも、暖房を点けているわけでもない。

 だというのにどういうわけだかめっちゃ熱い。体の中が茹で上がりそうだ。

 俺は思わず上着を脱いだ。ついでに下も。

 下着一枚になると、多少は涼しく感じる。

「……ふー」

 その状態で時計を見やると、八時を過ぎていた。あれ? そんなに寝てたか?

 どちらにせよ、起きなければ、急いで支度をしないと遅刻してしまう。

 そう思い、部屋から出ようとドアノブへ手を伸ばす。

 その瞬間にくらりと足音が揺れた。……何だ、まじで。

 体制を立て直して、部屋の外に出る。外は明るかった。そりゃそうだ。

「……おう、おはよう」

 リビングに出ると、妹がいた。珍しいな。いつもならこの時間はまだ部屋に籠ってるのに。

 挨拶をしたのだけど、返事はなかった。かわりに一瞥してくる。

 と、その瞬間にカッと、眠たげな瞳が見開かれた。

 何だ……? 意味がわからない。

「……どうしたんだ?」

「……ええと、あにき……大丈夫?」

「ん? 何がだ」

「いや……」

 妹は歯切れ悪く、俺から目を逸らした。

 何なんだ、一体? それにしても熱いな。……ああ、そういう事か。

「ちょっと熱くってな。脱いだ」

「あーまあそうだろうね。ただあたしが言いたいのはそういう事じゃなくて」

「? 何を言いたいんだ、おまえは?」

 妹の言いたい事がわからずに、困惑する。

 とりあえず、今はこいつにかかずらっている場合じゃない。遅刻する。

 俺は妹の対面に座ると、すっかりと冷めてしまっている朝食に手を付ける。

「食欲あるの?」

「いいや、あんまりない。けど、まあいつも喰ってるしな」

 別段腹は減ってなかった。それどころか食べたくないとさえ思っていた。

 だが、いつも喰っているから体が自然と朝食を口に運ぶ。

 半分飲み込むようにして平らげ、手を合わせる。

 それから学校へ行く支度をしようと立ち上がる。が、そこでまた足下がふらついた。

「……何だ? さっきから変なんだ」

「はい、あにき」

「ん? なんだ? ……体温計? どうしてそんなものを」

「いや、何となくだけど……風邪じゃん?」

「風邪じゃねぇよ! ……俺が風邪を引くわけねぇだろう」

「まあ何でもいいけど、とりあえず計って」

「むっ……わかったよ」

 俺は妹から体温計を受け取り、脇に挟んだ。

 それから少し待つ。ピピピッという音とともに、体温を測り終えた事を知らせてくる。

「何々……えーと、38,9度。うん、平熱だな」

「どこがだ馬鹿! 思いっ切り風邪じゃん」

 妹が呆れたような目で俺を見てくる。何だよ、そんな目で見んなよ。

「……とりあえず、上で寝たら? 学校にはあたしが連絡しといてあげるから」

「おまっ……馬鹿を言え、休めるわけないだろう」

「馬鹿を言ってるのはあにきの方。そんな状態でよく学校行こうと思ったもんだ」

「だって学校に行かないと、玲に会えないだろうが」

「その桜木さんに風邪を移してもいいの?」

「うぐっ……それは」

 その一言で、俺は黙った。だって玲に風邪を移すのはだめだからだ。

 桜木玲。成績優秀でスポーツ万能。どんな事でもそつなくこなす天才。

 しかしてその実態はゲーム好きのオタクであり、現在俺の彼女。

 そんな玲に風邪を移す……だめだ。それは断じてあってはならない事だ!

「わ、わかった……じゃあよろしく頼む」

「はいはーい」

 ひらひらと妹が手を振っている。本当に大丈夫か?

 しかし、今は妹の言葉に従うしかない。なぜなら俺は風邪を引いているからだ。

 病人は大人しく寝ているべきものだ。つまりは弱者。

 弱者は強者に従う。これが自然の掟なのだと太古より決まっている。

 うう……学校行きたかったなぁ。玲の顔を見たかった。

 俺は半分べそをかきながら、自室に戻るのだった。

 そして半裸のまま、ベッドの中に潜り込む。当然すぐに眠れるはずがなかった。

 ……と思っていたのだが、案外はやく眠気は襲ってきた。

「ああ、何だかすごく眠いんだ」

 最後のぽつりと呟いたが、当然反応を示してくれる人はいない。

 俺はゆっくりと瞼を閉じ、割と深い眠りに落ちるのだった。

 

 

                 ◆

 

 

 そして、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 微かに聞こえてくる、押し殺したような足音に俺は薄っすらと目を開けた。

「……誰かいるのか?」

 声をかけるが、返事はない。代わりに、ピタッと足音が止んだ。

 起き抜けだからか、視界はぼんやりとしている。病気のせいかもしれない。

 いずれにせよ、俺はそのままにはしておけなかった。

 一体誰がそこにいるのかを確かめずにはいられなかったのだ。

「……誰がいるんだ?」

「ええと……ごめん、起こしちゃった?」

 控えめに、申し訳なさを孕んだ声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だった。

 誰だったか……妹ではない事は確実だが。

 体が熱い。頭がぼーっとする。

 誰だ? 母さん?

 そこまで考えて、俺はその考えを打ち消した。

 母さんはなはずはない。今頃は仕事中だ。なら、一体誰だ?

 考え続けるが、答えはでなかった。黙っていると、そいつが顔を近付けてくる。

「熱、そんなにひどいの?」

「ああ……まあひどいらしい」

 俺にその実感はなかったが、体が妙にだるい。頭は冴えているが、手足が動かなかった。

 つまりそれは重症という事だ。その旨をそのまま伝えると、そいつは驚いたようだった。

「ごめんね、こんな事になっちゃって」

「……なんでおまえが謝るんだよ?」

「だって……これは私のせいだから」

「だからどうして……」

 言いかけて、何だかしんどくなって止めた。

「昨日、私が無茶をさせたから……」

「……昨日?」

 昨日、何かあっただろうか。思い出せなかった。

 何があった? 今の俺の状態の原因は昨日の俺にあるらしい。

 思い出せ……思い出せ!

 冴え渡った頭で必死に思い出そうとする。が、余計な事ばかり思い出してしまう。

「お、覚えてない? 昨日の事……」

「昨日、何があったんだ?」

「昨日……健斗は川に飛び込んだんだよ」

 川に? どうして俺がそんな事をするんだ? わからない。

 川に飛び込む理由とは何だろうか。例えば、泳いでいた?

 いやいや、それはあり得ない。第一、予定も準備もなくそんな事はしないさ。

 なら何だろう? ええと……何かが川に落ちて、それを拾いに行った……か?

「何か落としたのか?」

 俺の質問に、そいつはこくんと頷いたようだった。わからんけど。

「それで、私の大切な物を取って来てくれたの」

「そうか……何だかわからんが、ならよかった」

 その大切な物が無事だったのなら、俺が犠牲になった甲斐はあったというものだ。

「俺はおまえの役に立てたんだな。なら、思い残す事はない……」

「健斗……やだよ、そんな事言わないで!」

「俺は……ここまでだ」

「健斗ッッ!」

 そいつが俺の手を取って名前を叫んでくる。

 ここに至ってようやく、俺はそいつの事を理解した。

 ああ、おまえ、玲か。桜木玲……だったのか。

 今話をしているのが誰なのかがわかり、ほっとする。すると、どっと疲れが押し寄せてくる。

「……何してるの、桜木さん?」

 まどろみの中で、誰かの声が聞こえて来た。今度も、聞き覚えのある声だ。

 というより、今朝聞いた声。妹だ。

「健斗が……健斗が逝っちゃった」

「いや、ただの風邪なので死んでないです」

「……へ?」

 俺は再び目を開け、玲の方を見やった。

 俺と、そして妹を交互に見比べる顔は、素っ頓狂という言葉がよく似合う。

「風邪……生死にかかわる病気じゃなくて?」

「誰がそんな事を言ったのか知りませんが、そんな事はありません」

 妹が何やら手厳しい事を言っていた。しかし、風邪……風邪か。

 俺は風邪という病名らしい。死ぬんだろうか? 死なないと言っていたけど。

 でも風邪か……何となく聞いた事があるな。どこで聞いたんだっけ?

 何だか茹で上がったような感じだ。意味がわからない。

 風邪、風邪、風邪……思い出せなかった。

「そうなんだ……それはよかった」

「はい。なので安心してください」

 待て待て、何がよかったんだ? と言うか妹よ、さっきから何を持っているんだ?

 俺は玲から妹へと視線を移す。何やら土鍋? のような物を持っていた。

「ええと……それでそれは?」

「はい。これはおかゆです。ここに置いておきますから」

 ずかずかと他人の部屋に入り込んでくる妹。

 静かに土鍋を机に置いた。それから、すぐに去って行く。

 何しに来たんだ、あいつ。

「おかゆ……お見舞いイベント」

 何やらぶつぶつと玲が言っている。ええ、何? 怖い。

「そうか!」

 何だかわからないが名案を思い付いたらしい玲。にやりと顔が笑っていた。

 何々? 俺、何されるの? 

「健斗……起きて」

 ゆさゆさと揺さぶられ、起こされる。別に寝てないんだけど。

 それでも俺はそれまで眠っていたふりをして、たった今起きたかのように目を開けた。

「……何? どうした?」

 うっかり玲がいる事に突っ込まなかった。それも風邪のせいと思われているのか、無反応だ。

 それとも、今から起こる事の方が玲にとってずっと大切な事なのか。

「お腹減ってる?」

「え? あ、ああ……」

 減ってる。そういえば今朝から何も食べていないような気がするからな。

「だったらこれ。はいあーん」

「え? いや、自分でできるから大丈夫だ」

「病人は大人しくしていないとだめだよー」

 妹が作って来たと思しきおかゆを口の中にねじ込まれる。

 正直言って、この展開だとまずいものを喰わされると思っていただけに拍子抜けだった。

「……普通にうまいな」

「でしょ?」

 にこっと笑う玲。これを玲が作ったんだったら更によかったんだけど。

 まあ何でもいいや。腹が減っているの事実だ。

 そこへ喰えるレベルの料理があるのだから、何も嫌がる事はない。

 俺はもぐもぐと咀嚼し、飲み込んだ。うん、普通。

「おいしい、健斗?」

「あ、ああ……」

 しかし気がかりなのはなぜ、玲は俺におかゆを喰わせてにこにこしているのかだ。

 これは妹が作ったもの。それは俺も知っている事だ。

 しかし玲はそれを言わない。なぜ? まさか、自分の手柄にしようというんじゃあ。

 なんて事を考えて、ありえないなと苦笑する。

 だって玲はそんな事をする女の子じゃないし、何より俺は玲の事を信じている。

 きっと、言うまでもない事だと思っているんじゃあないだろうか。そうに決まってる。

「それはともかくとして、玲」

「なあに、健斗」

「ええと……お見舞いに来てくれたのか?」

「そうだよ。病気って聞いたから」

「そ、そうか……それは悪かった」

「別にいいよ。私も健斗のその……寝顔とか見れたし」

 段々と言葉尻が萎んでいく玲。止めてくれ、こっちまで恥ずかしくなってくる。

「それより、大丈夫なの?」

「あ、ああ……今朝よりはだいぶ」

「そう……それはよかった」

 ほっとした様子で胸を撫で下ろす玲。こんなに心配させてたんだなぁ。反省。

「そうだ、実はこれ持って来たんだ」

「ん? 何を……」

 言いかけて、俺は言葉を失った。

 玲が取り出したのは、かなりの大きさの物だった。……ええと、何だあれ?

 四角くて薄黄緑色のパッケージに入っている謎の物体?

「れ、玲……そいつは一体?」

「ちょっと待ってね。ええと」

 ごそごそと何やら鞄から取り出していた。のは、カッターナイフだった。

 カッターを使って丁寧に包装を切っていく玲。だから何が出てくるんだ!

 俺は恐ろしくなって、思わず目を背けた。でも、好奇心は拭えない。

 薄っすらとまぶたを開け、それを視界に収める。

 あれは……!

「これ、何だと思う? お見舞いの定番の品」

「フルーツの盛り合わせ? でもその袋……」

 どうしてそんな禍々しい包装がされていたのか、すごく気になる。

「ああ、これ? お店の人にサプライズですって言ったらじゃあ気付かれないようにって」

「な、なるほど……」

 それであんなにお見舞いの品らしくないいでたちだったのか。

 俺は何だか安堵してしまった。よくわからない者じゃなくて本当によかった。

「……食べる?」

「え、ええと……」

 さっきおかゆを食べたばかりだが、まだ胃袋には余裕があった。

「じゃあ少しだけ」

「うん。ちょっと待っててね。すぐに切って来るから」

 玲はその中からリンゴを取り出して、階下へと降りていく。

 そこで、俺はほうっと息を吐いた。目を閉じる。

 さっきまでの玲とのやりとりが思い出された。よかったと思える。

 玲の声を聞けてよかったと。顔を見れてよかったと。

 なんて事を思っていると、がちゃりとドアが開いた。玲かな?

「早かったな……ってなんだおまえか」

「おう、悪かったな、桜木じゃなくてよ」

 俺は思わず口走った言葉に後悔した。

 玲と入れ替わりで入ってきたのは、真人だった。

 剛昌真人。俺の友人でクラスメイト。いい奴だけど馬鹿だからな、こいつ。

「悪かったよ。……俺が悪かった」

「ま、別にいいけどよ。桜木じゃあなかったからな、俺は」

「だからそれはいいだろ、もう」

 はは、と真人は笑いながら、俺の傍らに腰を下ろした。

「それにしても、びっくりしたぜ。何せ桜木の取り乱しようったらなかったからな」

「そ、そんなにだったか……?」

「ああ、凄かったぜ、学校での桜木は」

 どんなだったんだろう? 見てみたかった気もする。

「そんで、気分はどうだ?」

「だいぶいい。玲も来てくれたからな」

「俺はお呼びじゃねぇってか」

「馬鹿言え」

 ははは、と笑い合う。真人の軽いノリは玲とは違って、それはそれでありがたかった。

「ま、その調子だと明日には元気いっぱいだな」

「その通りだ。何せ俺は病気に負けない奴だから」

「何とかと馬鹿はって奴か?」

「おまえに言われたかねぇよ」

「ところでよ」

「ん? なんだ?」

 真人が改まった様子で口を開いた。

 視線を逸らし、もぞもぞと手許を動かしている。

「ええと……まあなんだ、おまえ、九条と仲がよかったな」

「え? ああ、まあそれなりに」

 何せ玲とはオタク仲間だ。玲と仲がいいのなら、必然的に俺も仲よしになるってものだ。

「九条とは……連絡取ってんのか?」

「まあたまに。玲は割と頻繁に取ってるみたいだけど」

「だ、だよな……」

「それがどうした?」

「いや、どうもしねぇよ。ただ、どうしてるかなと思って。俺、連絡先知らねぇから」

「ふーん。……まあ元気みたいだな。向こうでも相変わらずだ」

「な、ならよかった」

 という言葉とは裏腹に、どこか様子がおかしい真人。一体どうしたというのだろうか。

「何が言いたいんだ?」

「元気かなって思っただけだ馬鹿」

「馬鹿に馬鹿と言われたくねぇな」

 何なんだこいつは。他人の事を馬鹿とばかり言う。

 どういう教育を受けて来たんだ。まあそれはいい。

「だったら……」

 今ここで連絡してやろうか? そう提案しようとしたところで、スマホが震えた。

 着信? ええと……ああ、噂をすれば何とやらだ。

「九条からだ」

「ええ!」

 真人が目を剥いた。いや、そこまで驚かんでも。

「……出るか?」

「ば、馬鹿か。おまえにかけてきたんだからおまえが出ろよ」

「だな……はい」

 俺は通話ボタンを押した。スマホを耳に当てると、聞こえてくるのは聞き覚えのある声。

『大丈夫なのですか!』

「お、おおう……大丈夫だ」

 聞こえてきたのは、甲高い声。どことなく震えているように聞こえるのは、電話だからか?

「どうしたんだ、突然」

『どうしたじゃないですわ! お風邪が……!』

「ああ、まあうん。それは大丈夫だ」

『大丈夫ではありませんわ! 風邪は万病の元! 油断は禁物ですわ!』

「でも一日寝てたから、だいじょ……」

『だから大丈夫ではないと申し上げていますでしょう!』

「お、おう……」

 何だか怒られてしまった。どうしてだ?

 俺は混乱半分で、九条の話を聞き流す。そんなふうに言うんだったら大声出さないでくれ。

「それでわざわざ電話かけてきてくれたのか?」

『エッ……ええ、まあ要件はそれだけですけれど』

「そっか。……悪いな、ありがとよ」

『……あなたが病気になったら桜木さんが悲しみますからね』

「わかってる」

 あれだけ心配されれば、どれだけ馬鹿だって気が付く。

 行動を改めようって気になるものだ。

「そうだ、真人がおまえと話した言って言ってる」

「おいこら、馬鹿か」

『剛昌さんが? ええ、わたくしも久しぶりにお話がしたいですわ』

「話したいってさ」

 俺はスマホを真人に渡した。真人は一瞬戸惑っていたが、諦めたように受け取った。

「……ええと、もしもし。ああ、俺だ。久しぶり」

 何だかぎこちない会話だな。真人ってこういう奴だったか?

 割ともっとちゃんとした奴だと思ってたんだけど。まあいいや。

 ちょっとトイレにでも行ってくるか。

 俺は立ち上がり、部屋を出た。どこ行くんだと真人が目で訴えてきたが、無視。

 階下に降りると、何やら騒がしかった。そういえば玲、りんご剥くのに時間かかってるな。

 用を足し終え、台所を覗く。と、玲が右往左往していた。

 その横で妹がなんか言ってる。何してんだ、あいつら。

「なあ、どうしたんだよ、おまえら」

「わあああ! ……ってなんだ健斗か」

「何だとはなんだ。そして時間かかり過ぎじゃね?」

「い、いやあこれは……まあね」

 えへへ、と笑う玲。可愛い。そしてその傍らで妹が俺を睨んでいた。なぜ?

「起きて大丈夫なの?」

「何も問題はない。……ん? なんだそれ?」

 俺は玲の肩越しに、まな板の上へと視線を走らせた。

 そこにあったのは奇麗に皮をひん剥かれたりんご……のはずだったのだが。

「……ええと」

「ち、違うのこれは! これは違うの!」

 必死の形相で弁明する玲。いや、何も言ってないが。

「だいぶちっちゃくなっちまったな」

 たぶんだけどこれは件のりんごだ。どうしてこんな事に?

「ええと……玲って料理って苦手だったっけ?」

 何となくできるものだと思っていたが。まあそういう事もあるだろう。

「違う……これには深い理由があるの」

「理由? いや別に責めているわけじゃ……」

「あれはほんの数分前の事だった」

 あれ? この始まり方、何だか違和感があるな。そして長くなりそうだ。

「健斗も知っての通り、私は健斗にりんごを剥いてあげようとここに来たんだけど」

「桜木さんが来た時にはあたしもいた。から道具の場所とか教えてあげてた」

「そしていざ始めてみたら、何だか上手くいかなくって」

「どんどん……どんどん小さくなっていってしまった」

「……ああ、そう」

 深い理由なんてなかった。わかってたけど。

「ま、まあそれでも大丈夫。まだ食えるところはあるわけだし」

「だめだよ! これは何というか……恥ずかしい!」

「恥ずかしいって……」

 とはいえ、せっかく剥いてくれた物を無碍にはできない。

 それに、りんごは食べられてなんぼだ。りんごのためにもここは食べないと。

「いただきまーす」

「あっ……」

 俺は玲の脇からりんごだったものをかすめ取り、口に放り込んだ。

 しゃくっといい音が鳴る。相当いい物のはずだ。

 きっと張り切ったんだろう。いい物は高い。無理しなくていいのに。

「……うん、うまい」

「……そう?」

「ああ」

 種ごと食べ終え、俺はニッと笑ってみせた。

 その事でホッとしたのか、玲の顔にも笑顔が戻る。よかった。

 玲は笑っていないとな、やっぱ。

「……けっ。くっだらねぇ」

「なんか言ったか?」

「何も言ってない」

 背後で妹がいらん事を口走った気がするので、睨んでおく。まあこいつに効果はないけど。

 慣れてるからな。

「まあでも、おかゆも喰ったからな。今はこのくらいがちょうどいい」

「……な、ならよかった」

 ほっとする玲。何だか無性に腹の底がむず痒くなってきた。

 その頭に手を置いて、サラサラの髪を撫でてやりたくなった。けど、妹がいるので我慢。

「じゃあ俺はそろそろ戻るわ」

「えっ……ああ、うん。じゃあ私も帰ろっかな」

 玲は時計を見やり、ぽつりと言った。まあ時間的にもいい頃合いだろう。

 あまり遅くまで男の家にいるものではないと思うしな。

「じゃあええと、これ洗ったら帰るね」

 玲が使った道具を示して笑う。と、妹はふるふると手を振った。

「いいですよ。それよりも帰った方がいいかと」

「え? ええと……」

「ま、いいよ。俺もだいぶよくなったからな」

「……じゃあお言葉に甘えて」

 玲がどことなく不満そうにしながら、台所から出て行った。

 せめて玄関まで見送ろうと、俺は玲に付いて廊下を歩く。@

「……じゃあね、健斗。……また明日」

「あ、ああ……またな」

 手を振り合い、玲が出て行った後のドアが閉まるのを待つ。

 パタンと閉じられたドアは何となく寂しく感じた。

「さて、戻るか」

 俺は踵を返し、自分の部屋へと戻る。

 その途中でまだ台所にいた妹をもう一度睨んでおく。まあどこ吹く風だったけど。

「……あっ」

「おう、戻ったか」

 俺が部屋に戻ると、真人が漫画を読んでいた。そういやいたなぁ。

 すっかり忘れていたわけではないが、何となくもう帰った気でいた。何でだろう?

 世の中には不思議な事がたくさんある。これもその一つだ。

「何してんだ、おまえ」

「何っておまえの部屋の漫画を勝手に読んでるんだが」

「胸を張って言う事か?」

「別に胸を張って言ってるつもりはないぜ。ところで桜木は帰ったのか?」

「ああ、ついさっきな」

「へえ……」

「な、何だよ……?」

 真人は意外なものを見るような目で俺を見てくる。何だ?

「いや……おまえなら送っていくって言いそうなもんだと思ってな」

「あー……俺も最初は思ったけどな。でもそれだとかえって気を使わせるから」

「なるほど。病み上がりだもんな」

「……そういう事だ。そしておまえも帰れ」

「どうしてそんな事を言うんだ?」

 真人はこれも意外だというように目を丸くする。

「どういう事だって……おまえ自分で言っただろ? 俺は病み上がりなんだ」

「ああ、そういう事。だったら問題はない」

「は?」

 何が問題ないんだ? 意味がわからんぞ。

「馬鹿は風邪引かないって言うだろ」

「……自分で言うか、それ」

 普通は他人に言われる言葉のような気がするけど……まあいいや。

「何でもいいけど、さっさと帰れよ。俺だって移したりしたら嫌だからな」

「わかってるって。後三巻読んだら帰るから」

 本当にわかってんのか、こいつ。

 俺はベッドに潜り込みながら、真人を一瞥した。

 まあ本人がいいと言ってるんだからいいんだろう。俺は忠告したぞ。

「何を言ってるんだかな……」

 真人の言い分はわからん。が、仮に移ったとして俺には関わりのな事だ。

 ただまあ、お見舞いくらいは行ってやってもいいかも知れんな。

 なんて事を思いながら目を閉じる。が、もちろん眠れるはずもなかった。

 理由としては、真人が隣で漫画読んでゲラゲラ笑っているからだ。

 寝れるか、馬鹿野郎!

「おい、別に読むなとは言わんが、もうちょっと静かにしてくれ」

「無理だろこれ……面白過ぎるぜ」

 ゲラゲラ笑いが止まらない。まあ確かにその漫画面白いけど。

 何度目かの終わる終わる詐欺を繰り返し、もうそろそろ本気で終わりそうな雰囲気をにおわせている作品だ。

「つかおまえ、それ読んだことなかったのか?」

「ああ……俺のジャンルはスポーツものなんだ。知ってるだろ?」

「ま、まあな……」

 真人が好んで読むのは熱血スポ根漫画が多い。有名な野球漫画とか。

 確かに読んでいて熱く鳴れるし、俺も好きだけど。俺はどちらかというとギャグ漫画がメインだ。

 それに真人の場合はジャンル固定しているから、他ジャンルの作品を読む事もないのだろう。

 全く可哀想な奴だぜ。

「それが気に入ったんなら、そっちの奴も好きだと思うぜ」

「んあ? ああ、これか? ほうほう」

 俺が指差した先を真人が見やる。関心を示したようだ。

「こいつもよさそうだな」

「ああ。俺の注目作だ。何と今読んでる奴の元アシのデビュー作なんだけどな」

「へー、そいつはすげぇ」

 本心からの言葉だったのだろう。

 真人はその漫画の背表紙に触れ、感嘆の吐息を漏らす。

「何がすごいってその人、高校を卒業してから十年間、ずっと漫画家を目指してたんだ」

「じ、十年……!」

「そう。色んな現役漫画家のところを渡り歩いて、技を盗んで」

 十年と言えば、普通なら心が折れる期間だ。

 たぶん、一年二年芽が出なかっただけでも、常人なら諦めるだろう。

 でも、十年だ。十年間、この人は漫画家になる事だけを夢見ていた。そしてなった。

 それは彼が積み上げてきた努力の末の結果であり、その努力に見合う実力を付けた。

 その生き様は尊敬に値すると思う。すごい人だと手放しで言える。

「真人は……なんか夢とかあるのか?」

「夢? あーと」

 真人は天井を仰ぎ、考える。ま、そうだよな。

 いきなりそんな事を言われても困るよな。

「いや、ねぇな。……少なくともこの人みたいな夢はねぇ」

「俺も。でもさ」

 進路の事とか、就職とか。そんな小難しい話をするつもりはなかった。

 ただ、どんな人間になりたいと。それだけの事だ。

「この人みたいになれたら、かっこいいよな」

「……ああ、そうだな」

 そして、全ての夢を叶えた人のようになれたら、かっこいいよな。

 夢や目標と呼べるものはないけど、そんなふうになれたらすごくかっこいい。

 本気でそう思う。

「ま、とりあえずはおまえはさっさと風邪を治す事だな」

「……わーってるって」

 玲や他のみんなにも心配をかけてしまったからな。

 夢を語るより、まず先に直す。それが先決だ。

「んじゃ、俺はそろそろ帰るわ」

「え? もういいのか?」

「ああ……この辺借りてくぞ」

「それはいいが、汚したりするなよ?」

「わかってるよ」

 真人は本棚から数冊漫画を取り出すと、鞄に詰めていく。

 全部で五冊ほどだろうか。空っぽの鞄の中には、俺の漫画たちが安々と収められていった。

「んじゃ、またな」

「おう」

 真人と手を振り合い、その背中を見送る。

 パタンと閉じられたドア。とんとんと階段を降りていく足音が聞こえる。

 俺は再びベッドに横になり、目を閉じた。

 夢……俺の夢ってなんだろう?

 玲と一緒に幸せになる事。それはもちろん、俺が生涯をかけて成し遂げたい事だ。

 でも、違う。そういう事じゃないんだ。きっと。

「……夢、か」

 俺は数巻分の空間の空いた本棚を見詰めた。

 彼のような夢は、きっと俺にはまだわからない。そこまで熱を注げる何かが、はたして見付けられるのか。

 それでも、いつか見付かるといいな。そんな事お思いながら、目を閉じる。

 静かになったからだろうか。薄らぼんやりとまどろみが頭の中を支配する。

 どろどろと体の端から溶けていくかのような感覚。迫りくる疲労感が心地悪かった。

 それでも、ようやく休めるのだと体が認識したのだろう。意識は遠のいていく。

 その中で、玲の姿がふと過ぎった。

 そういえば、明日は学校にいけるな。学校に行けば、玲に会えるな。

 夢や目標なんてまだまだ俺にはわからない。でも、とりあえずはそれを明日の糧にしよう。

 玲の笑顔が見れる、そんな何でもない事を夢や目標にしよう。

 そう思いながら、俺は眠るのだった。

 

 

                 ◆

 

  

 そして翌日。何とか回復した俺は、ルンルン気分で学校へと向かうのだった。

「ようおまえら、元気だったか?」

「それはこっちのせりふだ。死んだとか何とかって噂になってたんだぜ?」

「石宮くん、桜木さんが心配してたよ」

「無事で何よりだ」

 クラスメイトが軽口を叩いてくる。俺はそれらにいちいち取り合わず、サッと踵を返した。

 向かうは、玲のクラスだ。この時間ならもう来ているだろう。

 自分のクラスと違って、他クラスな何となく二の足を踏んでしまうな。

 俺はそっとドアから顔を出して、中の様子を窺う。

 もう既に何人かの生徒が登校していた。が、その中に玲の姿はなかった。

「……どうしたんだ、あいつ?」

 俺は不思議に思って、更に教室内を見回す。完全に怪しい人だ。

 教室内からも、俺の存在に気付いた奴が訝し気に俺を見返していた。

 そりゃあそうだ。

 しかしどれだけ探しても、玲の姿はなかった。なぜ?

「ハッ……まさか、俺の風邪が移った……?」

 それは大変だ。すぐにお見舞いに行かないと!

 俺はすぐさま昇降口まで走った。怪談を駆け降り、下駄箱から靴を取り出す。

 もたつきながら履き替え、外に出る。

 ちくしょう、やはり昨日はすぐに帰ってもらうべきだったんだ。油断した。

 なぜか玲なら大丈夫だと、そう思ってしまっていたから。

「……どこに行くんだ、おい」

 途中で真人と鉢合わせした。不思議そうにしていたが構ってなどいられない。

 俺は玲のところへ行かないといけないんだ!

 そんなこんなで校門までやってくると、俺は足を止めた。

 なぜなら、そこには玲がいたからだ。

 桜木玲。俺の恋人であり、もっとも大切な人。

「……ど、どうしたの、健斗?」

「何でもねぇ」

 ほっと胸を撫で下ろす。よかった、風邪を移したんじゃなくて。

「でも、何か慌てていたような?」

「……ええと、昨日の事でおまえに風邪を移しちゃったんじゃないかって」

「ああ、そういう事」

 合点がいった、というように、玲はポンと手を打った。

「大丈夫だよ。私、風邪引かないから」

 馬鹿は風邪を引かないという。しかし玲は馬鹿じゃない。

 なら、この定説は間違っていたという事なのだろうか? わからないが、玲が元気ならそれでいい。

「……そうか」

 俺は玲に笑いかけ、玲も俺に笑いかけてくる。

 へへへ、と他人の目を気にせず笑い合う俺たちは、一体どんなふうに見えているのだろうか? 

 何にしても、ここで立ち話も何だから校舎に戻ろう。

 夢や目標なんてなくても、今この瞬間が大切なのだから。

 

 

                                 完。

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俺の!彼女が!ゲーム脳! 伏谷洞爺 @kasikoikawaiikriitika3

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