第2話 浅葱色の君 <B side>
重苦しく、どうにも抗えない眠気が襲ってくる。
代々木から内回りの山手線に乗ったのだが、運良く席に着くことができた。しかも、端っこの席だ。右側のつい立てに寄りかかれば、揺れと共に瞼が閉じていく。
今日は少し、機嫌が悪い。
朝は冷たい雨に降られ、濡れた電車内の床にハンカチを落としてしまった。
雨の上がった昼、同僚と人気のランチに行こうとしたら、急遽取引先へ出向くように上司から言われてしまった。資料の準備が必要だったので、結局コンビニでおにぎりとサラダだけを買った。
そして昼休み明け早々に品川の会社から代々木の取引先まで出向き、今また会社へ戻る途中、ということである。直帰を許されなかったこともまた、機嫌が優れない一因だ。
そして2番線の代々木駅、山手線ホーム。黄緑色の上に青色の数字が乗っかっているのは、どうにも落ち着かない。1番線と2番線の山手線の看板は、赤色と青色が被さって、汚い色に見える。
私の目には、数字は色付きで見えるのだ。
今の気分は、チャコールグレーみたいな色。
気分や体調、時には文字も色付きで捉えてしまう。いわゆる「共感覚」というものらしい。物心ついた時にはもうこの感覚と一緒にいたから、これが少し独特な感じ方であるということは、人からきちんと指摘されるまで分からなかった。両親や姉は気づいていただろうが、誰もそれをおかしいとか、変わっているとか、奇妙だとか言うことはなかったのだ。
色が連動して見える人は多くはないらしい、ということは何となく分かっていたので、自分から話すことはなかった。ただ数字や文字を自分の見た通りの色で書けば、「センスがあるね」「ユニークな色使いだね」を言われることは多々あった。
◇
自分の見え方を、自ら人に話そうと思ったのは、あの人が初めて。
なぜ? と言われても、分からない。これもまた、感覚に過ぎないのだ。
大学の小さなサークルの新歓コンパで出会った時から、この人には色々話せるんじゃないか、いや、話してみたい、という気持ちがあった。
だから、碧を荷物持ちにしたのだ。そして、荷物持ちだけじゃ少々不満そうな彼に、用心棒という役割も追加したんだっけ。「そんな危ない場面ないだろう」と笑いながら、試合の日にみんなより早く集合することを受け入れてくれた。
そしてある日、池袋駅で話してみたのだ。数字には色がある、ということを。
だけど。
——そもそも、数字を色で捉えてないよ俺は。ってか、色で捉える人はちょっと、珍しいと思う
人生であんなに驚いた日はなかった。
あれだけ的確に指摘してくる人もいなかったし、そんな指摘をする人がよりによって碧だとも思っていなかった。
別に傷ついたわけじゃない。でも自分と彼は違う人なんだとはっきり分かってしまったような気がして、悲しくなったんだ。
私が彼の前でだけ、あえて「紫色の気分」が最高の気分であることを、伝えていたから尚更。
◇
……あぁ、眠いのに眠れない。
『次は、渋谷、渋谷。お出口は右側です。東急東横線、東急田園都市線、京王井の頭線、地下鉄銀座線、地下鉄半蔵門線、地下鉄副都心線は、お乗り換えください』
意識が微妙に残ったまま、渋谷まで来てしまった。
渋谷。
もうこの駅には、数年降り立っていない。
◆
大学3年生で引退するまで、何だかんだと口実を付けて、碧に会っていた。2人でご飯に行くことだって、何回もあった。
だけど彼には、「その気」はなかったようだ。
いつもハチ公の向かいにある、緑色の電車の前で待ち合わせしていた。
だから「その気」がないと感じてからは、ハチ公周辺は愚か、渋谷駅さえも避けていた。
きっと私だけだったんだ。
私だけが、「その気」でいたんだ。
緑の電車の中で彼を待っていた時間も。
スクランブル交差点で人波に溺れそうになって、一瞬手首をつかんでくれたことも。
ナンパされそうになった時、宝くじ売り場の裏にサッと私を隠してくれた日も。
それらはまだ思い出ではなくて、未練のまま心に渦巻いている。
同じ心の中にあるものなのに、そのフォルダの名前が違うだけで、こんなにも苦しい。フォルダ名を無理やり「思い出」に書き換えようとすれば、私の心はたちまちフリーズしてしまう。待機中のマークがもう、何年もぐるぐると回ったままだ。
◆
そんなことを考えていたら、いつの間にか恵比寿を通過し、目黒を通過し、五反田も通過して大崎に行こうとしていた。
大崎は、3番線に山手線のホームがある。この電車が着くのは1番線だけど、私にとって緑色の3に山手線のホームがあると分かると、どことなく安心する。
結局うたた寝すらできないまま、品川に着いてしまった。木枯らしの吹く中、会社に戻って上司に報告して、資料を1つまとめてから帰宅の準備をする。鞄を開けば、今朝無残に汚れてしまったハンカチがちらりと顔を出したので、また気分が下がってしまった。もう仕事は終わったというのに。
◇
何も変わっていない。
彼のことを妙に忘れることができないまま、もう何年も時が経ってしまった。
最後に連絡したのは、碧が「紫色の気分」の真相に気づきそうな時だったか。
彼は、東京スカイツリーのことだと勘違いしていた。こちらから答えを教えずに焦らしたら、返事は来なかった。
あの時、ちゃんと答えてあげれば良かった。
私が7歳まで住んでいた場所にあった、無骨だけど優しいタワーのことなんだよって。ゴルフ場の麓に立っている、全然タワーらしくないタワーなんだよって。
翌日が晴れだと、じわりじわりと紫色に点灯してお知らせしてくれる、ニュース代わりのタワーのことなんだよって。
東京スカイツリーの「雅」色を想像して連絡してきた碧の答えは、とっても惜しい答えだった。
だって、田無タワーの正式名称は、スカイタワー西東京なんだもの。少し似ているでしょう? 名前。
あの時そうやって伝えていたら、もう少し話が続いていたんだろうか。「へぇ、面白いな。俺も見てみたい」、そう言って、会う口実を新たに作れていたんだろうか。
タラレバを1人心の中で呟く自分に、そっと溜め息をついた。結構深い溜め息なのに、それは再び乗った帰宅ラッシュの山手線のどこかに消えてしまう。
◇
『次は、渋谷、渋谷。お出口は左側です。東急東横線、東急田園都市線、京王井の頭線、地下鉄銀座線、地下鉄半蔵門線、地下鉄副都心線は、お乗り換えください』
出口の方向以外は全く同じ内容のアナウンスが流れた。
通っている線は昔から変わらない。アナウンスだって変わらない。
私と同じ。変わらない。
その時、隣で女の子達の話し声が聞こえた。
「次渋谷だよ。渋谷で降りない?」
「え、原宿じゃなくて?」
「うん。ミヤシタパークまだ行ったことないから、行ってみたくて」
「あ、それ私も行ってない。降りよっか!」
ミヤシタパーク? 聞いたことない。
他にも彼女達の間ではスクランブルスクエアとか、渋谷ストリームとか、フクラスという言葉が飛び交っていた。全て聞いたことがなかった。
……いや、あえて聞かないようにしていたのかもしれない。
もしかして、変わっていないのは私だけ?
街はもう、変わっているの?
気づけば私は、電車とホームの広い隙間に気をつけながら、渋谷駅に降り立っていた。
急いでハチ公口に出ようとするけれど、間違えて南口に出てしまう。通路はまだ工事中で、水色とピンクの矢印を頼りに進むしかなかった。すると急に視界が開けて、大きなエスカレーターが目に飛び込んできて。
あの日、私を隠れさせてくれた宝くじ売り場は、もうそこにはなかった。
慌ててハチ公口の方へ回ってみる。
ハチ公は確かにそこにいるのに、緑の電車がなくなっていた。
彼を待っていた、あるいは彼が私を待ってくれていたあの場所すらももう、忽然と姿を消していた。
そんな、そんな。
たまらなくなって、辺りを見回す。後ろを振り返り、宮益坂の方面を見る。
だけど老舗の東急東横店もなくなっていて、背後には大きなビルがどっしりと構えていた。ビルのお腹に付けられた、電光掲示板。渋谷の街はもっともっと、明るくなっていた。
世界はもう、大きく、速く変わっている。私の想像を遥かに超えて。
すると、長らく待機中だった私の心が、ゆっくりと動き出す。
そして否応なく、フォルダの名前が変えられていく。
——未練から、思い出に。
もう、キャンセルはできない。このフォルダには、鍵がかけられる。
だってもう、場所すらなくなっているのだから。以前なら変わらぬ場所を見て否応なく思い出したかもしれないけれど、そのきっかけすら、消えていたんだもの。
思い出として、閉まっておけるよね?
喧騒の止まない都心のど真ん中で、静かに心に問いかける。
でも数年間溜めていた課題だ。答えはなかなかすぐには出てこない。
ふと顔の向きを109の方向に変えようとした。そうしたら、途中でハチ公と目が合った。もちろんハチ公は何も言わないけれど、君を見たら、大丈夫な気がした。
そっか、君だって変わっているんだもんね。
マスクを付けて、この世界に適応しているんだもんね。
そう思ったら、世界が紫色に見え始めた。
真っ暗になってしまった空。そんな空を昼のように明るくする、渋谷の光。そこに私の、紫色のフィルターがかかる。道行く人のマスクが紫色に変わる。
久しぶりに、ここでサクッとご飯を食べようか。
足取りは自然と軽くなっていた。
明日はきっと、良い天気だ。
東京colors 水無月やぎ @june_meee
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