性春は知らない

樋口偽善

ー僕たちが大人になった日ー

悠太ゆうたのことはすごく好きなんだけど…。なんかね…わかんないの」




・・・・・・・・・・




両想いなのに、まるで片思いしてるみたいだ。


沙耶香さやかさんと一緒にいると、時々そんなことを思う。


僕が大学1年生で沙耶香さんが大学3年生だった頃、僕から沙耶香さんに告白して付き合い始めた。


彼女は軽音サークルの先輩で、背が高くボーイッシュなファッションに身を包んでいることから、どちらかといえば同性からの人気が高いような人だった。


サークル内では3年生5人でバンドを組んでいて、担当楽器はギターだ。


切れ長な目に良く似合う鋭いギターサウンドも、彼女が人気である理由の1つだった


でも僕が彼女に惹かれたのは、ルックスや演奏だけではない。


普段は先輩と後輩であることを感じさせない友達の様な雰囲気だが、ふとした瞬間に彼女が見せる少女のような素直さ、マイペースさ、そしてきらきらした笑顔が僕を魅了したのだ。



『〽行かないでね 何処にだってあたしと一緒じゃなきゃ厭よ あなたしか見て無いのよ 今すぐに此処でキスして』



僕が告白した日の練習で、彼女のバンドは椎名林檎の『ここでキスして。』を演奏していた。


演奏後に彼女が見せた、まさに閃めくような笑顔があまりにも素敵で、僕は半ば衝動的に一緒に帰りませんかと誘ったのだ。


僕は練習の終盤に同級生たちと演奏した銀杏BOYZの『駆け抜けて性春』に、その決意を込めていた。



『〽あなたがこの世界に一緒に生きてくれるのなら 死んでもかまわない あなたのために』



そして原曲ではYUKIが歌っているパートは、スタジオにいたサークルメンバーみんなで合唱した。


そこにはもちろん、沙耶香さんもいた。



『〽︎わたしは幻なの あなたの夢の中にいるの 触れれば消えてしまうの それでもわたしを抱きしめてほしいの』



その日の帰り、僕の中の幻はすぐ横を歩いていた。


恋愛経験がないという彼女は僕の告白に対して少々戸惑ったような顔をしながらも、すぐにいつもの少女のような笑顔に戻って頷いてくれた。


僕たちの青春はここから始まったのだ。




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彼女と付き合って半年ほど経った頃、僕は初めて彼女を自宅アパートへ泊まりに来ないかと誘った。


彼女は少し目を丸くしつつもすんなり了承してくれて、数日後には練習の後そのまま家にやって来た。



「なんか、彼氏の家に行くって初めてで、どうしたらいいかわかんないや」



僕たちは2人で晩御飯を作ったり、TSUTAYAで借りてきたDVDを観たりと、ごく一般的なお泊り会を過ごした。


普段からまるで友達の様にケタケタと笑い合いながら過ごしている僕たちは、2人きりということもあっていつも以上に会話に花が咲いていた。


しかし23時を過ぎて観たい映画を観終わった頃、その空気は一変したのだ。


会話が一区切りついて静かになったタイミングで僕は彼女との距離を詰め、生まれて初めてのキスをしようとした。


友達の様な気楽な関係も楽しかったが、今日は2人きりのこの空間で恋人として一歩前進したかった。


彼女は僕を好きだと言ってくれたのだから、キスなんて当然受け入れてもらえると思っていた。


僕の頭の中には、告白をしたあの日に聴いた沙耶香さんの演奏が鳴り響く。


しかし僕の想定とは裏腹に、彼女は僕からサッと身を引いてしまったのだ。


咄嗟に彼女の顔を見ると、そこには僕を拒絶するような表情はなく、代わりにこれまで見たことがないほど両頬が紅潮した沙耶香さんの顔があった。


言葉が出ずただ彼女の顔を眺めていると、特徴的な切れ長に瞳からツーっと涙が流れ出たのだ。


その瞬間、自分の中からも何かが流れ出ていくのを実感した。


自分の中を満たしていたの存在が、どろどろと溶けていく。


この人はもしや、無理して僕と一緒にいてくれていただけなのではないか?


これまでもそう感じる瞬間が全くなかったわけではない。


例えばメールの返信が数日に1回だったり、向こうから遊びに誘ってくれなかったり、こちらからじゃないと手を繋いだことが無かったり。


そうした些細な出来事によって蓄積した不安が、この出来事によって一気に決壊した感じがした。


そうして決壊したものが、自分の中の彼女の存在をまるごと溶かして飲み込んでしまったのだ。


泣いている彼女を抱きしめてやることもできず、僕はただただ譫言うわごとの様に「どうしたの?」と繰り返し呟くことしかできなかった。


沙耶香さんはというと、ただただ「ごめんね」とだけ繰り返していた。


そして、どれほど時間が経ったのか分からなくなってきた頃に彼女は泣き疲れて眠ってしまい、僕はその地獄の様な空間に取り残された。


最愛の人が目の前で寝ているのに、これまでの人生で最も孤独な夜だった。


寂しさと虚しさを誤魔化す様に、僕は大好きな音楽で耳を塞いだ。



『〽僕を呼んでる声がしたよ 僕を呼んでる声がしたよ 君はどこだ 君はどこだ 僕らはなんにも なんにも できやしねえじゃないか』



恋人ができたら青春パンクなんて聴かなくても生きていけると思っていたのに。


僕にとって音楽は、どこにいても最愛の人に会いにいける魔法みたいなものだったのだ。


目の前で眠っている沙耶香さんは、音楽を通じて会いに行っていた以前の沙耶香さんと同じくらい遠くへ行ってしまった様な気がした。




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翌朝、目を覚ますと沙耶香さんはもう起きていて、洗面所で洗顔をしていた。


時刻は午前9時12分。


目をぱちぱちさせているのを見る限り、まだ起きたばかりなのだろう。



「…朝ごはん、クロワッサンでいい?」



僕が目覚めてから約10分後、やっとの思いで発した一言目に対し、沙耶香さんは僅かに微笑みながら頷いた。


僕たちは、昨晩の出来事については何も語らなかった。


お互いに“あえて”そうしていたのか、それとも話をするのが怖かったのか。


その時はそんなことを考える余裕すらなかったが、とにかく僕たちは、のだ。


僕の隣にいる彼女は相変わらず眩しかったが、かつて思い描いていた“幻”が再び僕の中に現れ、片想いをしている時に感じる様な満たされない虚しさが、じわじわと身体中に広がっていった。




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あの日以来、僕は彼女を家へは誘わなかった。


沙耶香さんも僕の家へ行きたいと言わなかった。


デートをする時も手を繋ぐのが怖くなって、並んで歩く時は少しだけ間隔を空けるようになった。


周りから見たらまるで歳の近い姉弟きょうだいの様だったかもしれない。


僕たちの関係を知る人たちはその様子を見るに見兼ねたのか、各々が思い思いにアドバイスをぶつけてきた。



「そんなのお前が我慢しないと成り立たない関係じゃん。別れた方がいいよ」


「ていうか、そんな反応されたのにまだ好きでいられるの普通に凄いね。それが真の愛情ってやつ?(笑)」


「沙耶香さんってそういうタイプだったんですか?あんなかっこいいのになんか残念ですね」


「沙耶香は恋愛したいとかあんまり思わないタイプだから心配してたけど、やっぱこうなっちゃうか…。あの子はほんとこういうの不器用だから、悠太くんがもっと押さないとダメだよ」


「なるほど、要するにやらせてもらえないわけね。よし、とりあえず来週K女子大学の子達と合コンするから、お前も来いよ。こういうときは一回遊んじゃえばどうでも良くなるって」



僕は苦しかった。


自分がいろいろ言われるのも辛かったが、沙耶香さんも何か責められる様なことを言われているんじゃないかと思うと、胸が張り裂けそうだった。


僕は身体のスキンシップが無くたって愛は成立すると本気で思っていたし、実際あの日以降も沙耶香さんのことは大好きなままだった。


ただ、今はただ、僕たちには少し準備が必要なだけだ。


時間が経てば、彼女の中でも整理がつくはずだ。


そして僕はいつか彼女の幻と決別し、沙耶香さん自身で再び満たされるんだ。


そんな僕と沙耶香さんの不器用な関係が再び動き出したのは、クリスマスイブの夜だった。




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「沙耶香さん。クリスマスイブの日、泊まりに来ない?」



思い切ってメールでそう送った。


あの出来事から約半年が経ち、僕の精神も平静を取り戻していた。


きっと向こうも今なら落ち着いて話せるはずだ。


クリスマスイブの夜、あの日の出来事について話し合って、和解して、その後であの夜の続きをしよう。


そう決意した僕は、クリスマスプレゼントとして、今月リリースされたばかりのMr.Childrenの新曲『しるし』のシングルをプレゼントすることにした。


この曲が僕たちの成長の記念日にしるしをつけてくれるよう願いながら。




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僕たちはその日、はじめてキスをした。はじめて抱き合った。


生まれて初めて感じた“愛する人と触れ合うこと”から得られるは、それ以外からは絶対に実感できないものなんだと確信した。


周囲の人たちがとにかく人との身体の触れ合いを求める理由が、なんとなく分かった気がする。


これに依存してしまったら、いずれはなんてどうでもよくなってしまう人が現れてもおかしくはない。


しかし僕が感じているこの幸福感は、相手が沙耶香さんだからこそのものだ。


長い間隣に最愛の人がいながらどこか満たされなかったこの心が少しずつ温まっていくこの感覚。


勇気を出して今日この場に彼女を誘ってよかったと思った。


しばらく抱き合ったりキスをしたりして過ごした後、僕は彼女の目を見て尋ねた。



「沙耶香さん、今幸せ?」



その瞬間、沙耶香さんは少し困った顔をした。


その表情を見た僕の心には、一瞬で不安が広がっていく。


しばらく無言の時間が続いた後、彼女は重い口を開いた。



「悠太と一緒にいるのは楽しいけど、でも、なんだろう…さっきの時間が幸せだったのかは、分からない」



何を言われたのか即座に理解できず、僕は少し眉を細めて首を傾げた。


その様子を見た沙耶香さんは付け足すように言った。



「悠太のことはすごく好きなんだけど…。なんかね、わかんないの。前にもこういう空気になった時、私が泣いちゃったせいで悠太を本当に悩ませちゃったと思う。でもね、あの時は別に悠太を拒絶するつもりなんて一切なかったの。あの日は、ただ単純に勇気が出なくて…。でも今日は一歩踏み出そうって決めてた。だから悠太がしたいことを受け入れてみたんだけど…」


「…幸せだって思わなかったの?」


「いや、悠太といる時間は本当に楽しいから、幸せじゃないっていうのは違うんだけど…。あのね、友達がみんな口を揃えて好きな人と抱き合いながらキスしてる瞬間が一番幸せだって話してて、沙耶香も実際にやってみればわかるよって言ってくれて…。沙耶香は経験がないから、今は無意識のうちに抵抗を感じてるだけだよってアドバイスしてくれたの。だから今日、悠太君の全てを頑張って受け入れてみようと思ってた。もしかしたら自分でも気づいていなかっただけで、私だってこういうことで幸せを感じられるかもしれないと思って。でも、結局よく分からないままだった」


「わ、分からないっていうのは、つまりどういう…」


「もしかしたらなんだけど、私って悠太や周りのみんなが持ってる“好きな人と触れ合いたい”っていう感情が欠如してるのかもしれない。だから嫌ってわけじゃないんだけど、そういうことをしてみたいとも思わないというか…あの…ん…本当にごめん…いつも…困らせてばっかりで…」



沙耶香さんは、以前とは違った意味を含んだ涙を流していた。


そこには右も左も分からず路頭に迷っている少女の姿はなく、自分が何者かを悟って失望している女性がいた。


彼女はこの半年間の間でたくさん悩み、それを踏まえて一歩前進した結果、一番見たくなかった自分の根幹を見て絶望してしまったのだ。


彼女の言葉と涙から、これらを全て悟ることができた。


彼女が小さくなって泣いている姿を見た僕は妙に落ち着き払っていて、その肩にそっと手を添えてこう言った。



「僕たち、別れたほうがいいのかもね」



彼女は震えながらも、無言でこくんと頷いた。


言葉は交わさずとも、お互いにとってベストな選択肢は関係性を変えることだと分かった。


僕たちは恋人になるべきではなかった。


悲しいことだが、こうするしかなかった。


僕たちはそのまま一夜を明かし、翌日は“友達”として遊びに出かけた。


クリスマス当日ということもあって、恋人同士にしか見えなかっただろう。


沙耶香さんがそれまでで一番自然な笑顔を見せてくれたことも、まるで彼女が恋人であるかの様に錯覚してしまう魔法になっていた。


こうして僕たちの青春は、性を知らないまま終わっていったのだ。




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4年生の卒業式が行われた日の夜。


軽音サークルが活動拠点としているライブハウスでは、サークルの追いコン兼卒業ライブが行われていた。


はじめは下級生バンドが出演し、その後に卒業生がパフォーマンスをするという流れだ。


ライブのトリは、沙耶香さんが所属するバンドだ。


会場も熱を帯びており、その日一番の盛り上がりを見せている。


僕は先週告白されて付き合い始めたサークルの後輩と共に、そのライブを見守る。


そしてライブも後半に差し掛かろうかという頃、どこか寂しげな演奏が始まり雰囲気がガラッと変わった。


いよいよ4年生の卒業が現実味を帯びはじめ、優しいバラードと共にそれが会場全体へと広がっていったのだ。



『〽最初からこうなることが決まってたみたいに 違うテンポで刻む鼓動を互いが聞いてる』


「この曲…」



僕は思わず言葉が口に出てしまった。



『〽︎どんな言葉を選んでもどこか嘘っぽいんだ 左脳に書いた手紙ぐちゃぐちゃに丸めて捨てる』


「これってちょっと前に出たミスチルの曲だよね?やっぱりいいなあ」



隣に立つ恋人はウットリとしている。


まさか自分の彼氏が元彼女に最後にプレゼントした曲だとも知らずに。



『〽心の声は君に届くのかな? 沈黙の歌に乗って』



よく見ると、沙耶香さんは涙を流しているのか少し俯き気味だった。



「沙耶香さん泣いてる…。やばい、私も泣いちゃいそう…」



みんな沙耶香さんが、卒業を悲しんで泣いているのだと思っている。


でもそうじゃない、僕にはわかる。


彼女は僕と目があった瞬間泣き出したのだ。



『〽ダーリンダーリン いろんな角度から君を見てきた そのどれもが素晴らしくて 僕は愛を思い知るんだ』



今の彼女と付き合った日、僕は彼女から誘われてデートをしていた。


その日、偶然バンドの練習に向かう沙耶香さんを遠目に見かけたのだ。


沙耶香さんも僕に気が付いたようで、僕たちは遠い距離で見つめあう。


新しい彼女はスマホで地図を見ていて全く気が付いていなかった。


沙耶香さんは顔いっぱいに張り付いた悲しい感情を無理やり引きはがすように笑顔を作り、足早に去っていった。


なぜ今そのことを思い出したんだろう。


今僕の隣にいる恋人は、相も変わらずウットリとしている。



『〽「半信半疑=傷つかない為の予防線」を 今微妙なニュアンスで君は示そうとしてる』



僕はたまらず駆け出した。


後ろから少しざわつく声が聞こえてくるが、そんなのは気にならなかった。


今はただ、沙耶香さんを見ているのが辛かった。



「ほんとに…マイペースなんだよ、いつも…」



僕の心が大きく揺さぶられる。



『〽私は幻なの あなたの夢の中にいるの 触れれば消えてしまうの それでもあたしを抱きしめてほしいの』



あの時歌った一節が、ふと脳裏に浮かびあがった。


僕の中で眠っていた幻が、再び僕に語りかけ始めたのだ。


その声に答えるように、僕は1人で歌い始めた。



『〽あなかがこの世界に一緒に生きてくれるのなら 月まで届くような翼で飛んでゆけるのでしょう』



そして僕は、沙耶香さんの演奏が響くライブハウスへ再び駆け出した。


もう一度、あの幻に会いに行くために。


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性春は知らない 樋口偽善 @Higuchi_GZN

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