東京colors

水無月やぎ

第1話 紫色の晴れ <A side>

 今でも鮮明に思い出す。 


 サークルの同期数人で、遊びに行った日のこと。

 いつもニコニコしている星羅せいらが、いつも以上にニコニコしていた。

 口角が上がって、目元がくしゃっとなって、身振りが大きくなっていた。「見てみて、東京タワーおっきい!」と言って、重心が後ろに傾きそうなくらい、顔を上に上げていた。僕はさりげなく彼女の背後に回って、声をかけた。


「何か今日、いつもより機嫌いいね」

「えっ、分かった? 紫色の気分なの」

「紫?」


 暖かいと暑い、のちょうど狭間くらいの熱を帯びた空の下で、彼女は笑った。


 心が晴れているの、と。


 星羅は元々明るい人だから、心が曇ったり土砂降りだったりしている時があることを、僕はそもそも想像できない。

 でも人間だから、気分の上下はあるのだろう。その中でも、今は快晴ということなのかな、と僕は思った。


 星羅のイメージというか、彼女のまとうオーラは、僕の中ではオレンジとか黄色だった。紫というと、どことなくクールなというか、ミステリアスな感じで、「接しやすいよね」「本当に性格が良いよね」と言われる彼女とは、少し違う気がしていた。


 それでも、なぜだか彼女は言い続けたのだ。


「紫色の気分」って。


 気分に色を使う人はあまり見ないから、僕は友達に、「『なんとか色の気分』って言う人、いる?」と聞いてみたことがある。

 だけど決まって答えはノーだった。


 星羅はやはり、ちょっと変わった感性を持っているのかもしれない。



 ある時のセリフを、僕は強く覚えている。


 あれは確か、他大学と交流試合をするために、池袋駅で待ち合わせをした時のことだったはずだ。

 僕の所属するサークルで、星羅はマネージャーを務めていた。彼女は仕事柄早めに着きたいらしく、なぜか僕は荷物持ち兼用心棒という謎の役割で、早番集合が義務付けられていた。だからこうして別の場所に行く時には、ほぼいつも2人で待ち合わせていた。

 僕の1本後の電車で来た彼女は、「お待たせ」の次に、唐突にこう言った。


「秋葉原と上野は私に合ってるんだよね。でも、他の駅はダメなんだ」

「……んーと、山手線の話?」

「そうそう。池袋とか東京は最悪。5番線だもん。そう思わない?」


 僕は最初、何を言っているのか本気で分からなかった。どういうこと? と首を捻る僕を見て、星羅は不思議そうにした。

 えぇ、僕の方がよっぽど不思議なのに。


「秋葉原と上野は、3番線に山手線のホームがあるの。3って緑だから、すごく合ってるじゃない? でも5は紫だもん。5番線を緑にするとか、結構すごい判断してるよ、JR東日本」

「……えーと、待って星羅。3って緑なの?」

「え、うっそ……そこから?」

「そ、そこから、と言われましても……」


 なぜか星羅はドン引きし始めた。普通でしょこれ、と少し語気が強くなった。だけど普通じゃない、と否定するのもどこか可哀想な気がしたから、僕は無言で意思を伝えた。

 彼女の自信に満ちていた顔から、少しだけ血の気が引いていく。そんな、心霊現象に出会ったようなリアクションをしなくても。

 でもそうした彼女のリアクションを、心のどこかでは楽しんでいる自分もいた。


「もしかして、これ普通じゃないの……?」

「うーん。普通、とは言い難いな」

「待って。普通って、もしかして3が紫で5が緑なの?」

「いや、そういうんじゃなくて。……そもそも、数字を色で捉えてないよ俺は。ってか、色で捉える人はちょっと、珍しいと思う」

「えっ……えーーーーー?!……うぐっ」


 最後は、僕が彼女の口を手で塞いだから出た音だ。

 いくら人通りの多い池袋駅中央1改札周辺と言えども、さすがに通行人が振り返りそうな声を出したので、僕は慌てて止めた。そんなにびっくりすることだとは、思わなかったのだ。

 僕の制止を受けて落ち着きを取り戻した星羅は、今度は聞き取れるかどうか、ギリギリなくらいの小声で言った。東武百貨店のドアから漏れ聞こえる音楽と、人々の足音の音量を自分で取り除きながら、彼女の声を聞き取った。


「1は赤、2は青、3は緑、4はオレンジ、5は紫、6は黄色、7はピンク、8は水色、9は黒、10は白、じゃないの?」

「そうなの?!」


 その理論で行くと、こうなるのか?


「じゃあ、東武の看板は赤と青と白だから、1と2と10ってイメージなの?」

「うーん、それはちょっと違う」


 違うのか。ますます分からないや。


「じゃあ、紫色の気分が良い気分ってことは、好きな数字は5なの?」

「それは全然違う」

「まじか」


 もう全く分からなくなってしまった。


 そこに他の路線から来たメンバーがぞろぞろと集まってきたので、この話は途中で終わってしまった。


「紫は、高いんだよ」


 星羅が小さく呟いたその言葉は、エントランスを開けっ広げにしている東武百貨店の中にたちまち吸い込まれてしまう。

 でもその最後の言葉だけが、ずっと、ずっとずっと、僕の耳に残っていた。



 「高い」の意味が分かった気がしたのは、サークルを引退してからだった。なんと、池袋駅の一件から2年後だ。我ながら、随分と時間がかかったものだと思う。

 唐突に、ふと思いついたのだ。

 分かったら猛烈に答え合わせがしたくなって、すぐにLINEをした。


『紫は高いって前に言ってたの、スカイツリーのこと?』


 スカイツリーは、基本的に水色の「粋」と紫色の「雅」、赤色の「のぼり」が毎日順番にライトアップされる。その中の紫色が好きで、「紫色の気分」になったんじゃないか? 高いって、634メートルという高さのことではないか? そう思ったのだ。

 1時間ほど経って、返信が来た。


『違うよ〜』


 その後、ニヤリという表現がよく似合うスタンプ。

 分からない。やっぱり、分からない。完敗だ。


 僕は心の中で白旗を上げた。だけど本人には、「参りました」なんて言わない。悔しいじゃないか。これでも一応、運動系サークル出身なのだ。負けるのは悔しいのだ。



 大学の4年間、なんだかんだで彼女のことがずっと気になっていた。

 だけど彼女のことを好きなのかどうかは、よく分からなかった。

 周囲の評判が良い彼女を恋愛対象として気にしていたのか、変わった子として見ていたから気になっていたのか。ただ荷物持ちとして一緒にいる時間が長かったから気にせざるを得なかったのか。

 社会人になった今でも、分からない。



 全ての謎が解けたのは、仕事で西東京の営業所に出向いた時だった。

 所長さんが、窓からの眺めを見せてくれた。夕方5時のチャイムが鳴った空は、もう真っ暗に近かった。4時頃にはオレンジと黄色の中間で、なかなか幻想的な風景を創り出していたのに。東京の夜は早い。


「あれは、送電線ですか?」


 1つだけ背の高い、無機質な鉄骨がふわりと浮き上がって見えたので、それを指差して僕がそう聞くと、所長さんはアハハ、と愉快に笑った。マスク越しだけど、割と豪快に笑っているのが伝わってきた。


「あれは田無タワーって言うんだよ。西東京のシンボルだ。……ショボいって思うかもしれないけど、夜は綺麗なんだぞ」


 そう言うや否や、その鉄骨の上部にじわりじわりと光が灯り始めた。


 スカイツリーよりも少々淡い、優しい紫色の光が。


「紫……」

「おお、紫か。良かった良かった」

「何がですか?」


 口角を上げた所長は嬉しそうに呟いた。


「明日も晴れだね」と。




——紫色の気分なの。心が晴れているの。


——紫は、高いんだよ。




 翌日が晴れなら紫色、曇りなら黄緑色、雨なら青色。

 そういえば、天気を教えてくれる田無タワーの近くで、星羅は生まれたんだっけ。小学校の1年生まで西東京にいて、黄色い西武新宿線をよく使っていたと、ちらっと聞いたことがあった。


 そうか、生まれた場所の記憶が、まだ。



 今、彼女がどこで何をしているのかは、詳しく知らない。

 サークルの同窓会でもなければ、もう会わないのかもしれない。


 でもあの池袋駅の一件以来、僕は3番線に山手線のホームがあれば嬉しくなるし、4番線が中央線だとなぜか得した気分になれる。

 紫色の謎が解けた今からは、紫色を見れば自然と心が晴れるようになるのだろう。


 営業所からの帰り道、僕は先ほどよりも少し濃い紫色になった田無タワーを、パシャリと写真に収めたのだった。

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