棒になって。

佐渡りょうこう

第1話『落ちる、そして』

男は落ちた。そして棒になったのだ。



「暑いなぁ…。」


8月中旬の夏真っ盛り、デパート屋上の遊園地で柵にもたれかかった四十過ぎの男が呟いた。

彼の前を子供達が駆けていく。目的はそろそろ始まるヒーローショーのようだ。

お目当てのヒーローを見つけ歓声をあげる子供達。うだるような暑さの中、その姿はとても輝いて見えて。


「俺にもあんなだった頃があったのか…?」


遠い過去を思い出そうとするかのように宙を見つめる男。

男はなんてことのない一般家庭に生まれた。

当時何かに不自由した覚えは無く、あったとしてももう思い出すことは出来なかった。

小学生時代、男は親の意思に従って中学受験のための塾で多くの時間を過ごした。

彼は学力に見合った特別高くも低くもない中高一貫の進学校に合格し、6年後中堅大学に進学。気づけば就活に追われこれまた気づけばとある会社の営業マンになっていた。

青春も恋愛もみな人並みに経験してきたはずなのに、どれも靄がかかったようでどこか空虚だった。


「なんもないなぁ…。俺の人生…。」


子供達が悲鳴をあげ、男はまるで自分の人生を嘆かれたようで顔を顰める。ステージの上ではどうやら敵が現れたらしい。子供達を煽る司会の女性は高校生くらいだろうか。


「………あっ。勝手に教科書を読んだことがあったな。あれはいつ頃だったか…。」


男が思い出したのは中学生の頃、2つ上の兄が放っていた高校の教科書を読んでみた時のことだった。

ぱらぱらっとページを捲り適当に目を通していくうちにひとつ目に留まる文章があった。

一言でまとめると平凡な男が棒になってしまうという突飛な話。

中学生の頭ではうまく理解できなかったがどうにも頭に残っており、高校の授業で取り上げられた時には解説を聞きたくて眠たい現代文の授業を必死で起きていた記憶があった。


「『棒になった男』だったか…あったなぁそんなのも…!」


不鮮明な記憶の中に見つけた一つの鮮明な記憶に喜ぶ男。自分にも確かに過去があった。そんな当たり前の事実を確認できたことが嬉しかったのだ。

しかしふと気がつく。


「あぁ…似ているんだ。俺と棒になった男は。」


「屋上遊園地。子供達の近く。柵にもたれかかる…平凡な男…。もしここから落ちでもしたら俺はどんな姿になるんだ…?やっぱり彼と同じように棒なんだろうか…。」


降って沸いた危ない妄想。男の頬を汗が伝う。

普通であればすぐさま振り払うようなそんな妄想だったが男はそれを振り払えずにいた。


「棒になってしまった彼ですら子供がいた。きっと彼は家族を養うために働いていたんだろうな…。じゃあ…俺は何のために…?」


暑さで思考がまとまらない。汗と共に何か大切なものが流れ出ているかのような錯覚に陥る。

その時ステージでヒーローが叫んだ。


『人は皆、一生懸命生きているんだ!』


あぁ…そう呻いて男は落ちた。その様はまるでヒーローの一言が男のことを正面から押しのけたようで。

落ちながら男は誰かが自分を呼ぶ声を聞いた。

その声なヒーローか、子供達か、それとも別の誰かのものなのか。それはなんだか懐かしくて切ない声だった。


「ははっ落ちながら誰かに呼ばれるところまで彼と一緒か…。」


男は笑って落ちる。


そして


「…本当に言ってんのか…?」


頭を抱えようにもそんな腕は付いていない。彼は棒になっていた。

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