ピアノが弾けたら女子にもてるって都市伝説だったのか?

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ピアノが弾けたら女子にもてるって都市伝説だったのか?

「はあ? 何で上から目線なわけ? キモいんですけど」

「大してうまくもないくせに、偉そうにすんな」

「口は災いの元」


 女の子にもてたいって思うのは下心だろうか? あ、立派な下心ですね、すいません。


 じゃ、男子高校生が女の子にもてたいって思うのは悪いことだろうか? これは別に悪くないよね? 普通だよね?


 うん、そう、俺は悪くない。一般的な男子高校生としては、女の子にもてたい、仲良くしたいって思ったって、悪くないんだ。だけど、結果はこうだ。A子、B美、C奈の女子三人から罵倒された。こんなハズではなかったんだけれどなー。



**********



 俺は高橋。普通の高校生だ。特技はピアノ。すごいだろ? 小さい頃から習ってるからな。俺の周りでピアノを弾ける男なんて皆無だ。つまり、俺はオンリーワンの存在なのさ。


 男でピアノを弾けると、女子からもてるって噂がある。俺はそれを信じて、ひたすらピアノに打ち込んできた。しかし、ピアノを弾いている姿を披露する機会なんて滅多にない。それでどうやってもてるんだよって話だ。


 ところがある日、転機が訪れた。俺の学校の音楽教師、佐藤先生(おばさん)が、ピアノ同好会を作ったのだ。佐藤先生は今年になってうちの学校に転任してきたばかり。音楽系の部活がない我が校を憂い、まずは同好会から始めようと思い立ったらしい。


 なんでブランスバンド部とか管弦楽部にしなかったのかって? 聞いた話では、大人の事情らしい。ほら、そういう部活は、たくさんの楽器を用意しないと始められない。楽器って高いからね。中古でかき集めても数百万の予算が必要になるとか。要望が多ければ話は変わってくるかも知れないが、転任してきたばかりの音楽教師の一存で、いきなりそんな予算を組めるわけがない。


 そこで考えついたのがピアノ同好会だったらしい。ピアノならグランドピアノが音楽室にあるからね。合唱も考えていたらしいが、どうせなら他校にないものを、ということでピアノ同好会にしたって話だ。


 ま、そういう経緯はともかく、俺は早速入部? 入会? することにした。ようやくピアノを披露する場が出来たし、ピアノが弾ける女子とも仲良くなれるチャンスだと思ったからだ。


 ピアノを習っている女子は結構いるハズなんだけれど、入部してきたのは俺と同じ二年生の女子3人だけだった。A子、B美、C奈の3人だ。

 うーん。十人とか二十人くらいの女子に囲まれたハーレムっぽいものを想像していたんだけれど、少なくてちょっとがっかり。とは言っても、普通に考えれば女子3人に囲まれれば、十分ウハウハだよな。

 それに、この3人は結構レベルが高かった。ピアノの腕前の話じゃないよ? 容姿の話だ。だって、そっちの方が重要じゃん? 可愛いは正義だ。

 ピアノの腕前に関しちゃ、どうやら俺が一番上のようだ。これって、俺が尊敬されちゃうパターンだろ。きゃー! 高橋君、素敵! ってチヤホヤされてさ。尊敬はやがて恋愛感情に変わっていくのさ。王道だろ?


 となれば、次の問題は、この3人の内、誰を本命に据えるかってことだ。ハーレム状態は確かに嬉しいよ? でもさ。それは不義理ってもんだ。いつまでも八方美人じゃいけないと思うんだ。誰か一人に絞らないと、みんなに失礼だ。


 ごめん。それは建前だ。本音は違う。そもそもハーレムってそんなにいいもんじゃないんだよ。だって、3人まとめて彼女にするって現実的に考えて無理だろ? つまり、現実のハーレム状態ってのは、そこそこ仲がいい程度止まりで、それ以上の進展がないってことになるんだよ。煩悩全開の健全男子高校生としては、とっとと彼女作って、不健全な関係まで持っていきたいんだよ。そのためには一人に絞らなければいけない。


 さーて、どの子がいいかなあ?


 A子は、明るい性格でショートカット。同性異性問わず人気があって気軽に会話出来そうなタイプだ。


 B美はお嬢様系。長い黒髪はかなり好みだし、すらっとしたスレンダーな容姿もいい。高嶺の花なので、機会がないとなかなか話しかけにくいタイプ。


 C奈は温和な癒やし系。長めの髪をゴムでまとめて肩に載せている。口数は少ないけど、目がくりっとしてて可愛い。


 ほら、取って揃えたようにみんな違うタイプで、迷っちゃうじゃないか。正直、どの子も違う良さがあって、目移りしてしまう。こんなにも難しい選択肢は未経験だ。悩む。



**********



 なーんて迷っていたら早速想定外の事態に遭遇することとなった。


 意気揚々とピアノ同好会に参加、つまり音楽室に出向いたのだが、こいつら、俺のことを完全に無視しやがる。女子3人だけで仲睦まじくお喋りしていて、俺の割り込む余地が全く無い。


 ふ、仕方がない。お前らが俺を無視し続けると言うのならば、無視出来なくしてやればいいだけのことさ。俺はピアノを弾き始めた。


 どうよ? 俺のピアノに聞き惚れろ!


 あれ? なんでお喋りやめないの? みんなピアノの音、聞こえてるよね? 一応ピアノ同好会なんだからさ。もう少しピアノの音に耳を傾けてみない?


 俺のピアノが、喫茶店で流れているBGM程度の扱いになってる!


 あ、曲が悪かったかな? ショパンじゃちょっと普通過ぎ? じゃ、バッハ弾いてみようか。バロックだよ? 雰囲気かなり変わるよ?

 あれ? まったく反応ないけど、どうして? じゃ、今度はフランス物、いってみよう。ドビュッシーだよ。どう?


 その後、ロシア物だったりイタリア系だったり、近代、現代と様々な曲を弾いてみたものの、こいつら3人は完全に俺のことを無視し続けた。


 なめてんのか、こいつら!


 これは、俺、怒ってもいいところだよね?


 俺はピアノを離れ、3人のところへ向かった。


「ねえ、君たち」

「あ、ピアノ空いた? じゃ、私、弾いてくるー」


 話しかけたものの、またも無視され、A子がピアノに向かった。追随するように残り二人もピアノへ向かう。


 A子はピアノの椅子に座ると、クレメンティのソナチネを弾き始めた。小学生低学年くらいで習う、初歩的な曲だ。しかもヘタクソだ。


「あ、その曲、私も弾いたことあるよ?」

「クレメンティだったっけ?」


 B美とC奈はグランドピアノを囲んでA子にそんなことを言っている。


 ピアノから離れたところで、一人佇む俺。


 なんかさ。おかしくない? 何で俺だけハブられてんの?


 ピアノ同好会ってのはさ。みんなでピアノを弾いて意見を言い合って切磋琢磨していくってそういうものだよね? 一人だけシカトした上で、なあなあの意見を言い合う場じゃないよね?


 女の子にちやほやされたい、もてたい、あわよくば彼女を作りたいという不純な動機で入ったことはこの際棚の上にあげ、俺は無理矢理にでもこの3人の中に割って入ることにした。


「そこ、音の粒が揃ってない。曲を弾く前にスケール練習を徹底した方がいいぞ」


 俺の声に初めて女子3人が反応し、一斉にこっちを向いた。


 ふ。やっと俺の方を振り向いたか。今まで散々無視しやがって。お前ら、へたっぴなんだから、俺がこれからアドバイスしてやるさ。ありがたく俺の言うことに耳を傾けろってんだ。


 すごい目で睨まれていた。


 そこで冒頭の台詞となるわけだ。


「はあ? 何で上から目線なわけ? キモいんですけど」

「大してうまくもないくせに、偉そうにすんな」

「口は災いの元」


 ピアノ同好会における、俺の記念すべき女子との初会話がこれだった。


「しらけたから、もう帰ろっか」

「空気読まない奴って最低だよね。行こ行こ」

「じゃ、佐藤先生のところに鍵戻しておいてね」


 3人はそういうと、音楽室を出ていってしまった。



**********



 翌日から、音楽室に行っても誰もいなかった。俺は放課後に2時間ほどピアノを弾いて帰る。そんなこと繰り返していた。


 いいさ。そもそもピアノなんて一人で弾くものなんだよ。寂しくなんてないさ。今までだって、一人で孤独に練習してきたじゃないか。何も変わらない。こんなことは慣れてる。


 誰も来ないなら家で弾けばいいだろって? ま、それもそうなんだけれどね。だけど、一応メリットだってあるんだよ。この音楽室のピアノはグランドピアノなんだ。うちにあるのはアップライトピアノ、つまり小型のやつでね。ピアノ弾いたことがない人にはわからないかも知れないけれど、グランドとアップライトってかなり違うんだよ。本物とおもちゃってくらいに違う。

 うち、貧乏だからさ。グランドピアノが欲しいなんて、親に言えないんだよ。ピアノ、高いからね。音楽室のグランドピアノは、ぼろぼろだしあんまり程度のいいものではないんだけれど、それでもうちのアップライトピアノから比べたら、俺にとってはいいピアノなんだよ。

 それともう一つ。隣の音楽準備室には、びっくりするくらいピアノの楽譜が揃っているんだよ。普通、高校の音楽でピアノの楽譜なんて必要ないから、多分、佐藤先生の楽譜なんだろうな。楽譜も結構高くてね。自分じゃなかなか揃えることが出来ないんだよ。レッスンで弾く楽譜は親に買ってもらえるけれど、それ以外のものを欲しいって言っても限度があるんだ。

 ネットで無料の楽譜を探すって手もあるけれど、コンビニでプリントアウトするのも地味にお金がかかるし、ペラペラの紙だと譜めくりしにくいから、自分で製本するとなると手間だし。いや、実際、今まではそうやってきたんだけれどね?

 つまり、グランドピアノがあって、たくさんの楽譜が揃っているこの音楽室は、俺にとってとても居心地のいい場所なんだ。そう、あと一つ必要なのは、一緒にピアノを弾いたり聞いたりしてくれる女の子だけさ。でもそれはもう高望みなんだって、諦めることにした。一人でも、十分かなって。


 そんなことを思いながら、パッフェルベルのカノン(ピアノ編曲版)を弾いている時だった。音楽室の扉がスライドし、誰かが入ってきた。


「すいません。佐藤先生から聞いてきたんですけど、ここ、ピアノ同好会ですか?」


 見ると、恥ずかしげにもじもじしながら聞いてくる女子がいた。制服のネクタイに入るラインの色は赤、つまり一年生だ。


「ああ、そうだよ。入部希望?」

「はい」

「名前は?」

「鈴木です」

「鈴木さんね。俺は高橋。二年だ。よろしく」

「はい。あの、他には誰もいないんですか?」


 最初っから痛いところをついてくる。


 そりゃ、俺と二人っきりなんて嫌だろうな。あの3人のことを思い出す。どうせ女子同士できゃっきゃうふふしたいんだろ? そういうもんだよな。この鈴木って子も、どうせ直ぐに来なくなるんだろう。もう、落ちが見えたよ。


 大体さ。名前が適当なんだよ。俺が高橋で、先生が佐藤で、この子が鈴木だろ? で、女子3人がA子、B美、C奈ときたもんだ。いくら短編だからって、この作者、適当過ぎないか? ラブコメだったらもっと、ときめくような名前がついてるもんじゃん。男の主人公はともかく、ヒロインの名前にはもう少し凝ろうぜ? 逆に言えば、そこに凝ってないってことは、ただのモブってことだよ。この子だって鈴木だろ? 名字ランキング1位か2位か、そんくらい普通オブ普通って感じじゃないか。


「あと3人いるんだけれど、最近来なくてね……」

「そうですか。じゃ、このところ、放課後によく聞こえていたピアノは?」

「それはきっと、全部、俺かな」

「そうだったんですね。あの、さっき弾いてた曲……」

「ああ、パッフェルベル?」

「私と同じ名前なんですよ!」


 と、嬉しそうに言う。


「え? 君、鈴木パッフェルベルって名前なの?」

「違いますよ。なんですかそれ」

「だって、同じだって」

「そうじゃなくて、カノンの方です」

「ああ」

「花の音、と書いて花音かのんです」


 あれ? おい。ラブコメっぽい名前、出てきたぞ。花音と書いてカノンって、音楽物ラブコメとしては、これ以上ないくらいのいい名前じゃん。まじで? 作者マジで? ヒロイン登場しちゃった?

 そうか。理解した。やっとここから本編が始まったってことか。ヒロインが遅れて登場する、うん。演出としてはアリじゃないかな。あの3人は、花音ちゃん、つまりヒロインの引き立て役だったわけか。納得。


「いい、名前だな」

「はい。私も気に入ってます! ちなみに、高橋先輩の名前は?」

「俺? 太郎だけど」

「普通ですね」

「うん、普通だよな」


 作者ー!! もうちょっと頑張ってくれてもよかったんじゃないか?



**********



「鈴木さんはさ」


 花音かのんという名前だということはわかったけれど、いきなり初対面で下の名前を呼ぶのは憚られる。


「ピアノ、弾けるんだよね?」

「ええ、弾けますよ。小学一年生の時からずっと習ってます」

「じゃさ。何か弾いて聞かせてよ」

「いいですよ。何、弾こうかなあ」

「あ、楽譜が必要なら、準備室の方にいろいろ揃ってるよ」

「わー、それはいいですね。後で見せてもらいます。とりあえず、暗譜で何か弾いてみます」


 俺は立ち上がって、花音ちゃんに席を譲った。

 彼女はショパンの子犬のワルツを弾き始めた。難易度が高いというほどでもないが、低いというわけでもない。ま、曲の難易度よりも、大事なのは表現力の方だ。彼女のタッチはしっかりしていて、申し分ない。伴奏の音が大きすぎることもないし、メロディーの歌い方もいい感じだ。少なくともA美の演奏とは雲泥の差だ。


 花音ちゃんが一曲弾き終えた。俺は拍手をする。


「うまいね。すごくよかったよ」

「私、この曲、大好きなんですよ」

「楽しそうに弾いていたもんね。聞いていてわかったよ」


 ああ、そうだよ。俺はこういう会話をしたかったんだよ。ハーレムがどうのこうのって言ってなかったかって? ちょ、空気読んでもらえないかな。今、いい流れになってきてるのわかるでしょ? 俺はもう、花音ちゃん一人いれば十分だよ。人数じゃないんだよ。AとかBとか、そんなのは、もうどうでもいいんだよ。


 その後、今度は俺がスカルラッティのソナタを一曲弾いた。彼女はバロックが苦手だったらしく、スカルラッティのことを知らなかった。でも、聴いてみて興味を持ったみたいだ。準備室で楽譜を見つけ、練習してみる、と言い出した。


 翌日、俺が音楽室に行くと、既に彼女は居て、早速スカルラッティを練習しているところだった。昨日の今日なのに、結構譜読みが進んでいる。


「だいぶ弾けるようになってるじゃない。家で練習してきたの?」

「いえ、さっき弾き始めたばかりです。私、譜読みは結構速いんですよ。初見も、ある程度ならいけます」


 彼女の練習をしばらく眺め、一段落したところでバロック音楽について話をした。彼女はあまり知らなかったので、俺が語って聞かせたのだが、彼女は興味深そうにしていた。


 あー、もう、これリア充って言ってもいいんじゃないかな。孤独にピアノを弾いていた時とは大違いだ。


 さらにその翌日。彼女はもうすっかりスカルラッティを弾きこなしていた。すごいな。才能あると思う。俺は素直に感心した。


「CD買って聴いてみたんです。昔のホロビッツ。CDみたいに弾くことは出来ないけれど、だいぶ弾き方がわかったかなって」

「あは、ホロビッツのレベルまで弾けるようになっていたら、もうプロになっていてもおかしくないよ」

「そりゃそうですよねー」



**********



 以前、俺の周りでピアノを弾ける男子はいない、オンリーワンだって言ったと思うけれど、何故そうなのか、わかってくれた人はいただろうか?

 答えは簡単だ。ピアノを習っていた男子は、みんな辞めてしまったからだ。そりゃ、辞めるよ。いじめられるもん。小学生の時、俺も散々いじめられたんだ。


 男のくせにピアノなんか弾いてるの? 女みたいじゃん。


 そんな不条理なバッシングに耐えられなくなり、みんな辞めてしまうんだ。


 バッシングだけじゃない。そもそも、ピアノってのは毎日練習しないといけない。それはどういうことだと思う? 放課後、みんなが遊んでいる間、ずっとピアノに向かっていないといけないってことだ。だから自然と友達が減ってしまう。学校の休み時間に話す話題にもついていけなくなるんだ。だって、昨日遊んだゲームが面白かったよなって話題に、入れるわけないじゃん。俺だけ遊んでないんだもん。


 じゃ、何でお前は辞めなかったのかって? 正直言えば、俺だって辞めたかったよ。とっとと辞めてみんなと遊びたいって何度思ったことか。でもさ。折角今までがんばってきたのに、辞めたらもったいないって思っちゃったんだよね。


 もっと言えば、辞める勇気がなかっただけだ。


 信念があったわけでもない。惰性で続けて、辞め時を失っていただけだ。


 でもね、中学生になった頃だったかな。ようやく大人の考え方が出来るようになり始めた時期だと思う。その時初めて、ピアノって面白いなって思ったんだよ。

 演劇で例えるとね。小さい頃は台詞を丸暗記で言わされてただけだったのが、ある時期から、ちゃんと役に成りきって言葉の意味を考えるようになった、みたいな感じ。

 ピアノも同じでさ。楽譜の通り、先生の言う通り、弾いていただけだったのが、どうしてそんな風に音符が並んでいるのかとか、どう弾いたらメロディーをうまく歌えるのかとか、そういうことを考えられるようになって、初めて面白いと感じたんだよね。


 そんな話を、花音ちゃんにした。


「へえ、女子と男子では、随分違うんですね。私も小さい頃、みんなと遊びたいとは思ったけれど、ピアノを弾いていじめられるなんてことは、一度もありませんでした。でも、先輩はピアノ続けててよかったですよね。男子がピアノ弾いてるのって、女子から見たらかっこいいと思いますよ!」

「ほんとに?」


 俺はこの時、ピアノを続けていてよかった。ようやく報われたと思った。



**********



 そうやって数日が経過した。放課後は毎日充実した時間を過ごせたし、花音ちゃんともだいぶ打ち解けることが出来たと思う。


 そこで、俺は一つの提案をしてみた。


 連弾やってみない?


 彼女は、早速興味を示してくれた。


「いいですね。連弾ってなかなかやる機会がないですし」

「鈴木さんは初見もいけるみたいだし、準備室で、何かいいのがないか、一緒に探してみようよ」


 そう言って、二人で準備室に入り、連弾譜がないか探すことになった。


 連弾用の楽譜は数が少なかったが、その中でちょっと面白そうなのを見つけた。


 ラヴェルのボレロだ。


 この有名な曲は、元々、オーケストラ用のものだ。同じメロディーを何度も繰り返すのが特徴だ。繰り返すと言っても、出てくる度に演奏する楽器が変わるのだ。その音色の変化を楽しむ曲なのだ。まさにオーケストラのための曲と言っていい。


 で。それをピアノでやって、何が面白いの? って話だ。


 ピアノでやったら、ずーっとピアノの音色だけじゃん。何故わざわざピアノ用に編曲したんだよ。謎すぎる。


 でも、そこが逆に面白いと思ったのだ。何が面白いかわからないから、実際に弾いてみて、どこがどう面白いのか探ってみよう、と。


 花音ちゃんも乗り気のようだ。この、ネタとしか思えないピアノ連弾用の編曲に、敢えて挑戦してみよう。


 俺は、下のパートを受け持つことにした。元曲では、延々とスネアドラムがボレロのリズムを刻むのだが、ピアノでは、それを連打で表現するよう編曲されている。15分ずっとだ。最早苦行と言っていい。ピアノで連打って、結構大変なのだ。


 お互い初見なので、テンポは少し緩めにした。苦行の時間が20分くらいに増えてしまうかも知れないが、それはそれだ。


 はじめの数分。俺は微妙に変化する和音と、ただひたすら連打する音に集中するよう心がけた。ずーっと、似たような小節が続いていて、既に脳がトランス状態になりかけている。

 上のパートの花音ちゃんは、片手で単音のメロディーを弾くだけなので、とても楽そうだ。と言っても楽なのは最初だけだろう。曲が進むにつれ、上のパートも音数がどんどん増えていくのはわかっている。楽が出来るのは今のうちだけだ。


 中盤に入り、双方のパートの音数がどんどん増えていった。ここまで来ると、下より上の方のパートが大変かも知れない。


 そこで事件が起きた。俺の右手が、花音ちゃんの左手とぶつかったのだ。


「きゃっ」


 と、声を出した花音ちゃんは、演奏を止めてしまう。


「ごめんね。ぶつかっちゃった。ちょっと手前から、はじめようか。じゃあ、この小節からね」


 そう言って、演奏を再開したのだが、また同じ箇所で手がぶつかってしまい、演奏が中断された。


 そんなに激しくぶつかったわけでもないのだが、彼女はぶつけた手を、もう片方の手でおさえている。


 楽譜を確認して、どうしてこんなことになったのかが判明した。


 お互いの手が交差するようになっていたのだ。ピアノを上から見たら、下の方から、俺の左手、彼女の左手、俺の右手、彼女の右手、と並ぶようになる。中央で二人の手を交差させて弾け、と。


 しかし彼女は、信じられない、というような目で俺のことを見ている。ん? どういうことだ?


「なんで、こんな曲をやろうって言ったんですか? 私の手に触るためですか?」

「え? どういうこと?」

「わざとこういう曲を選んで、私に手に触ろうとしたんですよね? いやらしいです」


 は? 何故そうなる。俺だって、さっき初めてこの楽譜を見たんだぞ。こんな編曲になってるなんて、知らなかったよ。手がぶつかるのなんて想定外だし、手に触ろうとしたなんて、冤罪もいいところだ。


 だが、彼女、花音ちゃんは、俺の弁明を聞くことなく、「失礼します」と言って部屋を出ていってしまった。


 俺は呆気にとられ、ただ呆然とする他なかった。


 そんなことがあってから、彼女が音楽室にやってくることはなかった。彼女の中では、故意の事故と断定されたままなのだろう。


 正直、ちょっと手があたったくらいで、いやらしい、と言われてしまうことだって、納得がいかない。過剰反応過ぎるだろう。

 でも、考えてみれば、彼女はまだ高校一年生。ほんの少し前までは中学生だったのだ。男子に対する免疫ってものが、ほとんどなかったのだろうと推測出来た。


 いや、だからと言ってさ。あんなに仲良く話せていたと思ったのに、これはあんまりじゃないか?


 まだ付き合っていたわけでもないのに、失恋したかのような喪失感だ。


 俺はまた、一人に戻ってしまった。



**********



 結局のところ、ピアノなんて一人で弾くものなのだ。俺はそう悟った。悟らないとやっていられなかった。辛い思いをしながらも、ピアノを辞めることが出来なかった俺は、またも惰性で、毎日音楽室に通っていた。


 グランドピアノが弾けるだけでも幸せだと思うことにしよう。いろんな楽譜が用意されている環境があるだけでいいじゃないか。


 あまり思い詰めても、涙が出てくるだけだ。こういう時は気分転換に明るい曲を、とも思ったが、いや、さすがにそれはないな。そんな気分にはとてもなれない。それなら何がいい? 無になればいいじゃないか。何も考えずに済むようなものがいい。


 練習曲だ。初心に戻ろう。


 用意したのはハノンだ。機械的な練習曲集。音楽的な要素は皆無。ただひたすら、指の訓練のためだけに弾く曲集。一冊弾くと、ちょうど1時間くらいかかる。俺はハノンを、毎日2周弾こうと思った。



**********



 ハノンを弾き始めた翌日、俺は懲りもせず、音楽室へと向かった。三階に上り、音楽室へ近づくと、かすかにピアノの音が聞こえる。


 誰かいるのだろうか?


 もしかして、花音ちゃんが戻ってきてくれたのだろうか? いや、違う。そんなことはない。なぜなら、聞こえてきたピアノは、あまりうまいとは言えなかったからだ。曲もブルグミュラー。初心者用の簡単な曲だ。花音ちゃんなら、もっとうまく弾くに決まっている。


 それじゃ、一体、誰が?


 扉をスライドさせると、長めの髪をゴムでまとめた女の子がピアノを弾いていた。


 扉の音に気づいた彼女は、こちらに振り向き、


「あ、高橋君。よかった。もう誰もいないのかと思っちゃった」


 と、言った。


「えっと、君は……」

「やだ。もう忘れちゃった? 田中だよ?」

「田中、さん?」

「ショック。本当に忘れちゃったの? 田中C奈だってば」

「田中、C奈。え? C奈?」

「やっと思い出してくれた?」

「うん。思い出した」

「まー、前に一度会っただけだったからねー。忘れられても仕方ないか。私は高橋君のこと、忘れていなかったけれどね?」


 そんなことを言われても、悪態をつかれてあっという間に出ていったんだから、覚えていなくても仕方ないじゃないか。


「ごめん。忘れていたわけではないけれど、みんなを怒らせてしまったみたいで、すぐ出て行っちゃったじゃない。それなりにショックで。忘れようとしてたんだ」

「あー、A子とB美は怒っていたけれど、私は別に怒ってなかったよ?」

「そうなの? だって、みんなからひどいことを言われたし……」

「私、ひどいことなんて言ってないよ?」


 そうだったっけ?


「ひどかったのは高橋君の方だよ。言ってることは正しいんだけれど、言い方がちょっとひどかったから、『口は災いの元』って言っただけだよ? あと、先生に鍵を返しておいてねって言っただけだと思うけれどなー」


 確かに。それは別に悪態でも何でもなく、気をつけようね、というアドバイスじゃないか。


「そうか。ごめん。僕の勘違いだったようだ。それにしても、どうして田中さんは戻ってきたの?」

「だって、私、ピアノ同好会、とっても楽しみにしてたんだもん」

「え?」

「高橋君、男子なのにあんなに色んな曲を弾けちゃうなんて、すごいなって思ったし。しかも、とっても上手でかっこいいって思ったし。でもね。私はピアノ、好きだけどヘタっぴだから、恥ずかしかったの。だから今まで、ずっと家で練習してたんだよ? まだ下手だけど、なんとか最後まで通して弾けるようになったの。だから、高橋君に聞いてもらいたいなって」


 俺は涙腺が崩壊しそうになるのを、必死に耐えていた。何だよ、田中さん。すごくいい子じゃないか。ピアノが上手か下手かなんて、どうでもいいよ。上手になりたいって努力することが大事なんだよ。


 いや。待て。いやいやいやいや。待て待て待て待て。ここで勘違いしてはいけない。この間、勉強したばかりじゃないか。相手は女子だ。何がきっかけで、嫌われてしまうかわからないのだ。


「ね。だから、一回聴いてもらえる? それで、どこがダメなのか、教えて欲しいの。いい?」


 う、健気だ。俺は彼女の演奏を黙って聴いた。短い曲なので、あっという間に終わった。たどたどしい演奏ではあったが、途中で止まることもなく、最後まで弾ききったのは、立派だと思った。


「どうだった? どうやればもっと上手に弾けるか、教えてもらえないかな?」


 口は災いの元、彼女から教わったことだ。俺は慎重に言葉を選びながら、丁寧に説明するよう心がけた。


「ここはね。こっちの指使いの方が弾きやすいと思うよ」

「ほんとだ。そっかー。こう弾けばもっと簡単だったんだ」

「それから、ここはもう少し指を立てて」

「え? どんな風に?」

「ほら、こんな風に」

「私の指、立ってない? ちょっと、支えてくれない?」

「え? それじゃ、指に触っちゃうよ?」

「触っていいから。ちゃんと教えて?」

「触ったら、いやらしいとか、言わない?」

「言うわけないじゃない。教えてもらってるのに。どんどん触って。指だけじゃなくて、手でも腕でも。姿勢が悪かったら肩とか腰とか、どこを触ってもそんなこと言いません」


 俺は、ほんとに? ほんとに? と、何度も繰り返し確認をしてから、彼女の弾き方を根本から直していった。


「私、やっとピアノの弾き方がわかったような気がする。高橋君が教えてくれた通りにしただけで、ものすごく弾きやすくなった。ありがとう」


 それから数日、放課後は田中さんと二人でピアノを弾くことが日課となった。


「田中さん」

「なあに?」


奈って、いい名前だよね」

「ほんとに? ありがと」

「うん、物語のヒロインみたいだ」

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